2012年12月28日金曜日

神戸短信……3

今朝の神戸は昨日と違い、天気がよくありません。
だんだん雨になるよし。


昨日は撮影後に、カメラマンさんらと遅い時間(また、ラストオーダ)に、元町で中華。
久しぶりに車海老の老酒蒸しをいだだきました。
いや、本当にヘトヘトです。
今日も残りの撮影ですが、戻って年内の雑用をこなすために、午後には東京へ戻ります。今日は松前屋の社長も来るのに、残念ですが。
年明けに大阪で取材します。

ハルコのブログは年内は本日で終了です。
皆様年末年始は楽しく過ごせますように。
よいお年を。

ハルコ
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2012年12月27日木曜日

神戸短信……2

昨日も朝から夜まで、終日スタジオで撮影立会。
せっかく久しぶりに神戸に来たのに、ホテルとキッチンスタジオのある地下鉄だけの移動です。

昆布を中心にしたスープ本の企画で、ハルコも顧問をしている大阪の松前屋さんからも編集協力していだだいております。
初日はだしや料理の素材撮影で、予定より多くの時間がかかってしまい、料理自体の撮影は夜にずれ込んでしましました。
でも、いくつか調理の撮影をしているうちに、「これはいい!(ちょっと、孤独のグルメの重松清風ナレーション)と、心が高揚してくるのです。
あぁ、やはり撮影の現場は面白いですね。

長年、撮影には数え切れないくらい立ち会っておりますが、現場の雰囲気はいつも好きです(じゃないのもありますが)。
料理人が料理を作り、スタイリストさんが器を選び、カメラマンがシャッターを押し、編集者やアートディレクターが画面(昔はポラでしたね)を確認して進行する。
きっと良い本になるはず。あとはいかに売れるか、売るかということを考えねば!

撮影は次の日も続くので、切りの良い所で終了してホテルに戻り、ラストオーダーギリギリの鮨店で晩ご飯。なぜ今日は街場ではなくホテルにしたのかというと、この鮨店は年内に閉店との情報ゆえ。
明石の本店がある鮨店でしたが、瞠目しました。
普段から馴染みのある“江戸前”ではない、ひとつの鮨の味は新鮮で目ウロコでした。
いや、鮨はまだまだ面白いぞ(あぁ、また孤独のグルメのナレーションになった)。

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2012年12月26日水曜日

神戸短信……1


ホテルから見た神戸の朝

クリスマスの晩に神戸です。
3年ぶりの神戸ですが、クリスマスは初めてでした。
ホテルにチェックインして、三宮に晩ご飯を食べに行く途中で、サンタ帽を被ったオネエサンがたくさん客引きをしていました(ハルコどこ歩いているんだ?)。
 遅い時間だったので、ラストオーダーが遅めの店を選んで晩ご飯。
「鶴屋」という肉専門店へ。さすがに神戸の肉は旨し。

今回の神戸は、来春発刊する料理本の撮影のために来ております。
年来の友人のスタジオで、今日から3日間お籠りです。

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2012年12月25日火曜日

1979 ジャパン・アズ・ナンバー・ワンのクリスマス


33年前に『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』(エズラ・ヴォーゲル著)が出版されて、一大ベストセラーになったことがありました。
昨日の朝日新聞を読んでいたらこの『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』を、二人の識者が両論を取り上げている記事が目に入りました。

1979年第2次オイルショックがあり、イラン革命、イギリスでサッチャー首相が誕生し、韓国では朴正煕前大統領が暗殺され、ソ連はアフガンに進行する……と結構派手な年ですね。
また、この年は歌謡曲の黄金期のようで、数々の大ヒットが生まれています。まだ、人々が歌を共有出来ていた時代ですね。
「魅せられて」も「北国の春」も「いとしのエリー」も「おもいで酒」「関白宣言」「セクシャルバイオレットNO.1」「YOUNG MAN」「舟唄」「愛の水中花」「異邦人」「燃えろいい女」「窓」「虹とスニーカーの頃」「カサブランカ・ダンディー」……。書ききれませんね。ハルコがカラオケで歌える歌ばかりです(それに引き換えきょう日の歌は……)。
この年にソニーから“ウォークマン”が発売になりました。と言っても、もうウォークマンでカセットテープを聞いていたなんて知らない世代も……。

団塊の世代は、33年前には32~35歳と社会の中心を担う年齢に達して、まさにその後のバブルの準備期間に『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』が出版されたのです。
何だかわけも無く、「日本って凄いんだ!」と皆が思っていた時代ですね。
その団塊の世代が33年を経て、経済を担うボリューム層が定年を迎えてから、社会が停滞した時代に入ってしましまいました。
日々の仕事ではいかに、この厚い層に向けて消費の活性化を試みる事を考えていますが、中々難しいのが実情です。

2012年のクリスマスにハルコは33年前のベストセラー『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』の時代を振返ってました。
もう、その頃には戻る術はありませんが、来年こそは良くなる事を祈るばかりです。
明日から神戸へ出張で、年内のブログは短信のみをお送りします。
よいお年を!
ハルコ

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2012年12月21日金曜日

コレステロール値が3倍だ!

今朝は、今年最後の日赤での定期検診の日でした。
早朝8時から血液検査をして、9時から主治医の先生の問診です。
一応前日は酒も飲まずにおとなしくしていますが、さすがに一晩飲まないくらいじゃ
数値は下がりませんね。
17年前に救急車で日赤に運ばれてから、数えると定期的な検診通院は有に三桁を越してますね。
毎日、朝晩決められた薬を飲んでいますが、本当は食生活をキチンと見直す必要があります。しかし、運動でウォーキングしている途中に、とりすき屋さんでたらふく食べてお酒を飲んでいるようじゃダメですね。


「一病息災」という言葉がありますが、字句通り「ひとつ位病気があるくらいが、健康に気をつける」と言った意味でしょう。
また、“息災”“仏の力で衆生に降りかかる災難から逃れる”という仏教用語でもあるのです。
まぁ、検査の結果は相も変わらず、ハルコの“H"が沢山付くハイレベルでした。ふぅ~~。
ちなみに“H"が付いたのは、
γーGTP:上限の2倍(当然酒の飲み過ぎ)
K(カリウム):ちょい上限越し、
LDL-C(悪玉コレステロール):これも、ちょい高
総コレステロール:上限から38ポイント上
血糖:前回はセーフでしたが、今回は上がっている
そして、TG(中性脂肪)が400で上限から246ポイントも上!
平均値から見ると3倍!
しかし、現時点では薬で「痛風」も押さえ込み、昼から“ビールクズ”をしているダメハルコですが、もう少し考えねばと思うのです。

これは「喰い改める」必要大ですね。
酒の飲み過ぎ、食べ過ぎ、脂肪の多い食事、高カロリーの摂取…… 
そして、運動不足!

