2018年8月21日火曜日

海鮮ちらしの正しくない食べ方!?





鮨は大好きで
それなりのマナーは
守っているのですが、
海鮮ちらしとなると‥‥。













たまにランチに鮨屋で「海鮮ちらし」をいただくのですが、
オクサマからハルコの食べ方の酷さにいつも、いつも、教育的指導が。
正しい食べ方マナーは一応(たぶん)判ってはいるのですがね。

●たぶん正しい海鮮ちらしの食べ方
小皿に醤油を入れて、ワサビは海鮮のタネの上に少しのせて、醤油につけてから
ご飯の上におき、下のご飯(酢飯)と一緒にいただく。
いきなり、真ん中から食べずに、端から順々にきれいに食べていく。
器の桶は決して持たない。
海鮮丼ではないので、あくまでもお造りや鮨の延長としていただく。

これに異はないでしょう。

●絶対間違いのハルコの海鮮ちらしの食べ方
小皿に醤油を入れる(ここまでは同じ)そこに、ワサビを全量投入し
醤油と混ぜ合わせる。
桶の海鮮タネをワサビ醤油に”浸して”ごはんの上に戻す。
これを、ひとつ、ひとつ繰り返して桶の上に並べる。
この工程が全て終わるまで食べないので、同時に食べはじめてた人は
すでに桶1/3くらい食べている。
全部のっけ終わっても、直に食べずに、タネとご飯の味の一体化を待つ。
そして、左手で桶を持ち、一気に食べはじめる。
時にはタネとご飯を”まぜまぜ”してビビンパ風にして食べる。
最後の米粒は、生姜(ガリ)できれいにぬぐって完食。

いやはや、目の前の冷たい視線が‥‥‥。

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2018年8月8日水曜日

ロブションの魂の父、ジャン・ドラヴェーヌ 。



ロブションが亡くなり、
フランス料理の
大きな灯りが消えた。
ロブションの「魂の父」と
いわれたジャン・ドラヴェーヌに
まつわる3つの物語。













ジャン・ドラヴェーヌ(Jean Delavene)は1957年にパリ郊外にブージバルに
「カメリア(Cameiia)」を構え、「シンプルな料理」の提唱をし、
元祖ヌーヴェル・キュィジーヌとも呼ばれていた料理人。
1963年ミシュラン1つ星、1972年には2つ星で「ゴーミヨ(GAULTMILLAU)」でも
高く評価されていた。
そして、1985年に現役を引退したが、1991年にパリのアンヴァリットの近くに
「Regin(レガン)」オープンしたが、半年で閉店し4年後(1996年)、77歳で亡くなった。
ドラヴェーヌはジョエル・ロブションを導き魂の父とも呼ばれた。

1992年の1月にアルザスの「Auberge de  L'ill」で食事をするためにパリから
ストラスブールに向かった。
コールマールで、アルザスワインを代表するのジョス・マイヤーのシャトーオーナ、ジャン・メイヤー氏に迎えてもらい、シャトー(ヴェンセントハイム村)を案内してもらった。
その晩は地元の居酒屋レストラン「Au pont du Corbeau(オー・ポン・デュ・コルボー)」に。
隣の客同士の肩がぶつかるくらいの狭い店で、ハルコはメインに”Tête de Bouf(牛の頭肉)"をオーダー。
これは地元の人気料理で、厚さが1cmもある”トクホン大判サイズ”が4枚分もあり、
付け合わせのジャガイモはタマネギや香草のたっぷり入った酸っぱいソースで食するも、
量が多すぎてギブアップした。

「Auberge de  L' ill」訪問も終わり、アルザスからパリに戻り、友人のフランス料理シェフ(坂田幹靖氏)と左岸アンヴァリット近くで待ち合わせて「Regin(レガン)」に。
昼時なのに客は老人二人とハルコ達のテーブルのみで、ちょっと寂しい感じ。

オードブルは“温かなジャガイモとタラのエストラゴン和え”で、
アントレはアルザスでも食べた牛の頭の肉をまたまた見つけ、“Tête de Veau"(こちらは仔牛)をオーダーした。
アルザスの料理に比すると繊細な味わいで、旨く満足(が、この時ある事に気が付いていなかった)。
坂田氏がメートル・ド・テールにドラヴェーヌさんはいないのかと聞くと、なんと、二人の老人の一人が本人だった。

ドラヴェーヌさん一緒に記念撮影をして、当日のカルトにサインまでしてもらったが、レガンはわずか半年に閉店。
今,思うと本当に歴史的なシェフとの奇跡的な出合いだった。

フランスから帰ってきた最初の日曜日に、横浜中華街でランチを食べに。
選んだ料理の一つが“冬瓜と蛙の炒め物”で、一口、口に入れた瞬間あっ、と思った。
「この食感、味…。うむ、最近どこかで食べたような気がする」
はた、と思い出したのは、1週間前にパリの「レガン」で食べた“Tête de Veau(仔牛の頭肉)"で、確かにどちらもゼラチン質が多く、似たような感じだった。
が、どうも腑に落ちない。なんだろう、この不思議な胸騒ぎは……。
判らない思いを抱きつつ、ドラヴェーヌさんのことも味のことも忘れてしまった。

だいぶ経ったある日に、『食の味、人生の味 辻嘉一 小野正吉』(柴田書店)という
対談集を読んでいた。
ご両人とも故人だが、辻嘉一(1988年没)は京都の懐石料理店「辻留」のご主人。小野正吉さ(1997年没)は、ホテルオークラの名総料理長。非常に面白く含蓄のある本だった。

その中の項目に、ジャン・ドラヴェーヌが登場していた。
小野正吉がジャン・ドラヴェーヌさんををオークラに招いた時の話で、
NHKの「今月の顔」という番組にジャン・ドラヴェーヌが“味の大使”というキャッチフレーズで来日しており、オークラでドラヴェーヌファエを開催。

さて、その対談に小野正吉が「ドラヴェーヌさんが、オークラに来たときにね、中国料理の「桃花林」で、二日でも三日でも働かせてくれって、白い服持って来て調理場に入ったんですよ。彼らは香港・中国にも行っているようですしね」
この部分で、何だか判らなかった輪が完結したのだ。

アルザスの“牛の頭肉”から始まり、ドラヴェーヌの“仔牛の頭肉”に行き、そして、横浜で食べた“冬瓜と蛙”がフランス料理から中国料理へとヌーヴェル・キュイジーヌで融合したのだった。
この『食の味 食の人生』に巡り会えなければこの謎は解決出来なかったという話。




2018年8月6日月曜日

「珈琲に玉子の殻」明治時代の廃物料理法





100年以上前の
日本人も一般常識として
こんな知識を
持っていたという話。














明治時代に村上弦斎という小説家がいて、彼の書いた『食道楽』は
徳富蘇峰の『不如帰』と並んで大ベストセラーになっていた。
内容は小説の形を取りながら、物語の筋に600以上の料理や食材が
はめ込まれていて、『報知新聞』の人気連載小説だった。
現在手元にあるは岩波文庫版『食道楽』(上下)で、中身を読んでいると、
日々連続の連続で、ブログを読んでいる感じなのだ。

この本にある料理の原型の記載があるので目次を追って行くと「第十四 廃物料理」。
明治38年(1905年)と100年以上前の日本でこのような知識を
持っていたとはちょっと驚く。

箇条書きにすると、
・満腹で消化を助ける化学的な方法として、果物(りんごの淡雪)を食べる。
・牛肉をやわらかくするためにパイナップルの汁をかける。
・心太(ところてん)を食べて黄な粉を舐めると心太が溶ける。
そして、りんごの淡雪の作り方には、「りんごを切って、砂糖を少し入れて、
「蛍火(とろ火)」で熱して汁を出して、やわらかくなったら裏ごしして汁を
ゼラチンで固めると。
「ゼラチンは?」という問いに「西洋膠(にかわ)」のことだと。
そして、珈琲を美味しくするには、玉子の殻を捨てずに取っておき、
珈琲を煎じる時に、殻を混ぜてよく砕いて、
搔き混ぜると珈琲のアクが殻についてL濾さずに茶碗に注いでも
黒い粉が出ずに,味も淡泊になり美味しいと。
(殻に残っている白身が及ぼす作用で、フランス料理では灰汁抜き
「ブランシール」に卵白を使う)

100年以上前に現在でも通用する調理科学を、村上弦斎は知っていたのだ。
もう、一度読み直してみよう。(完璧に忘れていた)
2012年に「職業としてのフードライター」というタイトルで村上弦斎のことを
書いており、ご興味有る方はこちらからも。
http://otetudaiharuko.blogspot.com/2012/11/4_22.html

2018年8月2日木曜日

煮物を真っ黒にしてオクサマに叱られる!