それに、一番いけないのは“ストレス”だと思うのですが、こればっかりはね。
なんせ、オクサマの前だと緊張して……。
えっ、本当かって? いや、ジョークですよ(たぶん)。ホホホ。

2012年12月20日木曜日

月イチ鮨「はしぐち」

いよいよ今年もあと10日ちょっととなりました。
いや、早いものですね。
今年も色々な料理に出会い、楽しみました。例年ならハルコ今年の通った店ランキングをブログで書くのですが、どうも今年は書いても面白くないようです。
何故なら、今年はかなりばらけているのです。ばらけるというのは、初めての店が多いかったからなのです。

昨夜も行きましたが、行くたびに次回の予約をしている鮨の「はしぐち」は、月イチで通っているので、今年は年12回制覇(たぶん)しました。
最近「はしぐち」に行くたびに、中国系のお客さんが必ずいます。
橋口さんに話を聞くと、どうも中国人の口コミで、日本に行って鮨を食べるなら「はしぐち」で、と流行ってるらしいのです。
昨夜は3人の中国人兄弟でしたが、本当は4人兄弟だそうで、皆顔が香港映画のホイ兄弟そっくりで笑ってしまいました。
鮨はすでにインターナショナルな料理になっているので、判りやすいかもしれませんが、海外に行くと「これって鮨!?」と思うものに出会い、びっくりしますね。

ちょっと意地悪ですが、他のお客さんが頼んでいるのを観察するのも、鮨の楽しみのひとつです。
普段「はしぐち」には19時の予約で、だいたい21時くらいには食べ終わって、橋口さんとよしなごとを話していると、遅いお客さんが入ってきました。
どうも、初めての方のよでうでした。
そう言えば、紀尾井町に「はしぐち」があった頃、初めて行った時のことを思い出しました。
「おまかせするので、どんどん握ってください」とハルコが言うと、「お客様の好みが判らないので、言っていただいた方がいいのですが」と言われ、昨夜もその話をすると、橋口さんは「そんな失礼なこと言いましたか?」

初めて「はしぐち」に来た若い(たぶん)カップルは、つまみで少し切っていただき、握りになりましたが、カウンターの上の小さな籠に入っている布巾を見て「これで、手を拭くのですか?」と聞いていました。
ツッコミたくなりましたが、がまん、がまん。

1月の予約もして、「はしぐち」がまた、来年の生活の区切り、句読点になります。
鮨も今年の食べ納めでしょうね。

2012年12月19日水曜日

シュークリーム

今日は、神保町でお世話になった事務所へ、お土産に柏水堂のシュークリームを持って行きました。
何でも毎月19日は「シュークリームの日」だとか。
“じゅーく”“シューク”でシュークリーム、としたらしいですね。
個人的な感想ですが(えっ、ハルコのは全部そうだろうって?)、有名パティシェさんがお作りになった複雑なスィーツよりも、ハルコはシンプルなシュークリームが好きなんです。シンプルなシュー生地とクリームは、あんぱんや大福もちに繋がる共通点がありますね(えっ、全然違うだろ!って)。

フランス語では“シュー・ア・ラ・クレーム”、英語では“クリーム・パフ”と言われるこのシュークリームの起源は定かではないのですが、1533年にイタリアのメディチ家のカトリーヌが、フランスのオルレアン公(後のアンリ2世)に輿入れの際に一緒に同道したパステレッリ(製菓人)が、“ポプラン”というシュークリームの先祖の様な菓子を創造したのが始まりのようです。
1775年頃にテイロロワが生地の配合を変え、「火にかざした“パテ・ショー(熱い生地)”」と呼び、さらに1798年にアヴァィスが生地を改良し、丸いキャベツ(シュー)に似ているので“シュー生地”と命名したそうな(資料を当たっていたら年代に関して記述がマチマチで、アヴァイス1960年説もありますが、経緯を考えて1798年説を選択しました)。さらにさらに、これをアヴァィスの弟子のカレームが仕上げたと言われています。

おぉ、ここにフランス料理の大物アントナン・カレームさんが登場ですね。
カレームさんは近代フランス料理の最大の巨匠です。
ちなみに死後刊行された『19世紀フランス料理術(全5巻)』の他に、『王国の菓子職人』や『絵入り菓子職人』なども刊行されており、現在に繋がるレシピ(ルセット)本を随分出された方ですね。

現在は、シュークリームもコンビニでも買えるようなお手軽なものになっていますが、先人が長年、改良に改良を重ねて出来たということを念頭に、今日のおやつはシュークリームにしよう。

2012年12月18日火曜日

ステマ問題

昨日は朝から、撮影、イベント参加、打合せと、終日動きっ放しでした。最後の伊勢丹での撮影が終了したには夜の10時30分!
1日14時間働いて、食べたのは途中サンドイッチ1個だけ、全部料理に関係していたのに、終日ランチ難民でした。
で、日曜日に人生最大の体重になったの今朝量ってみると、マイナス3,5キログラム。ハルコどんだけ喰ってるんだ!


さて、この所話題の“ステマ”です。
えっ、ステマって何だ? 念のためにご存じない方のために。
“ステマ”とは「ステルスマーケティング(Stealth Maketing)のことで、テレビやネットなどを通じて、消費者に商品宣伝と判らないように宣伝することです。
一部のタレントさんが、ネットオークションに参加もしていないのに、ブログ上でさも、自分が参加したようにニセの情報を出して、その報酬として金銭を授受したことも記憶に新しいですね。
「ステルスマーケティング」は別名「アンダーカバーマーケティング」ともいい、ネットの普及で多くなって来ましたね。
以前はテレビや新聞の大媒体で宣伝していたのが、個別の媒体で有効な宣伝を一番ピンポイントでメッセージを伝達する手法で、企業等は大変注目している手段です。

普段商品開発やコンテンツ開発をしていて、その後に販促活動も合わせて仕事としておりますが、他人事ではないのですよ。
ハルコも表の販促活動とは違う形で個人的に、ブログやFBを通じて、商品宣伝に近いこともしています。
しかし、それは自分で商品開発に関与した物や、この商品ならお勧めしたいという自分の責任での紹介です。

拡大解釈をすれば、レストランを薦めるという行為も同じですね。
★付きや評価付きのガイドブックから、食べログのようなコンテンツ紹介も、本当はそれを発信した人の信頼の問題ですが、たまに(いや、しばしば、か)えっ!と思う時もあります。これから、ちゃんと考えなくてはいけない問題ですね。
見る側の「ネットリテラシー」「ネットリーダビリティ」を鍛えるということでもありますね。

2012年12月17日月曜日

体重が落ちない!

昨日は選挙でしたが、早々と結果が出たのでテレビの速報も見る気もせず、早寝しました。

今日は今日とて、早朝から夜まで何だかスケジュールが立て込んでいます。
終日外で撮影が朝と夜で2つ、打合せがひとつ、イベント参加がひとつと、ハルコとしては久しぶりにハードな1日です(このブログは8時台に書いてます)。
この所さすがに年末でもあり(うむ、普段から変わらないか)、食べる機会が多いのですが、相当飽食気味でした。


金曜日は、昼に大きな海老フライをビールで流し込み、夜からはボリュームのある高カロリーな忘年会で痛飲し、その後〆にラーメン屋さんで叉焼麺と餃子という暴挙!
自宅に帰ってきて、体重計に乗ったら「が~~ん!」今までの人生で最高値の体重に!!
翌日は土曜日ですが雨降りで寒いので、おでんの仕込みをしながらぐだぐだ、またおでんを食べ過ぎて、体重計にのったら「が~~ん!」
1日で最高体重記録を更新!

こりゃまずいですよ。体重が大台に(※個人の感想です)乗ってしまいました。
この所、休日は寒い上に天気もあまり良くなく運動不足だし……と思っていたら、先週の土曜日はウォーキングの途中で“とりすき”まで食べていたのでした。
このままお正月に突入すると、さらに飲み食いでますます……。
ハルコ、自制心で何とか体重を前に戻さねば!
と、言っても今週も会食も多いのです。
まずいぞハルコ! どうする!

2012年12月14日金曜日

動かざるもの喰うべからず

12月は忘年会シーズンですね。連日宴会でお忙しい方も多いと思います。
料理屋さんは1年中で一番の稼ぎ時で、他の月とは数倍も違うようです。
と、いうわけで、呑み食べする気満々の方々が、夜な夜な徘徊している季節です。


昔から、なぜ12月になると「忘年会」で人が集うのか、イマイチ理解していないハルコなのです。
と言いながらも若い頃は、忘年会とクリスマスシーズンを楽しんでいた時期もあります。一晩で3つ忘年会を掛けもち、なんてこともありました。
歳とともに集団で飲み食いするのが、段々辛くなりますね。
普段よりも飲む量・食べる量が多くなり、寒いので体も動かさずに、体重が増える傾向にあります。
すると、体は相当ストレスを感じています。
動かないと、「動かざるもの喰うべからず」です。
年末の忙しい時期の忘年会ゆえ、そのエネルギーは大変なものですね。

なぜ「年を忘れたい」のでしょうか。
この1年よほど辛いことがあり、その年の事は忘れてしまいたい、ということでいいのか?と最近は思います。
忘年会とは、どうも東アジアに根付いている文化のようで、中国の「年夜飯」台湾の「尾牙」韓国の「送年会」と、似た風習があります。
忘年会とは、「リセット」したいと考える国民性の共同体幻想のような感じがします。
昨年の大震災以降、その年の事は記憶にしっかりと留めておきたい、と考えるようになりました。
そんな気持ちの忘年会ならいいのですが、忘れてしまい学習能力が欠如してしまわないよう、反省や悔い改める12月にしたいとハルコは思います。

今日は元禄15年に赤穂浪士が吉良美央を討ち取った日です。
ある意味、吉良邸は忘年会疲れの不意をつかれたようなものですね。
油断大敵です。
あぁ、今晩は「油断大敵教会」の忘年会だ!

2012年12月13日木曜日

七輪で家庭科!

今年の冬は寒いですね。
手炙り火鉢が欲しい、なんて年寄りじみた事を考えていたら、はるか記憶の彼方に封印していた小学生の時の家庭科の授業を思い出したのです。
ハルコが初めて自分で作った料理は、家庭科で習った“ほうれん草のバター炒め”でした。家で作って食卓に出したら母から褒められたのですが、これがハルコの原点かもしれません。


さてその家庭科ですが、この話をすると「信じられない!」と笑われてしまうのです。
何故なら家庭科実習室の熱源が足りなくて、七輪で料理をしたのですよ!
そして、その七輪が足りなくて、学校の近くに住んでいる生徒の家から何台か七輪を調達していたのです。
何だか凄いでしょう。家庭科実習室で小学生が七輪で並んで料理しているのです。
現在なら、進んでいる所はIHクッキングでしょうが、ハルコの時は七輪で燃料は練炭なのです。
時代もそうだし、田舎なので都市ガスはまだ普及してなかったと思います。普段はプロパンガスですね。
大きな製鉄所がある町で、製鉄の過程で沢山の副産物が出来るのです。
溶鉱炉を高熱にするためにコークスを使うのですが、まず石炭を乾留(蒸し焼き)にします。この段階でガスが発生するのですが、液化天然ガスが主流になる前は、これが都市ガスになり、プロパンガスにもなっていました。また、その過程でコールタールや練炭の材料も出来るのです。

あぁ、話がそれました。
長い間封印していた記憶とは、家庭科の授業が終わったあとのことです。
片付ける時に、ハルコが七輪を落として割ってしまったのです!!
それも、学校が近いのでと七論を持ってきたS君の七輪です。
おろおろするハルコの前でS君は泣き出し、教室の外へ出ていきました。
今思うと、家で叱られる!と思ったんでしょうね。その後の記憶は定かではありませんが、担任の先生がS君の家に謝りに行ったはずです。
何だかほろ苦い思い出ですね。

2012年12月12日水曜日

料理店のお見送り作法

昨日の「東京焼鳥屋事始」を引き続き書こうとしてましたが、早朝から打合せわせが長引き資料にも当たれず……というわけで、また日を改めて。


料理屋さんから帰る時に、よくお店の方が見送ってくださることは多いですね。
でも、それが苦痛になるハルコなのです。
接待の基本なんかを見ると、「お客様が見えなくなるまで見送る。タクシーに乗せて車が出るまで見送る」と、あります。
まぁ、タクシーなら直ぐに店の前からいなくなりますが、徒歩で店を離れる時が問題なのです。
店を出て直ぐ角を曲がる様な場所なら良いのですが、路地奥で表通りまでかなりの距離がある場合は本当に困ってしまいます。
お店の人がいつまでも立つて見送っているのですよ。それも、3人ほど。
何だか悪い様な気がするので時々後ろを振り返ると、まだ見送っているのでお辞儀を返しますが、いや、困ったもんです。