あぁ、全て暑いせぃだ!
と、料理の失敗を
暑さのせいにするハルコ












ごぼうが4本あり、オクサマに命じられて
半分をきんぴらごぼうに、甘酢を作り
一部を酢ゴボウ(ピクルス風)にして残りを煮物に投入。
しかし、料理が真っ黒になってしまった。

まず、きんぴらごぼうを中華鍋で作り、普段は煮物はストーブ鍋を使うが
面倒でそのまま中華鍋で作ったのだ。
ごぼう、ニンジン、コンニャクと鶏肉のシンプルな筑前煮風で、
だしは、野菜の皮などから抽出したホールフードを使い、
調味料はごま油が欠品していたので、オリーブオイルに鷹の爪を刻んで馴染ませて、
湯通した材料を炒めて、味醂、砂糖、塩を加えて、仕上げに醤油をかけまわしたのだが、
段々、料理が黒ずんできたのだ!
完成するとまるでイカスミで作ったように、ちぎりコンニャクと鶏肉の区別もつかない。

恐る恐る、オクサマに出すと
「何、この真っ黒な料理は!」
チコちゃんなら「ぼーっと料理作ってんじゃないよ!」
と叱られるが、オクサマは「ハルコ料理が前より下手になった」と。
しかし、食べてみると味はいいのだが、真っ黒じゃね。

真っ黒になった理由。
ごぼうはポリフェノールの一種であるタンニンを多く含む食材で、
鉄の中華鍋の鉄分とゴボウの加水分解性タンニン酸と化学変化を起こし
真っ黒になり、さらに他の食材にも影響した。
さらに、きんぴらごぼうを作った油で調理したのでタンニン酸はさらに
強く出たものと推定される。

以上現場からの報告でした。

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2018年8月1日水曜日

谷昇「塩・胡椒、塩と胡椒は全然違う!」




あさイチに
ル・マンジュ・トゥーの
谷昇シェフが登場していた。
塩・胡椒と
塩と胡椒の違いは?










青山に「ビストロ・サバス」が出来た頃だから
谷さんとの付き合いはかれこれ30年近くになる。

一人の料理人の料理の変遷を観ていたと同時に
谷さんから教わることも多かった。
その中で、谷さんが同じことを何度も繰り返している
調理法をのひとつを考えてみる。

『食彩浪漫』というNHKの番組に出てた時に、
「ここで、塩、胡椒をするんでね」という問いに
谷さんは「今、塩、胡椒といいましたね」と。
レシピでは、塩・胡椒はひとつのものとして書かれているのがほとんどだが、
「塩と胡椒は役割が違うので、一緒にしてはダメなのです」
塩は味、胡椒は香りで。味は最初に。胡椒は仕上げに香りとして使うと。

あさイチで鶏料理を作っていた時も、鶏肉皮目に塩をしても味が入らない
身の方に塩をして、身から焼き,胡椒は仕上げふる。
塩、胡椒を同時にすると胡椒は熱で焦げて、香りが無くなる。

この話は、谷さんから何度も教え込まれたメソッドなのだが、
世の中のレシピ本の多くは、塩。胡椒をして‥‥‥‥と。
レシピを見る度に、悩ましい話だ。

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2018年7月30日月曜日

豆腐は糸で切る!?






豆腐の切り方は
簡単なようで
けっこう難しい。












司馬懿(しばい・字は仲達)を主人公にした三国志劇を観ていた
厨房のシーンに、一瞬だったが不思議な調理法に目にとまった。
豆腐を糸で切っているのだが、「あやとり」の要領で
両手の指に糸を平行にかけて上から糸で切り落とす方法だった。

時代は紀元前200年の頃で、この時代には豆腐の原型は出来ていたはず。
その豆腐は、軟らかい「豆腐」、硬い「老豆腐」押豆腐の「豆腐干」なのか。
はてまた、豆腐ではなく、牛乳を発酵させた「蘇(そ)」なのか。
いや、蘇は三国志の後の遊牧民族の侵略以降なので考えられないか。

どちらでも良いのだが、気になったのは糸で食材を切るということなのだ。
チーズカッターの中には金属ワイヤーを使って切る道具があるが、
古代人が同時に同じ大きさに切る方法を考えていたのだろうか。

さて、その豆腐の切り方だが、軟らかく崩れやすために、
手のひらの置いて切る人も多いだろう。
以前、雑誌の連載で現在は店は無いが、江戸料理の第一人者
「大塚・なべ家」福田浩さんに豆腐料理を教わりに行ったことがあった。
豆腐料理といっても江戸時代には『豆腐百珍』という豆腐尽くの本も有り
大変奥深い世界なのだ。
習った料理は「豆腐粥」で豆腐を5㎜角の「あられ切り」をするという
かなり高度な技術を必要とするもので、福田さんは中国製の
小さな中華包丁を取り出して切っていた。
福田さん曰く「中国土産に頂戴したが便利で手放せない」と。
江戸料理の碩学者も絶賛していたのだった。
この包丁は薄刃で平で切った豆腐もそのまま鍋に入れられるという
優れものだったが、和包丁の菜切りよりもかなり薄く硬いものにはむいてない。
豆腐の賽の目切りの器具も商品化されて売っているが、
5mmはどう考えても不可能なのだ。
後日、この中華包丁をヒントに脇屋友詞シェフの中華包丁の
商品開発をハルコが行うが、これは別な話。

偶然観た、糸切りで何か開発が出来ないものだろうか。

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2018年7月27日金曜日

田辺年男・山と海、ときどき猫





岩手に
ヌキテパの
田辺年男シェフと
ハルコは
何をしに行ったのか?












猛暑40℃の東京を離れて、一路東北へGO!
釜石線に乗り換えて遠野まで、
遠野では、岩手の放送局のカメラが待っていた。

話は今年の2月に遡る。
仕事場の移転先を捜していた最中に
久しぶりにヌキテパへ行って、
田辺シェフとマールを呑みながら、四方山話。

その頃、浅草観音裏の「ペタンク」のレシピ本を制作中で、
ペタンクの山田武志シェフが、煮干入りのバター「にぼバター」を
『GQ』の誌面で紹介することになり、
田辺シェフらに「にぼバター」の料理共作を依頼されたと。

その時に、ハルコは閃いたのですぞ。
以前から海藻を使ったフランスのブルターニュバターの
日本版を作りたくて、各方面へ打診していたのだ。

田辺さんへ海藻バターの話をすると、速攻で面白との返事。
フレンチの世界で魚を扱わせさせてたら田辺年男の右に出るものはいない!

そうだ、田辺さんと海藻バターを作ろうと決心し、
仕事場を移転して少し落ち着いた頃に、釜石市で世話になっている
「釜石大槌産業育成センター」に連絡をし、
田辺シェフを三陸にお連れして、是非、海藻バターを一緒に開発しませんかと。

田辺シェフと日程を調整しているうちに、釜石市長とも面談することになり、
さらに、田辺シェフの後輩のオリンピックメダリストが
食事に来た時に、シェフが岩手で海藻バターを作るという話をしたところ
一緒に食事されていたのがテレビ局の方で、最近岩手の放送局の役員に
なり、その夜のうちにテレビ取材が決まってしまい、
冒頭の遠野駅に繫がったのである。
遠野では、バターを製造する牧場へ見学にいったのだが、牧舎の中に
猫がいて田辺さんへ甘えてまとわりつくのであった。
名前を聞いたら、無いそうな!

つづく

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2018年7月6日金曜日

のり弁にはじまり、のり弁におわる。



元々、大の付くくらいの
”海苔好き”なのである。
すし屋でも最初にかんぴょう巻、
中ほどにもネギトロ巻、
〆に新香巻と海苔巻きを
合間に食べるほどなのだ。









しかし、「のり弁」という海苔が主体の弁当には全く気をはらってこなかった。
吉田戦車の漫画「出かけ親』(ビックコミックオリジナル)の
ファンで、吉田戦車が色々な「のり弁」の食べ比べをマンガ描いていた
シリーズがありこれが非常に面白かったのだ。
それに、触発されて、にわかにハルコ「のり弁」の研究をはじめたのである。
(どんな研究なのだ!)

ネットで「のり弁!を検索すると、あるは、あるは、お弁当屋さんから
コンビニの「のり弁」まで詳細に真面目に調べているマニアが何と多い事か。

「のり弁当」自体は板海苔が出来た江戸時代までさかのぼるらしいが、
現在の「のり弁」の原型は1980年代に「ほっかほっか亭」がはじめたと。

「のり弁」の主たる構成要素は、店によって大分違うが
ご飯と海苔の二つが最低の構成要素で、
ご飯と海苔の間には、醤油でまぶした”おかか”か昆布の佃煮が参入する。
この緩衝剤の味付けの具合が「のり弁」の旨さを決めるのだ。

そして、海苔の上に鎮座する2大スターがちくわ天ぷらと白身の魚のフライである。
これに、味のアクセントにきんぴらゴボウ、たくあんや大根のさくら漬けという
陣容で、それ以外には、コロッケ(半分)、とり唐揚げ、卵焼き‥‥‥。
おかずがどんどん増えてくると「のり弁」らしさが無くなるなぁ。

弁当屋系では320円台からで、コンビニ系でも大体300〜450円とうワンコインで
おつりのくる財布に優しいお弁当だが、昨年銀座のオープンしたGINZASIXにある
「刷毛しょうゆ海苔弁山登り」は
倍以上の1000円の高級「のり弁」で話題を集めているらしい。
しかし、「のり弁」の他のおかずが豪華過ぎて
海苔は脇役のような感じがして個人的には違和感を感じる。

にわか、「のり弁」のハルコの結論は
海苔とご飯(おかか)とちくわの天ぷらこそが「のり弁」の神髄だと思うのだ。
白身魚のタルタルソースのフライは無くてもいいし、そこに、少し漬物があれば。
さらに、理想は半分に切ったちくわ天がもう半分入り、
それが磯辺揚げなら申し分がない。

問題は、ご飯の上の海苔が食べやすように四角く切ってあるか、
まったく切らないかどちらがいいかの結論には至ってないが、
子どもの頃、母親の作ってくれた
海苔の二段、三段重ね、海苔のミルフィーユこそ真の理想の
「のり弁」だと思うが、今度、作ろう!

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2018年6月27日水曜日

カラブリアの貧乏人のスパゲッティ




広尾の「インカント」」で10年
シェフをつとめた小池教之さんが
今年の2月26日に
四谷三丁目にオープンした
「オステリア ・デッロ・スクード」の
イタリア各州の地方料理が
面白いのだ。










シーズンごとに、イタリア各州にスィッチし
その地域独特の料理とワインを提供するのである。
開店時は「ヴェネト料理」でスタートしたが。
今回の訪問時に「カラブリア料理」に変わったのだ。

ハルコのカラブリア料理のイメージは辛いという印象で、
確かにメニューには「PICCANTE!!(ピッカンテ)」と
辛い印の料理も多く見られる。
カラブリアはイタリアの最南端にあり、この地域は大の唐辛子好きな風土で
辛い料理が苦手なイタリア人からは、辛い料理を見ると
こんなのは、カラブレーゼ(カラブリア人)しか食べないと。

さて、メニューの中に、気になるパスタがあり、
その名は「貧乏人風焼きほぐした目玉焼き和えスパゲッティ
(SPAGETTI con UOVO FRITTO "POVERELLO")」。

卵を使った代表的なスパゲッティと言えば「カルボナーラ」が有名だが
このパスタは「目玉焼き」なのである。

シチリアにはチーズの代わりにカリカリに焼いたパン粉をかけて食べる
「スパゲッティ・アッラ・モッリーカ」というものがあり、
パン粉は「貧乏人のパルメジャーノ」と呼ばれて、貧しい時代のパスタなのだが、
それに比肩するパスタがカラブリアの「貧乏人のスパゲッティ」なのである。

簡単にいうと目玉焼きを焼いて、ほぐしてパスタに混ぜるだけなのだが
本当に旨いのである。

カルボナーラは結構卵の扱い方が面倒でテクニックがいるが、
目玉焼きを焼いてほぐして混ぜるだけなので超簡単なのである。
ぜひ、小池さんに貧乏シリーズもやって欲しいものだ。

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2018年6月22日金曜日

コッペパンの聖地、盛岡「福田パン」



この1ヶ月ずいぶんコッペパンを食べた。
以前はあまり食べなかったが、
ちょっとハマってしまった。
それは。盛岡の「福田パン」で
コッペパンに出会ったからだ。

さんゆうねっと月イチコラム6月
「お手伝いハルコの食の森羅万象」
ご一読ください。


2018年6月18日月曜日

カボチャの種とワタの取り方に関する一考察



カボチャは硬い、
と、書いて、
硬い、固い、堅い
どれが、正しいのだろうか?
硬いの対義語は軟らかいだから
妥当か?
でも、固いの対義語は緩い。
堅いの対義語はもろい。
あぁ、面倒だが問題はカボチャが
かたいということ。









カボチャを切っておくようにいわれて、
まず、種とワタを取り除く。
何も考えずに大きめの”硬い”スプーンを使い
種とワタを力を入れて、なるべく実を削らないように
削り取る!うん、この場合は、そぎ取る、えぐり取る
どれが正しいのだろうか?

スプーンでなく包丁を使う場合は、切り取りか?
スプーンの形状を考えると、えぐり取るが一番適切か。

一体どこで、カボチャの種とワタの取り方を覚えたのだろうか?
何も考えずにスプーンを出していた。
手と指先で(硬いのでやらないが)取るときは、搔きだすか。
帆立貝の貝殻なら搔きだし易いような気がするが
すぐに欠けそうだ。

歯を使い、スイカのようにカボチャにかじりつき
種とワタをかじりながら、吐き出す。
これは、絶対気持ち悪いから止めた方がいい。

カボチャピーラーというものもあるが、
外の皮を剥いて、中の種とワタはピーラーの手元の部分を使う。
また、ピーラーで先端が金属の輪になっていて
こそげ取る構造のものもある。
だが、これならスプーンが最強の道具だろう。

と、種とワタを取りながらぼ〜っと考えていたハルコだった。

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2018年6月8日金曜日

とげぬき地蔵「ときわ食堂」物語




南大塚(巣鴨)にアトリエを
移転して丁度3ヶ月目。
自宅の西巣鴨から、地下鉄で
ひと駅の距離であるが、
天気の良い日は長商店街を抜けて
歩いて行く。
その途中には巣鴨一のガストロノーミ(?)
として有名な「ときわ食堂」があるのだ。









起点の「庚申塚商店街」と繫がっている「とげぬき地蔵商店街」」の間に
横たわるのは、都電荒川線(さくらトラムと)があり、この線を境に随分違うのである。

以前、両商店街の夏の福引きがあったが、「とげぬき商店街」の特賞は
ハワイ旅行だったが庚申塚商店街は缶ビールやノートに鉛筆だった。
(小学校のラジオ体操か)

庚申塚の謂れの猿田彦を抜けると、そこに「ときわ食堂庚申塚店」がある。
引越して来た当初は朝からアジフライを肴にビールを呑んでいる
オジさんがいてビックリしたもんだが、それは、25年後の自分の姿とは
その当時は知る由もない。

そして、とげぬき地蔵高岩寺の手前に「ときわ食堂本店」がある。
庚申塚店と比べると、4倍の規模で、「四の付く日(縁日)や土日祭日などは
朝から長蛇の列をなしている。(他に駒込店)
ここで、晩ご飯を食べる時は、夜の9時を廻っている時間で並ばずに入れる。

生ビールの当てにミニ盛りのコロッケや串カツ、蛸ブツを食べながら
今晩の定食はどうするか考えるのが楽しみのひとつである。
ご飯みそ汁お新香の270円の定食セットにハムエッグなんてのも悪くはない。