昔、とある日本料理店での話です。
そのお店はビルの3階にあり、客は乗り込むエレベーターに正面から見送られ1階に着くと、お店の人が先に着いていて、そこからさらに見送ってくださるのです。いや、忍者の子孫でしょうか。
一度裏をかいて、エレベーターに乗ったふりをしてエレベーターから下りて、階段で後から降りて、待っているお店の人の後ろにまわったことがあります。まるで幼稚園児ですね、
なので、ハルコは見送られるのが苦手で、店を出ると早足になり、途中何度か振り返り挨拶をしながら帰るのです。
かと思うと、見送りに出ていたはずなのに、振り返ってみたらもう店に引っ込んでいると、ちょっと残念な……。微妙な感じです。

誠意と真心のお見送りも、ハルコのような小心者には負担になる、という事をお店の方々も知ってほしいのです。

2012年12月11日火曜日

東京焼鳥屋事始め……その1

この所、“とり”づいております。
昨夜も新宿「とり辰」で美味しく焼鳥をぱくついてました。
いや、焼鳥ってお酒の種類を選びませんね。つい、飲み過ぎてしまいました。
朝起きて、昨夜の焼鳥の味を反芻しておりましたが(ハルコは牛か!)、「はて、『焼鳥屋』って、いつからあったのだろう?と、考えてしまいました。

今まで料理屋さんの起源は色々と調べており、鰻屋、鮨屋、蕎麦屋、天麩羅屋などはそこそこ知っていますが、「焼鳥屋」のことはほとんど知らなかったのです。
資料棚に『明治・大正・昭和・平成家庭史年表・上下巻(河出書房新社)(とっても役に立っております。索引が充実しているので調べ易い)を引いてみると、1894年(明治27年)東京市中に焼き鳥(焼き豚)が流行。1串3厘、上等は8厘とあるではないですか! うむ、焼鳥と言いながら実際は「焼豚」だったらしいのです。
ちなみに明治27年の物価を調べると(現在とは比較しにくいですが)、卵7厘(1個)、日本酒11銭(1升)とあります。焼鳥の上等と卵1個はほぼ同じ値段ですが、やはり判るようで判らないのが、焼豚ですね。
数年前に、東京の一部地域で焼豚ブームがありましたが、こちらが元祖焼鳥屋さんのような気がします。

また北海道の室蘭では、焼鳥=焼豚らしく、この地域では「焼豚を焼鳥」として売っているらしいのです(日テレのケンミンショーで見たので、不確かな情報)。
さらに年表を見ると、1923年(大正12年)9月、東京・日本橋室町に焼鳥専門店「髭の平野」開店。それまで東京には焼豚しかなかった………と、いう事は東京の焼鳥屋史は、まだ90年もないのですね。

知らなかった! のですが、何となく焼鳥屋さんはそんなに古くはないような気がしておりました。
ちょっと調べてみるようと思うので、この項は続く!

2012年12月10日月曜日

下流へたどり着いたフレンチ

土曜日は久しぶりに本郷からお茶の水、神保町まで、途中で昼食を挟んでウォーキングをしました。
神保町で、料理書を多く扱っている古書店「悠久堂」へも途中で寄りました。
定期的にこの古書店は覗くのですが、事務所にある現在入手出来ない、料理関係の書籍はここで買っているものが多いですね。
 

見つけたのは秋山徳蔵の『料理のコツ』と『味と舌』
たぶん文庫でも読んでいるとは思いましたが、現在はすべて廃刊ゆえに購入しました。
秋山徳蔵は“天皇の料理番”として有名で、宮内省大膳職主厨長を長らく勤めた大料理人ですね。
写真には以前に悠久堂で購入した『秋山徳蔵メニューコレクション』も有りますが、これは、宮中晩餐会で饗された数々の貴重なメニューなのです。
ふと思ったのは、現在自分たちが外食で食している料理の数々は、元々ある身分制度の元に、一般庶民の伺い知る由もないところから、ある事情で“上から下に料理が流れて”来ているのではないかということです。

宮中での晩餐会は、基本的にフランス料理が中心になっています。
これは、元々は18~19世紀の外交の基本用語がフランス語で、晩餐は同じくフランス料理であったわけです。
フランス料理自体は、フランス革命によってルイ王朝や貴族の料理人達が大量に失業し、新興勢力の裕福な層に専属料理人として雇われて、“ブルジョワ料理”が誕生しましたが、これはまだ庶民まで流れて来ません。
さらに、そこから出て来た料理人達が“レストラン”という名前のスープを元にして、現在に繋がる“レストラン文化”が出現するのですが、それは今度はロシアのロマノフ王朝の崩壊によって、大量のロシア貴族や裕福な階層がフランスに亡命して来て、フランス料理の最盛期に突入し、フランス料理が世界の料理の中心に座することになるわけです。

1909年に秋山徳蔵は、フランス料理の修業のためにパリへ旅立ちます。
日本でも相当フランス料理や西洋料理は、大都会では食べられるようになったわけですが、一般庶民にはまだ高嶺の花ですね。
しかし徐々に上から水が流れるようにして、文化がジワジワと浸透していくものですね。いつの時代でも旨いものを食べたいという層の欲求があるわです。
また、戦後になって高松宮家がゲストハウスにしていた「光輪閣」がなくなり、そこにいた人々で起こされたイタリアレストランが「キャンティ」となるように、上流から下流への「食文化の流れ」が必要だったのです。

40年近く、フレンチを中心にした東京の“12月クリスマスシーズン”を見てきましたが、高級フレンチの地位は年々下がってきているような気がします。
それは、川下までこの数十年で達したということでしょうか。
その先は……?

2012年12月7日金曜日

焼餃子か水餃子か、それが問題だ!

昨夜は遅くまで田町で打合せをして22時近くになり、あやうく晩ご飯難民になるところでした。
どこか適当な店を捜していたのですが、遅いのでラーメンでも食べようかと入った店が「上海餃子りょう華」
生ビールに餃子(王道ですね)にしようと思い、メニューを見て暫し悩んでしまいました。普段なら速攻で“焼餃子”派なのですが、昨夜はなぜか普段は頼まない“水餃子”を頼んでしまったのです。

まぁ、これが大正解ホームラン!
凄く旨かったのですよ。
料理のおばちゃんが、半冷凍しているのを水で軽く解凍して、ラーメンを茹でている鍋に、振りザルの中に入れた餃子を入れ、ラーメンと同じ様に湯を切り皿盛りにします。
「この水餃子は、醤油ダメね。豆板醤と酢だけで食べて」
豆板醤も手作りということで、具材が多めのもので、酢は多めでちょっと水餃子を付けて食べたら、つるりんと胃袋に。

今までは焼餃子に比すると、水餃子を頼む度合いは非常に低かったのです。中国料理店でたまに頼む程度で、それも焼餃子がないからという理由でした。
そして「うむ、やはり焼餃子が好き!」と毎度思うのでしたが、昨夜の「りょう華」の水餃子には、本当に目からウロコでした。
感覚的にいうと、白玉だんごをつるつる食べているイメージです。あっという間に食べてしまい、速攻でおかわりしました。

水餃子をパクつきながら「何で茹でているのに水餃子なんだろう?」と考えていました。
そういえば、ハルコの雑誌連載でも点心修業(重慶飯店麻布賓館)で、点心師の黄さんに習ったことがありました。
日本人が好きな焼餃子「鍋貼(グオティエ)餃子」と呼ばれます。
水餃子とスープ餃子は混同されがちですが、水餃子はやはり茹でるので、中国語的には「熱水餃」スープ餃子は「湯餃」(湯(タン)はスープのことで、昔日本人が中国のホテルで“お湯”を頼もうとして、“湯”と書いて出たきたのが“スープ”だった、という伝説があります)。
どこかで“熱水”の“熱”が取れて、「水餃子」になってしまったのですね。
ちなみに、日本で最初に餃子を食したのは、水戸黄門さまだとか。
やはり黄門さまは侮れないですね。

2012年12月6日木曜日

グルメな黄門さま

「控え~おろ~、頭が高~い! ここにおわすお方は先の中納言、水戸光圀公で~あらせられる」と、お馴染みの水戸黄門、水戸光圀さんですが、今日12月6日がご命日なんですね。
えっ、なぜ、黄門様を取り上げたかって?
実は黄門様は、実は稀代のグルメさんだったのです。


ここに20年前に出た1冊の新書があります。
小菅圭子著『水戸黄門の食卓(中公新書)という本で、出た当時は話題になった力作です。実際に、昔の人々がどんな食生活をしていたかいうと、これが中々資料で残っていないので難しいですね。
現在なら食文化の資料は、それこそ履いて捨てるくらい有り過ぎますが、もし未来の誰かが、現在の我々の食生活を見たらどう思うか、という思考するのも楽しいものです。

小菅圭子さんの『水戸黄門の食卓』から、黄門さんのグルメぶりを拝見すると、探究心旺盛な美食家の姿が見えてきます。
その中でも「日本ではじめてラーメンを食べた人」が黄門様なのです。
江戸といえば蕎麦、と思うかもしれませんが、江戸初期には現在の蕎麦はなく、うどんが全盛でした。
江戸に出て来た若き日の黄門様、その当時のグルメブック片手にうどん屋さん巡り。そしてお気に入りのうどん屋さんへ通い詰め、さらには親方からうどん作りの指南を受けたそうです。
そして、日本外史の編纂をしている家来達にふるまい「黄門うどん」という名前まで付けられたそうです。
ラーメンを元禄時代に食べて(当然現代のものとは違いますが)、その当時の最高の食を追求していたのです。

そして肉食ですが、江戸時代は獣肉食を禁止してましたが(平安時代が最初ですが)、黄門様は肉大好き、ジビエ大好きな方だったんですね。
生類哀れみの令が公布されていた時代でも、黄門さまは鹿、牛、馬、野兎、狸、猪などを堪能していたのですね。それは、水戸藩の屋敷跡のゴミ捨て場から、調理した後の獣骨が大量に発見されていたことからもわかります。
黄門さまが現代に生きていたら、きっと食詳論をしていたでしょうね。

2012年12月5日水曜日

奇妙な仕事……7


ヘビ園にやってきたハルコ一行。
ヘビ園の入口には、金網に囲まれた大蛇がウジャウジャいるのです。
また、何故か猿の檻も! どうも、これは食用らしい!?

「やばく、ない?」と思いつつも、仕事だからと思い直し、ヘビ料理を注文。
ヘビは直径12㎝くらいの筒切りで、おまけにウロコ付きで厚さが4㎝もあるのです。
中国でヘビ鍋も食べたし、マムシの黒焼きも食べたことのあるハルコですが、バームクーヘン状のヘビの筒切り焼きとは……。
しかし、意外にこれが旨かったのです。
「蛇酒・コブラトニック」と書かれた瓶の酒を飲みながら、蛇の丸かじり。まるで東海林さだお的世界ですが、その実は、ヘビ肉をほぐして“バイチャン(ライスペーパー)”に巻いて食べるのです。あっさりした鶏肉のような味ですね。

もう、どうにでもなれ!という気分で、ホーチミン市内を食べ歩きしたのですが、伝統的なベトナム料理、モダンなベトナム料理、中国(越南)料理、フォー、市場で買い食い、さらにはフランスの植民地だということで、一晩でフランスレストランを2軒はしごしたりと、まぁ、ハルコ元気でしたね。
おまけに、別な媒体で友人のフードライターとカメラマンが、“なべや”の福田浩さんとホーチミン市に来るというので合流して宴会までしたのです。


左からフジテレビT嬢、道場さん、有名料理編集者Nさん、ハルコ、“なべや”福田さん。

結局、その当時は治安もイマイチで、まず150人収容出来るレストランも見つからずに、この企画は無しにしようとなったのです。
ブログでは書けない、もっと面白話もありますが、道場さんから「ハルコさんは、サービスの鉄人」という称号をいただき旅は終わりました。
取り合えず「奇妙な仕事」これにて終了!

2012年12月4日火曜日

奇妙な仕事……6

そうなんです、「アルマジロ!」なのです。
フジテレビの指示書には「アルマジロ料理を出す店を捜す」と、あったのです。


関空からホーチミン市に到着したのは夕刻で、ホテルに荷物を置いてまずはレストランへ。
現地のガイド通訳が何故だかレストランの入口で帰ってしまい、道場さん、T嬢、JTB課長とハルコはレストランで放置されたのです。
まぁ、困りましたね。言葉は判らない、メニューのベトナム語は読めないのです。
何とか食事を済ませ、レストランのメニューをもらって帰り、ホテルでベトナム語会話の本を読みながら、一人で“ターヘルアナトミア”です。

元々ベトナムは中国語文化圏で、フランス、アメリカと植民地化されてベトナム語になったのですが、料理名は中国と同じ構成だったんですね。
ということは、主材+調理法+副材料(あるいは味付け)。この順番で見れば、簡単な料理は理解出来るはず。
例えば、「ティット・コー・ヌッイ・ズア」=「肉・煮付ける・ヌックマムとココナッツジュース」でこれで、“豚の角煮”になるのです。