とげぬき地蔵商店街を抜けて駅の方に向かう途中に「ときわ食堂駅前店」がある、
ここは、庚申塚店の2倍弱の店舗で、数年前に開店した。
夜ギリギリ入店することもあるが、もっぱらランチで使っている。
ちなみに本日は豚肉炒め定食に納豆の組み合わせだった。

3店舗の客層はバラバラで、「庚申塚店」は地元密着型で(ハルコも)
近所の住人が昼夜にかかわらず飲んでいる人も多く、
昔ながらの定食屋さん的な雰囲気で、店のスタッフはエスニック度が高い。

「本店」はもう、観光地化してわざわざ遠方からの客も多く、
若い女性のグループやおだを上げているオジさん軍団も見かけるが、
昨年駅前に「アパホテル」が出来たせいか、
一人で出張飯をハイボールで食べているビジネスマン風もいる。
「駅前店」は近所の会社のサラリーマンや巣鴨の用のある営業マン風から
女子一人ご飯何どバラバラである。
こうして、ハルコは3店の「ときわ食堂」をこよなく愛顧しているのだった。

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2018年6月6日水曜日

八ッ橋騒動



京都の2つの老舗八ッ橋が
創業年数を
争って裁判を起こし
話題になっている。












先日、京都の菓子を紹介するコラムを書いている時に、
京菓子の店の創業年数を調べていた。
手元に資料があればそれを根拠にするのだが、ネツト検索で店のHPや情報を
調べて行くのであるが、中々どれが本当か悩むのである。
今回の騒動の元は創業開始年数が虚偽であるという訴えである。

事の真偽ははたして本当に判るのだろうかと思うのである。
訴えた「井筒八ッ橋」は「聖護院八ッ橋総本店」の創業元禄2年に
八っ橋が作られたという根拠になる文献は存在しないと。
ゆえに虚偽であるから表示を止めて損害賠償せよと。

どだい文献が無いなら、創業自体の年度を特定することはどちらにしても
不可能だと思わざるえない。

手元の資料を捜すと『たべもの起源事典』(岡田哲・編/東京堂出版)』では

「八橋検校が京都に住みつき貞享2年(1685年)に亡くなり、
黒谷金戒光明寺に葬られ門人の参詣が絶えず、4年後に聖護院八ッ橋総本店は
八橋検校の徳を忍び琴の形をした干菓子(聖護院八ッ橋)を創作したとある。」

さらに、井筒八ッ橋の記述では
「京都の水茶屋・井筒八ッ橋本舗初代・治郎三は、井筒から水を汲んでは
検校に用立てていて、あるとき、手桶の底に沈む小麦に、蜜、肉桂を混ぜ合わせて
堅焼き煎餅を作ることを教わり、のちに井筒八ッ橋となるとある。」

検校が生きていた時代と亡くなった時代の前後のこの2つの老舗の創業者が
交差しているはずであるが、
この事典の文献は索引総覧でもどれに該当するか捜せなかった。
この記述が正しいかは判断出来ないが、
なぜ、生前の検校に教わった八ッ橋を没後120年も経て創業したのだろうか。
また、元禄2年には「本家西尾八ッ橋」も
「聖護院八ッ橋総本店」同様に創業されている。

疑惑はさらに深まった。
しかし、本家、元祖の争いは端から見ると不毛だと思うのだ。
写真は『改訂調理用語辞典』より

気になる方は
・聖護院八ッ橋総本店
http://www.shogoin.co.jp/yatsuhashi/history/
元禄2年(1689年)創業
・井筒八ッ橋本舗
http://yatsuhashi.co.jp/history/index.html
文化2年(1805年)創業
・本家西尾八ッ橋
https://www.8284.co.jp/history/
元禄2年(1689年)創業
ハルコの活動は
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2018年6月4日月曜日

炭酸‥‥七拍子!





「あさイチ」で炭酸水を
特集で取り上げていた。
これは炭酸水にまつわるハルコの
七つの回想である。












一拍子‥‥炭酸水との出合いはマレーシアだったこと。
36年前に生まれて初めての海外旅行は、マレーシアのジャングルの中にある
「地中海クラブ(clubmed)チェランテインビーチ」だった。
その頃手がけていた媒体に「地中海クラブ」とのタイアップが決まり
マレーシアとシンガポールをモデルさんを2人同行して撮影に出かけたのである。
地中海クラブはフランスの会社ゆえにミネラルウォーターは炭酸水で、
昼の海岸は40℃の酷暑で喉が渇き切っていたが、この炭酸水には
最初は馴染めなった。
しかし、毎日飲んでいるうちに、だんだん慣れて炭酸水が好きになったハルコだった。
(写真中央に炭酸水の入ったピッチャー)

二拍子‥‥ラムネとサイダー、そして、ビール
マレーシアで炭酸水と出会ったが、炭酸飲料は物心つく頃から馴染んではいたのだ。
ラムネやサイダーとして、甘い飲み物は子ども心でも大好きで、今もそれは変わらないが
京都でイエローサイダーとも呼ばれる「ビール」はまた別なお話。

三拍子‥‥フランス料理とガス有り水
80年代は日本のガストロノーミの幕開けだった。毎月、新しいレストランが開店して
僅かな情報を頼りにレストラン通いをはじめた。
この頃はレストランでは、水は「ガス無しとガス有り」でガス有りを頼むとほとんどはペリエで、
氷とライムを添えていたが、氷もライム合わないのでペリエのみにしてもらった。
今でもライムを添えている店もあるが、ライムの香が邪魔して旨くないと思う。
ライムに合うのはジンロックだ!

四拍子‥パリのバドアのこと
フランス料理にはワインを合わせるが、水も重要である。
パリで食べ歩きをするようになり、店ではバドアが一番多かった。
硬度824のこの微発酵の硬水ミネラルウォーターは料理に一番合うと思っているが
日本のレストランではあまり(ほとんど)見かけたことがないのは残念だ。

五拍子‥‥イタリア料理とサンペレグリノ
フランス料理店ではペリエが当然のように出て来たが、イタリアンでも最初はペリエが
多かった。ある時からペリエからイタリアのサンペルグリノに替わった。
あるPR誌の編集をしていた時に、ミネラルウォーターを取り上げた時に、
代理店から「水に金出す人がいるの」とまでいわれたが、
サンペルグリノを写真に撮ったのは30年も前のことである。
ミネラルウォーターは完全に市民権を得たが、隔世の感である。

六拍子‥‥ウィスキーソーダかハイボールか
今は国産ウィスキーは人気で品薄のものまであるが、一時期は人気がない時代もあった。
ウィスキー復活の原動力は、なんといっても「ハイボール」だろうが、
昔からの酒呑みは「ウイスキーソーダ」なのである。
同じ炭酸水で割った酒だが、ちょっと違う。
ウィスキーソーダは、純粋にウイスキーを炭酸で割ったものだが、
ハイボールはウィスキーであろうが、
焼酎だろうが何でもありで、ウローン茶やレモン、梅干とワイルドな世界だ。
ハルコはウィスキーソーダ派である。

七拍子‥‥家呑み炭酸水
実は梅酒が好きなのであるが、昨年作った梅酒は飲み切ったので、仕方なく
「●●ーヤの梅酒」を買って飲んでいる。
飲み方は、氷を入れて冷したグラスに、梅酒を注ぎ、ウィルキンソンで割っている。
梅酒ハイボール(笑)であるが、暑い日の食前酒としては良いが「●●ーヤの梅酒」は
ちょっと甘すぎる。今年は大量に梅酒を作ろう。

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2018年5月25日金曜日

お手伝いハルコの食の森羅万象5月「コハダ」


月イチで「さんゆうねっと」コラムを書いています。
5月のテーマは「コハダ」
コハダは塩と酢で、完全なる結晶となる!
ご一読ください。




2018年5月24日木曜日

ハルコとリュックサック




リュックサックを背負わないで、
胸の方にかけている人を多く見かける。
混み合う電車で迷惑になるという
認識も広がったが、
街中でもアコーディオン弾きのように
前掛けをしている人が沢山いる。













ちなみにハルコは、20年以上リュックサックを愛用しているのだが、
その理由は病気で倒れた事があり、両手を使えるリュックサックにしたのだ。

リュックサックの別名は色々あり、ディパックやバックパック(米)、
ナップサック(英)で、リュックサックはドイツ語が日本語化した呼称なのだ。
リュックサック同様に背負うバックにランドセルがある。

明治10年に学習院が誕生し、児童が荷物を使用人などに持たせて登校するのを
「学校では皆平等、家庭環境を教育の場に持ち込むのはいけない」との理念のもと、
「学用品は自分の手でもってくる」べきだとしたと。
(ランドセルの歴史よりhttp://www.randoseru.gr.jp/history/rekishi.html)

そして、採用されたのがオランダの軍隊用背嚢(ランセル)が導入され
現在の「ランドセル」になったのは有名な話である。
大正天皇の学習院入学祝いに、伊藤博文が献上しこれが、
現在のランドセルの基準(学習院型)になったのだそうだ。
この日本型のランドセルが海外でも大人にも人気らしい。

小学校の時は、当然ランドセルで,その後は色々なバックを持ったが、
やはり、背負う形は合理的でリュックサックは一番良いのだ。
この20年で何個のリュックサックを背負ってきたのだろうか。
やはり、リュックサックの前かけは違和感があるんだ。

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2018年5月8日火曜日

ハルコ連休中、箱と挌闘す!