17年も前のことなので情報も少なく、ベトナム自体のことすらよく知らない時代でしたが、ベチナムが“ドイモイ政策”で海外に門戸を広げて、日本からもビジネスマンが押し寄せはじめていました。
それでも、当時はベトナム戦争が終結して20年は経っていますが、まだ戦争の傷跡が残っていました。
最初の晩のレストランでホテルに帰る時に、車の中にいると、窓に顔が半分飛ばされた人が中を見ていたり、街角で有名なココナッツアイスを食べさせる店に行ったら、靴磨きが来るのですが、その人の両足が無い!
まるで、ブラックジョークの様な世界ですが、あいにく革靴を履いていたのは道場さんだけで、靴を磨いてもらいながら大丈夫かと心配でした。

そして、「アルマジロ」です。
通訳のベトナム人はハノイから来ているのですが、ハルコがアルマジロと言っても知らないと言うのです。
ハルコ得意の絵で「普段は、こう(絵を指しながら)。キケン! アルマジロ丸くなる」と説明をしたところ……。
一体テレビ屋さんはどこでこんな情報を仕入れたんだ! ベトナムでアルマジロ料理なんかどこにも無いじゃないか!

通訳さん「あぁ、ヘビなら食べられるよ。大きなヘビね」
というわけで、ヘビが食べられる「ヘビ園」に向かう話は明日につづく!

2012年12月3日月曜日

奇妙な仕事……5

今年ももう残り少なくなってきましたね。
どうしても12月は実質可動日数が足りません。

さて、先週からの続きです。
やっと『街場の新・料理の鉄人』が刊行されて、やれやれと思っていたら、フジテレビ事業部のプロデュサーT嬢から電話があったのです(ちなみにT嬢は元オールナイターズの一員で、女子大生時代に深夜番組でブイブイ言わせてました)。
 「今度、事業部で「料理の鉄人と行く東南アジアの旅」を企画しようと考えているのだけど、現地視察に同行してくれない?」
 「えっ!?」ですよ。うむ、と思う間もなく、「ヨロシクネ」。
T嬢はオールナイターズからフジに入社したくらい抜け目がないのです。


話の内容は道場、坂井、陳の三鉄人のうち陳さんが香港、坂井さんがシンガポール、そして道場さんがベトナムと、それぞれ50名づつお客さんを引率しながら、最後はベトナムのホーチミン市で150人の食事会をする、というものでした。
道場さんだけは最初からベトナムなので、ご本人が視察するのということで、T嬢はハルコに協力を求めてきたのです。

さらにこの企画運営はJTBが行うので、道場、フジT嬢、JTB課長にハルコの4人での珍道中が始まるのです。
その調査内容は「150人収容可能なレストランを捜す」「市場でイベントに使用出来そうな珍しい食材を捜す」「その他ベトナム料理の名店を探す」「ガイドブックになるか調査する」という内容でしたが、その素材の一項目に「アルマジロ」というのがあったのです。
えっ? ベトナムとアルマジロ……。
風雲急を告げるお話は明日につづく!

2012年11月30日金曜日

奇妙な仕事……4

今日で11月も終わり、今年も残すところ1ヶ月です。焦ってきますね。
焦ると言うと、昨日からの続きです。


そうそう、本のタイトルを失念してましたね。
『街場の料理の鉄人』という名称で、「料理の鉄人」に登場した道場、坂井、陳を始め、挑戦者が密かに認める街場にある料理店を紹介する、という内容でした。
まず、鉄人からから推薦の店を選んでもらうのですが、その説明と説得に出かけて交渉するのが大変でした。中には断られる店もあり……。
その上担当編集者は入院するし、期限は決まってるし、毎日午前中は電話のかけまくり、取材はアポ取り、午後の料理店のアイドルタイムでの取材撮影になりまます。
多いときは1日3組の取材チームが同時間に撮影してました。
この時始めてハルコは携帯電話を持ったのです。

取材先でも、さらに明日の撮影の確認し、事務所に戻ると前日の写真が出来ていて、ポジフィルム(デジタルでは無いですよ)を切り出しながらタイトルを付け、コンテを作成してそれを夜中にデザイナーへ指示を出し、上がったレイアウトを確認したら、今度はライターへ原稿を書いてもらうためにFAXでレイアウトを送り、上がってきた原稿に目を通して赤字を入れて……。こんな調子で、毎日ヘトヘトになってました。
取材撮影がほぼ終盤にさしかかり、最後の取材先では、料理の鉄人に登場したフレンチのシェフと、推薦した店の料理人とを対談をさせるために最後の撮影に行ったのが、忘れもしない、1995年3月20日。
何故この日にちを覚えているかというと、この日「地下鉄サリン事件」が起きたのです。荻窪に向う地下鉄の中は乗客も少なく、網棚に不審物が無いかとキョロキョロしてしまいました。
料理人の対談の前に話を聞いていたら、その方が丁度サリンが撒かれた電車に乗っていたそうなのですが、途中でお腹が痛くなり下車して難を逃れたと……。
本当にその時はぞ~っとしました。

今まで、本を造っていて全然出版社に見せない、ということはあり得ませんが、この本に関しては一切出版社に見せなかったのです。
時間も無いし、本来なら少なくとも編集とデザイナーは打ち合わせをする必要がありますが、ハルコがアートディレクターと編集長を兼務したので、3週間で本が出来たのです。その陰で、フジテレビの事業部の担当者が、心配で毎日ハルコの事務所に通っておりました。

やっと無事に本が間に合い、完成しました。
そして、そこからフジテレビ事業部から「奇妙な仕事」の依頼があったのです。
(つづく)

2012年11月29日木曜日

奇妙な仕事……3

現在フジテレビ系列で「アイアンシェフ」が毎週放送されていますね。
20年ほど前の「料理の鉄人」のリメイク番組で、その当時は興奮して番組を観ていたものです。
その「料理の鉄人」の全盛期に、仕事の依頼がありました。こちらは至極真っ当な本業でした。

「LIVE UFO '95」が毎年フジテレビで開催されていたのですが、翌年にはフジテレビ本社がお台場に移転するので、都心での最後のイベントだったのです。
そのイベント会場には「料理の鉄人」のフードブースが出されるのですが、それに合わせて本を出版したいとの依頼でした(真っ当でしょう!)。その内容は料理の鉄人をはじめ、番組に出演した料理人がよく食べに行く店を取り上げて取材することでした。

ところが企画自体は年のはじめにあったのですが、中々進行が遅れてイベント開催のほぼ2ヶ月前にGOが出たのです。
それからがもう大変! 何せ本にするための時間は1ヶ月もないのです。
おまけに出版の担当者は、劇症肝炎になって絶対安静で入院し、最初で最後の打合せは慶応病院の病室でした。

仕事自体は、フジ系の出版社扶桑社とフジテレビ事業局がプロデュースし、ハルコが企画構成を担当したのです。
取材は当然撮影も入りますが、鉄人を入れて20名。これを1ヶ月で取材するのです。
まず、電話を入れて趣旨を説明してから、取材の交渉のために店に出かけ、必要な場合は料理も試食する。フードライターの森脇慶子さんにスーパーバイザーをお願いし、ライター7名、カメラマン6名、イラストレーター5名を動員してバタバタする話は、明日へつづく。

2012年11月28日水曜日

奇妙な仕事……2


1995年の「団塊世代の五年後のライフスタイル」のレポートの中面。

1990年の5年後、1995年の「団塊世代の五年後のライフスタイル」はどうなっているか!?
こんな問題は、本来はシンクタンクなどがやる仕事ですが、肝心のシンクタンク機能をこれから持とうという組織からの間接依頼でした。

ハルコは、幾人かの人を集めて相談することにしました。
当然団塊世代という年代のターゲットがありますね。現在は団塊世代はリタイヤしていく年代ですが、その当時1990年代はまだ、40代の前半から後半へかけての働き盛りでした。
1990年は衆議院選挙が行われ自民党が圧勝し、時の総理大臣は海部俊樹、幹事長は小沢一郎です。ゴルバチョフがソ連(ソ連ですよ)の大統領になり、ローリングストーンズが初来日し、勝新がパンツの中にコカインを入れて捕まり、みんなティラミスを食べまくり、「おどるポンポコリン」が大ヒットして東証株価は史上2番目の高値を競って、その後に平成大不況が始まるとは誰も思っていなかったのです。
1995年という5年程度近未来の期間では、さほど変化は無いかと思っていたのですが、2年後にはバブルの崩壊という崖が待っていたのです。

話は1990年に戻り、5年後に社会がどう変化するかの予測は、それぞれキーワードを持ち寄り編纂することにしたのです。
異化、快感の科学、環境破壊、機能性食品、自然回帰、再生紙、創造的進化過程、タイムコラージュ、地水風水、バウハウス、プロトタイプの追求、ホームコロジー、セミプロシューマー、ポストモダン、会員化、シンクロ・エナジー、世紀末、ゆらぎ、互換性、ファジー、ハイパーテキスト……。
今となっては意味不明なものも沢山ありますが、22年経てもまだ使えるキーワードがありあますね。

例えば、「タイムコラージュ」
これは別に目新しい物ではなく、1980年に亡くなったカナダのメディア学者のマーシャル・マクルーハンの“メディア=メッセージ(『人間拡張の原理』)”からの引用です。
雑雑誌やテレビが同じ時間軸のうちで内容がバラバラでも、受け手は戸惑うことなく受け付ける。
この理論で20世紀のメディアは進んで来たと思うのですが、「一見、何らストーリー性のないものを、コラージュのように媒体として捕える。これが、タイムコラージュ感覚である」と、その当時のハルコは書いてます。
現在FB(フェイスブック)でのやり取りを見ていると、まさにタイムコラージュが媒体化しているのを実感しますね。

こんな「奇妙な仕事」を受け、最終的には製本した形式のレポートを13部作成して納品したのでした(写真はその冊子です)。
1部あたりのコストは、なんと13万円!
その後、そのシンクタンク組織が機能したとは聞いてませんが、どうも無駄なことの多い時代でした。
(つづく)

2012年11月27日火曜日

奇妙な仕事……1


「奇妙な仕事」と言えば大江健三郎の初期の短編小説で、(僕)が“犬殺し”を手伝う話、「奇妙な果実」と言えばビリー・ホリディの“黒人リンチ”を歌った曲ですね。40年ほど前にこの二つにハルコは同時に出会い、小説を読み、レコード聴いたのでした。
「奇妙な仕事」というタイトルで何か書こうと思ったのですが、別に変な仕事ではありません。
その道の専門家だったり、仕事の関連があれば別に「奇妙な仕事」にはならないのですが、ハルコの所に持ち込まれて来ると、それが自体が「奇妙な仕事」になるのです。

自分で事務所を構えて35年になります(あぁ~本当に長い)。
最初はエディトリアルデザイナーとして出発したのですが、飽きっぽいのか、道を踏み外すはめに……。
その道の専門家に頼めばいいのですが、なぜかハルコの所に。まぁ、頼む方も問題ですが、引き受けるハルコもどうかしていているという「奇妙な仕事」第1弾です(うむ、そのあと続くのか?)。

時は1990年、バブル真っただ中。正確に言うとバブル時代は1986年12月から1991年の2月までだそうです。
ある広告系の会社と仕事をしていましたが、そこを独立された方からの依頼でした。
1990年の5年後、1995年の「団塊世代の五年後のライフスタイル」はどうなっているか!? を研究するという内容です。
びっくりでしょう? 電話で話を聞いて受話器を落とすわ、飲んでいたコーヒーは吐き出すわで……。

どうもこのバブルの時代には、大企業がこぞって「生活研究所」なるものを立ち上げていたのです。
家電大手のナショナル(現パナソニック)が生活研究所を作り、それに負けじと某大手家電も生活研究所を立ち上げたんですね。
本来その研究所で研究するテーマを、多分そこの知り合いに相談し、そこからハルコへ丸投げで来たのだと思います。
その頃オクサマにこの話をしたら「ばかじゃない!ハルコに頼むなんて!」
はい、ハルコもごもっともと思いますが、なにせ「来る物は拒めず、去る物は追えず……」をモットーとしておりますので、引き受けてしまいました。
さて、それはどんなドタバタになるかは明日へ続きます。

2012年11月26日月曜日

職業としてのフードライター……5


『シェフ!三つ星レストランの舞台裏へようこその試写会に行きました。
いや、本当に面白い映画でした。
ジャン・レノ扮する三つ星シェフが、レストランオーナーに嫌われて、星を落としたらクビにする、というのを料理オタクの偏屈な若い料理人達が助ける、というグランメゾンを背景とした「がんばれベアーズ」と言ったら語弊があるでしょうか。
その星を審査に来る料理調査員に向けて、新作料理を考えるのですが……。