連休中は毎日自宅の
整理に明け暮れ
奥の奥まで徹底的に
掃除をしていたのだ。
なにせ、引越してきて以来
(25年も前ですぞ)
開けていないモノも有り、
タイムカプセル状態だった。











そして、大量に出て来たのが「空箱」!
陶磁器やワインの木箱から、ブランド品の入っていた頑丈な箱、
何が入っていたか判らない箱、葉巻の空箱と、
大小合わせてざっと60~70個。
中身を取り出して空箱になってそのまま、仕舞われた箱は、
その時の空気をそのまま保っていたのだろうか?
空箱を開けて解体するたびに、
この箱は5年モノ、これは、10年モノ、これは25年のヴィンテージと
時の流れに思いを馳せていたが、
わが家は空気しか入っていない空箱に占拠されていたのか。

安部公房の実験小説『箱男』は、段ボールの中に
閉じこもった男が箱の中から
世界を観る(覗く)という形だが、わが家で発掘された箱の山は
外からの圧力で時間を解放され、箱が「元箱」になり、
箱としての使命を終え連休明けのゴミとなった。

ワインセラーの奥から、25年以上前の葉巻を発掘(写真)。
昔,葉巻を吸っていた時に、中国で買ってしまった「王冠」だが、
あまりの不味さに、そのまま放置していたのだ。
吸わないが今はどんな味なのだろうか。

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2018年4月25日水曜日

「酒器」の「酔う」と「用」の関係





静嘉堂文庫の「酒器の美に酔う」
内覧会に出かけた。
ご存知のように静嘉堂文庫には
国宝「曜変天目」の所蔵もあり
これは特別展示されている。











収蔵コレクションは時代順に展示されているが、
青銅器の収蔵が少なく、本来なら中国殷代中期頃の「カ(漢字が出ない)」や
「爵」のように青銅で脚が3つ付いている酒器が無いの残念だ。

現在「銚子(ちょうし)」というと流涎型で燗酒などに使うものが一般的だが、
銚子は元々長い柄のついた金属や木製の器で、神前の結婚式で巫女さんが
三三九度に使うものといえば分かりやすだろう。

瓶や樽から酒をすくい、左右の口から酒杯に注ぐためにのものだが、
もうひとつ、銚子から酒杯に移すために「提子(ひさげ)」という
上部に手の付いた器がある。
この「提子」の手の付かないものは「片口」であるが、どこから別れてきたのか、
あるいは全然関係なく登場してきたのかは想像するしかない。

ここで、もうひとつの器を思い出した。
それは「とんすい」という器だが、学芸員に質問したが、
彼は「とんすい」自体を知らなかった。
あまり名称は一般的ではないかもしれないが、誰もが目にしている器で、
鍋物をする際に鍋の具材や汁を入れる小さな持ち手が付いている
「ちりれんげ」といえば判るだろうか。
この「とんすい」も中国から渡来したもので本当のことは判らないのだが、
中国の蓮の花の形をした陶器のさじである「湯匙(たんし・中国語ではタンチー)」が
日本に伝わるときに“とんすい”と誤って伝わったという説もある。

原型は「銚子」と同じように長い柄が付いていたものが、
段々短くなり現在のような形に落ち着いた。
「とんすい」は当て字で「呑水」とも書くのだが、これで酒を飲んでいても
おかしくはないはずだ。

この「とんすい」から派生した器をいくつか考案して実際に制作していた。
有田焼きの「味見千代口(ちょこ)」や中国料理の脇屋友詞さんと組んで
「小籠包レンゲ」(多治見)など商品として販売もしていた。
写真は(有田福泉窯)その中の試作品のひとつである。
また、展覧会を観て新たに手がけてみたいと思った。

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2018年4月20日金曜日

ディープ京都「おいと」のおでん






京都で仕事があり、
祇園「おいと」に

4ヶ月ぶりに訪れた。









京都は高校の修学旅行に1度来ただけで、
実は20年以上足を踏み入れたことが無かった。
30代の頃は、フランスやイタリアなどヨーロッパでの食べ歩きに熱中していたが、
40代になり、ふと日本の料理はほとんど知らないことに気が付き、
それなら京料理から学ぼうと決心し京都通いがはじまった。

そして、20数年ぶりの京都に着いて真っ先に行ったのが祇園の「おいと」だった。
関東炊きとも関西おでんとも違う「おいと」のおでんの中の
”すじ”を初めて食べて衝撃を受けたのだ。
「なに、この味!濃厚なドミグラソースじゃない!」
東京で食べる”すじ”はサメのすじや軟骨の練り物だが、
ここのすじは本当の“牛すじ”なのである。
この“牛すじ”にハマり、京都に来るたびに「おいと」通いがはじまり、
大阪で所用があってもわざわざ、牛すじ食べたさに
京都で途中下車までしていたのだった。

「おいと」の夜は一見さんお断りだが、昼はだれでも入れる店で、
予約ができないので開店前から並ぶ必要がある。
20数年前は開店の12時位でも入れたが、段々人気になり、11時半でも相当並ぶようになった。
「おいと」の大将が元気な時は2回転していたが、
2016年辺りから大将の体力を考えて1回転になり、
さらに早めに並ばなければ食べられないようになってしまった。

昨日は12時半を廻っていたが、平日だったせいか、すんなり入店出来た。
昔は牛すじは最後に頼んでいたが、今は最初に「牛すじと豆腐」を頼むのだ。
濃厚な牛すじを淡白な味の豆腐が受けとめてくれるのだが、
これを、ご飯の上にかけて食べたらさぞや旨いだろうと
いつも心の中で思っているのだ。

一度だけ夜の「おいと」を訪れたことがあるが、一見さんお断りの店なので、
紹介は縄手の老舗骨董店の女将にしてもらった。
昼に偶然この女将と一緒になった時に
「あとから、殿さんきますから」と大将に言っていたら、
本当にお殿様の家系で元首相が入ってきてびっくりしたこともあった。
南座が近いのもあり、歌舞伎役者や芸能人も多いのだが、夜行った時は、
カウンターに昔あこがれだった女優さんがいてドギマギしてしまった。

ただ、夜は一人片手ほどの料金なのでそう易々行ける店ではないのだが、
ここで底知れない、ディープ京都に第1歩を踏みしたハルコだった。

「おいと」に通い通いはじめて四半期近くなるが、
現在大将は最初の一人の客におでんを出して後は任せていて、
相当弱っているようで心配だ。

大好きな京都でいつまでも日本一旨い「牛すじ」が食べるように祈りたい。

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2018年4月17日火曜日

「油」は「ゆ」?「あぶら」?



NHKのあさイチにNYの
三つ星シェフが登場して
スタジオで料理を作っている時に、
アナウンサーが解説で
「オリーブ油(ゆ)」という
言い方が気になってしまった。










レシピを書く際には、「オリーブ油」「オリーブオイル」と表記するが、
文字で書く「オリーブ油」は個人的には「オリーブあぶら」と
考えていたからで、最近は「オリーブオイル」と表記している。

『NHK日本語発音アクセント辞典』には、「オリーブゆ」
しかないようなので、アナウンサーは正しい表現をしているのだが。

「オリーブゆ」と聞くと、頭の中で「オリーブ湯」に
何故か変換されてしまうのだ。
何だか気持ち良さそうな銭湯のイメージだなぁ。

「湯」は水を沸かした「湯」だが、中国料理で「湯」と
言うとスープになり「湯=たん」となる。

これは、「ゆ」は音読みで「あぶら」は訓読みからの
日本語のルールでそうなっているらしい。
「ごま」や「なたね」は日本語の訓なので「ごまあぶら」
「なたねあぶら」と読み、「ごまゆ」「なたねゆ」とは読まない。

鯨を捕った油は「くじらあぶら」ではなく
音読みで「鯨油=げいゆ」となる。

「サラダ油」や「オリーブ油」は外来語で音読みなので
「さらだゆ」「おりーぶゆ」となる理屈なのだが、
何となく釈然としない。

「ゆ」というと柔らかくヘルシーで、「あぶら」というと
キツくてヘルシーじゃないという
差別からなのじゃないのかと勘ぐってしまう。

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2018年4月6日金曜日

ハルコ、常温について多いに悩む。





料理レシピには、
「卵を常温にしておく」という記載がある。
冷蔵庫内の卵の置かれている温度は、
3〜5℃程度で
ゆで卵を作る場合普通は水からゆでる。
しかし、常温が問題なのである。
常温って何だろうか、と重箱の隅を突く
ようなことを考えてしまった。








調べてみると常温は、摂氏15℃をさす(小学館デジタル大辞泉より)。
つまり、冷蔵庫から3〜5℃の卵を取り出し
常温の15℃にするには、10℃以上温度を上げないといけないことになる。

しかし、日本の四季は温度の差が大きく、
年間を通じて15℃というのはありえない。
東京の温度で調べると、だいたい4〜5月の気温になる。
だが、暑い日や寒い日があり常温は一定していない、

まぁ、15℃に卵を戻したとして、次に水からゆでるために
水道水を鍋に注ぎ卵を入れる。

ちょっと待つて欲しい!
今度は水道の温度を見てみよう。
気候温度と水道の温度はほぼ比例して、4~5月の場合の
水道の水温は13℃で常温にした卵と近い。
しかし、1年中で一番寒い1〜2月の水道は5〜6℃くらいとで大変低いのである。
逆に暑い8月の水道の温度は平均27℃で、35℃を越すような酷暑の日に
水道の蛇口から湯が出て来たかと思うほど温かいのだ。
これが、赤道下や南極での常温なんてものが入ったら常温界は大混乱するに違いない!

急激な温度変化は卵の中の膨張を引きおこし、卵の気室にある空気がいっきに膨張して殻が割れてしまうのだ。
そう考えると、冬場に常温にして水に入れると卵は10℃も下がってしまう。
何のために常温にしたのか判らないのである。

常温ひとつとっても「解」は見いだせない。
少し時間をかけて「料理・調理法の解/最終回答」を
これから考察してみよう。

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2018年3月15日木曜日

ハルコ超訳「ガストロノミー」十食図(じゅうしょくず)



十牛図(じゅうぎゅうず)というのを
ご存知だろうか。
仏法の教えのひとつで「どんな人にも
仏の真源、仏性が備わっているが、
迷いの世界に入り込みもがき
苦しんでいるので、
そこから逃れる方途を十の牛の図で表した。

これを「ガストロノミー」で解釈すると‥‥‥。









(1)食べ歩き(尋食)
 「ガストロノミー」の導き手に出合い食べ歩きをはじめたが、
  何が何だか判らないで途方にくれる。
(2)さらに食べ歩き(見跡) 
   ガイドブックや口コミによって「ガストロノミー」を
   求めようとするが、自分の味覚や知識に自信がなく他の人の意見に左右される。
(3)達成したと勘違い(見食)
   一応「ガストロノミー」を理解した気分で人に教えて自慢する。
(4)極めたと勘違い(得食)
  「ガストロノミー」が判ったが、さらなる深みがあり、戸惑う。
(5)操る(牧食)
  「ガストロノミー」を自分で把握し、コミュニティをはじめる。
(6)一体化(騎食帰家)
  「ガストロノミー」と自分が一体化して一番幸せな心境になる。
(7)ボケる(忘食存人)
   食べ歩きに飽きて、今朝食べた料理も忘れ、「ガストロノミー」自体を忘れる。
(8)さらにボケる(人食倶忘)
   「ガストロノミー」を求めていた理由を忘れ、
   自分が何をしていたかも忘れ、忘れたことも忘れる。
(9)無我の境地(返本還源)
   何もない清浄無垢の食の世界からは、
   ありのままの食の世界が目に入る。
(10)リセット(入鄽垂手)
  「ガストロノミー」の 悟りを開いたとしても、
   そこに止まっていてはダメ。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、
   悟りへ導く必要があるり(1)の食べ歩きの若者に出会う。
   以下無限ルーフ

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2018年3月10日土曜日

311。この7年、そして、仕事場の移転

















東日本大震災から7年経ちました。
本当にあっという間です。
2011年3月11日午後2時46分南青山の事務所で激震に見舞われ、
西巣鴨まで歩いて帰宅し、その後は余震に怯えつつ
テレビで映し出される凄惨な画面を観ては呆然としていました。

釜石に実家があり、親族が釜石、大槌に
大勢居住して、不安で心が圧し潰されそうでした。
電話も通じず、安否確認が出来たのは1週間後でした。
母親の生家のあった鵜住居地区で、伯母と従兄弟が
津波で行方不明になり、遺体は1ヶ月後に発見されました。
半年以上も何をするにも無気力になってしまいました。

しかし、ご縁があり、震災後の故郷の復興のために
岩手県の産業創造アドバイザーに推薦していただき
色々なお手伝いをすることになりました。

23歳で独立し、会社を作りスタッフを抱えて
長年仕事をしてきましたが、還暦になったら
個人ベースで出来ることをしたいと思っていたのです。
でも思惑通りには進まず、3年前に事務所を縮小し南青山から
代々木上原に仕事場を移しました。

年齢的にも身辺の整理を考えるようになり、
今年の311に自宅に近い南大塚に仕事場を移転しました。
大量の資料や本を処分し、身軽になろうと思い小さなスペースですが、
オクサマとハルコのささやかなSOHOで、
仕事場は「アトリエ」と呼称しました。

今までにやりたいと考えても手付かずのことや、やり残したこと‥‥‥。
思いを新たにリセットします。
みなさん、よろしくお願いいたします。

※アトリエから池袋方面を望む(写真)


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2018年3月5日月曜日

すみません。びっくり水ひとつください!





一番影響を受けた編集者
佐々木和子さんの
レシピ用語の逸話。
ハルコはフリーランサーに
なって一時期、家庭画報編集部に
その時の話が‥‥。






佐々木和子さんの料理チームに新入社員が来た。
まだ、右も左も判らないお嬢様だった。
佐々木さんが少し入院した時に、
彼女に料理の撮影の下準備にレシピメモを渡し
買いに行く様に指示した。

そのレシピの中に”びっくり水”というのがあった。
彼女はお店に行って「びっくり水ひとつください」と。

まだ、佐々木さんが入院中で「綿棒、買ってきて」と
彼女は「麺棒」を持って来た。

これは、実話である。

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2018年3月4日日曜日

きつね色はあるのに、たぬき色がない!?





ハルコが編集者の中で
一番影響を受けたのが
佐々木和子さん(故人)という方で、
家庭画報の料理担当副編集長を経て、
レタスクラブの創刊編集長になりその後、
フリーとして活躍していた。














その佐々木和子さんが所属していた「食生活ジャーナリストの会」の
分科会で「料理用語の統一」というテーマで取り組まれていた。
「レタスクラブニュース」というネツト上に
以下の記述を見つけた。

「きつね色(に焼く に揚げる」
主に、材料を焼く・揚げる際の、材料やころもの表面の状態を指す色合いのこと。
淡い黄色よりも、濃い茶色に近い色で、おいしそうな色の表現の一つ。
材料への火の通り方は、加熱の温度と時間によって違ってくるので、
きつね色だからといって、必ずしも火が通った状態ではない。
表面がきつね色になっていても、中まで火が通っていないこともあるので、
表面の色だけで判断しないこと。

この「きつね色」は昔から当たり前のようにレシピでは登場するが、
初めてレシピを見た人は一瞬なんのことだろうかと思うのは。
なぜ、きつねが焼き色として取り上げられるかというと、
油揚げがきつねの好物も言われて
油揚げ=きつね=きつねうどん、と連想するからだが、
なぜ、揚げ玉でたぬきそばがあるのに
たぬき色は採用されなかったんだろうか。
フランス語のレシピでも翻訳は「きつね色」と書いているものあるが、
表記的には「キャラメリゼ(caraméliser)」が一番近いだろうか。
砂糖を煮詰めていくと「カラメル」(色)になり、
調理の過程で肉などの表面に香ばしい焼き色も表す言葉だ。

レシピは一簡単なようであるが、長い間に先人達が積み上げてきたものである。
ただ、誰でもネットで料理を発信出来る時代ゆえに、
ネツト版料理用語を編集してみたいと思った。

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2018年2月18日日曜日

幻の恩賜の葉巻




クラブデトラントの事績を
調べるために、
事務局長を務めていた
「ヴァンセーヌ」の
酒井一之さんのご自宅を訪問した。
酒井さんの書斎には、その当時の
議事録やクラブデトラント主催の
「料理フォーラム」など
大変に貴重な資料の山だった。








「シュークルート作っておくよ」というありがたいお言葉に甘えて、
晩ご飯までいただいてしまった。
自家製のソーモン・フュメ、サラダとドレッシング、
そして、シュークルートは、豚のソーセージやハムの他に豚足まであり、
大満足の贅沢な晩餐だった。
食後にディジェフティフでコニャックから、ポワール・ウイリアムス、
に自家製の杏仁のリキュールと相当痛飲してしまった。

ヴァンセーヌ時代には食後に、オクサマとハルコと酒井さんと
3人でカルヴァドスを1本飲み切ったこともあるくらい皆大の酒好きなのである。
話が煙草の話になり「その当時はよく葉巻も吸っていたね」と昔話をしていたら、
酒井さんがヒミドール(葉巻の保存箱)を持って来て、
中から1本の葉巻を取り出した。

「恩賜の葉巻だよ」

えっ、恩賜の煙草は見たこともあるけれど、恩賜の葉巻ってあるんだ。
恩賜と言っても今の若い方は知らないかもしれない。
恩賜とは主君から賜るという意味だが、日本では天皇から下賜される
物や公園などで使われている。
酒井さんも何かで顕彰されていただいたものらしい。
繁々と見ると十六八重表菊の御紋入りのリングが付いた葉巻なのだが、
煙草はかれこれ10数年前に止めてしまったのだ。
しかし、この恩賜の葉巻は2006年を最後に無くなってしまったと。
もし、吸えたらどんな香りと味がするんだろうかと考えると、
ちょと残念だった。
 
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2018年2月12日月曜日

天才、田辺年男の「焼きハマ。たそがれ〜」




本当に久しぶりにヌキテパに行った。
恵比寿の「あ・た・ごおる」の時代は
自宅が近く週に2~3回も通っていたのだ。
田辺年男といえば魚のグリエをさせたら
フレンチのシェフで一番だと思っている。
昔からシェフの味は変わらないと思っていたが、
実は凄く洗練されていたのだ。
スープ・ド・ポワソンも以前よりも
ピュアで深い味合いになって、
メインの魚は言うまでもない。






そして、一番食べたかったのは「ハマグリのグリエ」なのである。
ハマグリの蝶番を最初に切り落とすのだが、これは、焼いている時に
貝が開かないようにするためである。
次にハマグリ全体に小麦粉をまぶして焼いている時に貝の破損を防ぎ、
網を熱してハマグリ全体を炎を最強にして包むように焼くのだ。
焼き加減はハマグリの表面が真っ黒になるまで焼いて、
最初に切った蝶番にフォークを差し込み
熱々のうちに頬張るのだ。
鼻孔に香ばしく焼けたハマグリが充満し、口に熱いまま入れて咀嚼すると、
ジューシーで弾力のある身が快感である。
なぜ、単に焼いただけのハマグリがこんなにも旨いのだろうか。
そんなのは季節になると浜でも焼いているが、
それは、それで旨いが、田辺年男の「ハマグリのグリエ」は別次元なのだ。
おなじ魚介を焼いても、田辺シェフが焼くのと、スタッフが焼くでは全然違う。
シェフにこのことを聞いてみる・
「みんなは、焼いてある魚の焼き色の具合を見て判断するが、
それじゃ,ダメなんだ」
田辺年男は焼けたかどうか、裏をヒックリ返して見たりしない。
じつと炎を見ながら火がどこで、どうなっているか「火の道」を”感じる”のだそうだ。
東京体育大で体操のオリンピック候補選手となり、
その後プロボクサーに転身するという天性の身体能力の持ち主だから出来るのだ。
だから、「田辺年男は天才である。それも紙一重の」と本人に言ったら
笑っていた。

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2018年1月28日日曜日

クラブ・デ・トラント以前の東京のレストラン



クラブ・デ・トラントが結成されたのは
1980年のこと。
少しその前の東京を中心としたレストラン
事情を見てみる。
あまり遡るのも考えものなのだが、
洋食料理店は明治期からあるが、
戦後か当たりの事情から。





ホテルや会館系は、進駐軍によって接収された丸の内ホテルや帝国ホテルなどがあり、接収解除になるのは1952年以降のこと。
街場のレストランは、イタリアンの方が早く広まっていて、(イタリアレストラン興亡物語もその内に)。本牧に「イタリアンガーデン」(1950年)、フレンチでは同年銀座「エスコフィエ」が開店している。
これは、やはり進駐軍相手のレストランとしてなのだ。
1953年は「グリル満天星」、1955年イタリアン「シシリアン」フレンチでは日比谷に「南部亭」翌年は「ニコラス」が出来ている。
1957年には帝国ホテルでバイキングが始まり、1958年には六本木の「アントニオ」が開店。アントニオは戦時中イタリアから日本へ向った軍艦が、イタリアが連合軍に降伏したので、神戸で抑留されたアントニオが戦後マッカーサー元帥の料理人になり、その後レストランを作ったのだ。
ハルコが昔勤めていた事務所の並び(西麻布から六本木)にあり、いつかアントニオで食事をする“身分”になりたいと思っていたが、確かその並びには「西洋膳所ジョン・カナヤ」(1971年)もああった。
そして、60年安保の時に開店したのがその後の六本木カルチャーの発信地になった「キャンティ」がオープン。
東京のレストランの発達には、1964年の「東京オリンピック」と、1970年の大阪での万博の成功がひとつのキーワードになっているのは間違いがないだろう。旅行の自由化と海外からの日本へくる客の需要の増加で、
1970年代は帝国ホテルが「フォンテンブロー」、ホテルオークラが「ラ・ベル・エポック」を開業し、いよいよ日本のフランス料理の幅も奥行きも出始める。

そして、1960年代から海外に修行に行っていた料理人が帰国して、各地のホテルなどで活躍をはじめた。
銀座「レカン」などを経て恵比寿に「ドゥ・ロアンヌ」を開業した井上旭、六本木「オー・シュヴァル・ブラン」の料理長に鎌田昭男、六本木「ロテュウス」石鍋裕、「ラ・マーレ・ド・チャヤ」熊谷喜八、「ビストロ・ラ・シテ」勝又登、「アピシウス」高橋徳男、銀座「レカン」城悦男、「ヴァンセーヌ」酒井一之とキラ星のごとくスターシェフが出てくるのだ。
(続く)
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2018年1月25日木曜日

再び、クラブ・デ・トラントの時代 



時代は1970年の半ばで、狂乱のオイルショック騒動があった時代である。
その時代に就職したデザイン事務所で、『家庭画報』のレイアウトマンとして働きはじめていた。





雑誌は巻頭に料理の特集を組み、新しいレストランの紹介も多かった。
やがて、フリーのデザイナーとして独立をして、1年ほど『家庭画報』編集部に
席を置き同誌のデザインを担当していた。
その頃、ヨーロッパの各地のレストランで修行を終え若い料理人達が、
続々日本へ帰国していた。
『家庭画報』でも、帰国した料理人たちが登場し、新しい感覚の料理で誌面を飾った。

1981年発行の『饗宴』第4号(季刊で五冊で廃刊)に、
四谷の迎賓館を背景に12人のトックコートに身を包んだ30代の料理人たちが
腕を組んでいる写真が掲載されている。

そこに書かれているのは、

「ホテルから街場のレストランへ、
最近のフランス料理の流れはしだいにこのようになりつつある。
本国でのヌーヴェル・キュイジーヌに呼応するかのように、
日本でもフランス料理を若返らせた街場の料理人たちがいる。
30歳以上のシェフ(たち)が集まったオーバー・サーティのメンバー16人。
かれらの目指すところは、たんなる同業の連帯だけではない。
高品質の魚、肉などの共同仕入れから、
ゆくゆくはフランスワインの買い付けまで広がる。
フランス料理の未来にとって、かれらに寄せる期待は限りない。」

これが、「クラブ・デ・トラント(Club des Trente)」と呼ばれるグループの
始まりである。
クラブ・デ・トラントは、海外(主にフランス)で修行した料理人たちが
1970年代後半から帰国した30代の料理人の会だったが、
30数年の月日が経つと現役引退したり、会長の高橋徳男さん(2009年)も
亡くなってしまい、段々その当時の証言者がいなくなる危機感を抱いている。

クラブ・デ・トラントの存在は日本にフランス料理の定着を果たすとともに、
料理が文化であることを認知させ、スターシェフを排出し、
後に続く若手シェフたちの道標にもなったのだ。

季刊『饗宴』第4号(婦人生活社)1980年 9月30日発行
写真右から(カッコは当時のレストラン名)
吉野好宏(ジャンドマルス) 石神和人(ベル・フランス) 酒井一之(ヴァンセーヌ)
井上旭(ドゥ・ロアンヌ)  秋山茂夫(サンマルタン)  高橋徳男(ラ.マレ)
鎌田昭男(オー・シュアヴァル・ブラン) 青木亨(イゾルデ) 坂井宏行(ラ・ロッシェル)
熊谷喜八(ラ・マレー・ド・チャヤ) 城悦男(レカン) 寺島雄三(楠亭)
※写真にはいないメンバー/石鍋裕(ビストロ・ロテュース) 扇谷正太郎(エヴァンタイユ) 佐藤健二郎(シャトー・リヨン) 勝又登(ビストロ・ラ.シテ/オー・シザブル)

この時代の料理人たちの軌跡を今年こそは残す必要があると思って活動を開始したい。
不連続で「再び、クラブ・デ・トラントの時代」を発信する予定。

ハルコの活動はFBからも。
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2018年1月21日日曜日

料理番組の生まれた日



このブログでも何度か書いたが、1月21日は「料理番組の日」なのだ。
朝から深夜まで料理をテーマにした番組が何と多いことか。
昔は地上波と限られたテレビが、BSやら多チャンネルになり、
本当に料理番組があふれんばかりだね。



歴史的に、日本ではNHKの『今日の料理』が1957年11月4日の放送開始だが、
最初の料理番組はイギリスのテレビが発祥なのだ。
1937年1月21日にBBC放送で始まった『夕べの料理』という番組が、
テレビを通して初めての料理番組だったそうな。
しかし、1937年!? この頃にテレビ番組があったんだ!
調べてみると、BBCが試験放送を経て本格的にテレビ放送を始めたのが、
前年の1936年11月2日で、ほぼテレビの創世記から料理番組はあり、
そして、第二次世界大戦が勃発して中断し、終戦後の1947年6月7日に
再開され、最初の「料理番組」の料理は「オムレツ」。

その時の番組の料理人はマルセル・ブルースタン(Marcel Boulstin)という
フランス料理の料理人。
このマルセルは1878年生まれで、番組に出た時は59歳、1911年にロンドンのコヴェント・ガーデンでレストランを開店し、
大変人気の店だったよう。(戦争中の1943年に65歳で亡くなっている)
マルセルのモットーは「シンプルフレンチ」だそうで、
現在にも繋がるフランス料理の先駆者なのだ。
ちなみに1963年の1月21日は、日テレの『3分クッキング』が開始された日で、
さらに古くは、1954年に宝酒造が『タカラお料理帖』という番組を提供しており、
これが日本での最初の料理番組らしい。

小学校1年の時にわが家にテレビがやってきた。
家に帰るとテレビの入っていた木箱(木箱でずぞ!)がどーんと玄関に置いてあった。
テレビ自体の成りは家具の様に大きいが、
画面は小さい14型で絹織物のカバーがかけられていた。
家で初めて観た番組はNHKの「今日の料理』で料理の先生は江上トミ。
もしかしたら、この番組がハルコの料理の原点なのではと思う。

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2018年1月19日金曜日

始末の哲学するハルコ



ハルコが料理をする時にいつもオクサマに
叱られることがある。
食材の本体よりも、皮等のあまり可食しにくい
部分を先に使うことだ。













国連食糧農業機関(FAO)の報告では、
世界で生産される食料のうち約1/3にあたる約13億トンが廃棄されていると。
また、日本でも年間1900万トンの食品廃棄物が出ており、
これは世界の7000万人が1年間食べていける量なのだそうだ。
家庭における食品ロスの内訳は(消費者庁の調査・2013年)、
1人1日当たりの食品ロス量(41g)のうち
過剰除去(55%)、直接廃棄(18%),食べ残し(27%)。
食べ残しは、料理を作っても食べられないで廃棄されたもので、直接廃棄は、
賞味期限等が過ぎたりして捨てられている食品のことだが、
半分以上占めている「過剰除去」となんなんだろうか?

これは、調理途中で食品を加工している際に出る廃棄品で、
例えば、ダイコンやニンジンの皮をむいて皮を捨ててしまう、
これが、「過剰除去」の正体なのだ。
昔から、東京と大阪の家庭の台所から出る生ゴミは大阪の方が圧倒的に
少ないというデータがある。
伝統的に大阪や関西の方が「始末」に長けているからだとも言われている。
「始末」というと、「始末する」「始末におえない」など、
一見マイナスなイメーのようだが、
「物事の始めと終わり。始めから終わりまでの細かい事情、または成り行き」
「ある物事の最終的な状況。
特に、よくない結果」「物事の締めくくりをつけること。
後片付けをすること」「浪費をしないように気をつけること」という意味が有り、
『商家の家訓』(徳間書店、吉田豊氏編訳)の中でも、
「始末とは、『始』と『末』、すなわち、始めと終わりのことで、
『経済活動における一貫した計画性』というのが本来の意味だった」と
語られているように、計画と結果を合わせる、
計画性と無駄を省く合理性、そして質素と倹約の哲学までをさすのある、と。


オクサマ談。ハルコは始末が出来ない!

※写真は非可食部分を使ってベジブロス。

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2018年1月18日木曜日

すしのタネとネタ、どちらが正しいのか?

書籍を制作する際には、
本文の文字統一を必ず行う。

1冊の本の中で同じことを言っているのに、
言葉(文字)が違うことにより読者を
混乱させないためでもある。

NHKBSプレミアムで
伝説のすし職人、藤本繁蔵のドキュメント番組を
観ていた時にちょっと違和感を感じた。

番組ではすしのマグロやコハダの材料を
「タネ」と言っていたが、
藤本繁蔵のゆかりの方々が「ネタ」と言いテロップにも「ネタ」と表記されていた。



重箱の隅を突く様な話だが、番組には「タネ」「ネタ」がバラバラに出て来て
一瞬どちらが正しいのかと混乱してしまった。
表記的に正当なものは「タネ」だが、すし職人の隠語として逆に置き換えて
「ネタ」と言うようになったことは承知している。
隠語であった「ネタ」が一般に認知され「タネ」「ネタ」とふたつの言葉が
使われるようになるのは「二重語(にじゅうご・doublet)」という。

最初の書籍の用字用語の統一の際にこの二重語が登場する際は、(原文ママ)とかと
表記しこれは、誤記ではないと記載するルールがあるのだ。
藤本繁蔵のドキュメント番組の後を続て観ていると「美の壷」も「すし」だった。
ここでも、「タネ」と表記していたが、
項目のひとつの「すし飯」にいきなり「シャリ」と出て来た!
「シャリ」だって、すし職人の隠語なのに一方では隠語の「ネタ」を使わず「タネ」と。

校正者なら突っ込みたい所である。
(※写真は谷中松寿司・野本さん)

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