映画を見て、フードライターの最大の資質は何だろうと考えました。
まぁ、ライターと名乗るのですから、文章表現は言うまでもありませんが、最大の資質は味覚に対するセンスではないでしょうか?
このセンスというのがまた、問題ですね。
味には全ての人を満足させるものは無いということです。

映画『シェフ!』のレストラン審査員は古い味を認めておらず、最新の「分子調理法」を好んでいるのですが、ジャン・レノ扮する料理人は、伝統の味で長年星を維持してきたので、時代の要請に料理が合わなくなり、ミカエル・ユーン扮する若手の料理人に新作メニューを頼んでしまうのです。
その映画のシーンで、料理人や審査員が料理の素材や調理法や味に対して、的確に表現するシーンが良いのです。

料理屋さんの紹介記事を読んでいて、いつも思う感想があります。
この記事、このライターさんは何を言いたいのか、何を伝えたいのかということです。
フードライターの記事と言っても、ちゃんと署名して書いてあるものから情報記事まで、幅広くあります。
所詮料理記事の感想って、食べた人しか判りませんので、それがただ美味しい”と言われてもピンときません。
落語に「家ほめ」がありますが、何でも新築の家に行ってほめれば、小遣いのひとつも貰える、という内容です。
記事にも家ほめと同じ様な紹介記事がたくさんありますね。
まぁ、情報なので特に目くじら立てるのも大人げないですが、まったく店のホームページのコピーを載せている記事ばかりで……。

記事に書く、書かないは別にして、フードライターの資質として素材や調理法に精通していて欲しい、と思うのは欲張りな注文でしょうか。
料理に対しての美味い、不味いは所詮「食事感想文」で個人の領域を出ないので、その内容に対しての、知識の幅や厚みや体験が表現する“個人の感想を超えて一般化しつつ、さらにその先にあるもの”を読みたいのです。
理想は料理人と同じくらい調理法に精通して、自身でも調理が出来る。
えっ、そんなフードライターがいたら自分で店をしているって?(一部お店をしている人もいないことはないのですが)
極論すれば、フードライターは作り手と読み手の間に介在する“イタコ”のような存在なのでは、とハルコは思うのです。

2012年11月22日木曜日

職業としてのフードライター……4


明治時代に村上弦斎という御仁がおりました。現在の知名度はどうなんでしょうか。
村上弦斎は小説家で、一番読まれたのは『食道楽』という本です。明治時代には徳富蘇峰の『不如帰』と並んで大ベストセラーになっているのです。
内容は小説の形を取りながら、物語の筋に600以上の料理や食材がはめ込まれているのです。
現在手元にあるは岩波文庫版『食道楽』(上下)で、中身を読んでいると、日々連続の連続で、何だかブログを読んでいる気分なります。

春夏秋冬の構成で、ランダムに見出しのみ書いてみると、まず春の章酒の洪水、酔醒め、南京豆、大食家、自慢料理、豚料理、豚の刺身、胃袋、脳と胃、物の味、万年スープ、料理の原則、五味、鶏卵の半熟……。
米料理、味自慢、腹具合、硬い肉、蕨のアク、海苔巻き、程と加減……。
鮎の味、下等料理、昆布スープ、食物研究会、合い物、ライスカレー、琺瑯鍋……。
滋養スープ、牛の脳味噌、松茸売、肉の区分、パンの種、林檎のパイ、兎のシチュー……。
と、まぁ、こんな内容が600話以上あるのです。あらためて読み直すと、明治期にこれだけの内容で食について書かれていたのには驚かされます。
一応流れは時間での小説の形を取っているのですが、筋と関係なくそれぞれの項目を読んでも面白いのです。

村上弦斎は、幼少から漢学を学ばされた上にロシア語の家庭教師がつき、12歳で東京外語学校に入学しましたが、勉強のし過ぎで体を壊し、中退します。
渡米して英語も学び、新聞記者から小説家・大ベストセラー作家になります。平塚の大豪邸に住みながらも、断筆後は竪穴住居に住んで、自分で生きた虫や加工しない自然の食べものしか食べなかった……。
どうですか、相当面白い人物ですね。興味津々です。ある意味で今日の食をすべて一人で実践し、思考し、執筆したのです。
これはスーパーフードライターそのものです。現在こんな形のフードライターはどのくらいいるでしょうか。この時代の少ない情報量を考えると、知識や中身のコンテンツも凄いものがあります。
少なくとも、これからフードライターを目指す人は一読しておくべき本ですね。
(つづく)

2012年11月21日水曜日

職業としてのフードライター……3

フードライターの話から随分それてますが、昨日の続きです。

ホテルの一流レストランで、女性フードライターをエスコートするために、レストランの予約時に花束もお願いして(これを5~6軒行くのです)いざ、レストランに行きます。
ハルコのお相手は微妙にアラフォーギリギリで、花束を贈る内容は“転職祝い”。あぁ、無理があるなぁ~~。
お店の方がハルコに花束を見せて、ハルコが合図してテーブルまで持ってきてもらうのですが、相手の女性はさもびっくりしたように演技しなくてはならず、お互いに笑いを堪えるのが大変でした。
編集長の方は、何せ花束を渡す相手が森脇慶子さんなので、電話で「森脇さんの退院祝いにすれば」と言っておきましたが、果たしてどうなったのやら。
一人のライターさんに至っては、ハルコから大きな花束を3度も受け取って、自分の人生でこんなに花束を貰ったことは無かったとのことです。


かくもダラダラ書いてますが、話は森脇慶子さんなのです。
編集者やライターから、フードライターとして専門化した初期の女性は森脇慶子さんだと思うのですが、どうでしょうか(あまり自信はありませんが)。
確かに岸朝子さんのような料理記者の草分けもいますが、岸さんの本質は編集者で、森脇慶子さんはやはり元祖フードライターでしょう。
フードライターと書きましたが、彼女はフードファイターでもあるのです。
あの細い体にどのくらいの食べ物が入っていくのか不思議なくらい食べますね。そして、まさに命がけで食べている姿は壮絶でもあります。
初めて会ったのは確か恵比寿の「あたごうる」で、紹介してくれた講談社の編集者曰く「食べる凶器森脇慶子」もう、四半世紀前の事ですね。

森脇さんの紹介で、創刊された「ダンチュウ」でハルコもフードライターのマネ事をさせれたり、随分と料理屋さんでご飯も食べたし、仕事で本も幾冊か作りました。
路地から路地を、嗅覚と勘を頼りに店を捜す能力は他の追従を許さないフードライターです。
食がまだデジタルで無い時代から、森脇慶子さんはハルコにとって戦友のような存在なのです。
そうそう、前に銀座の「トトキ」で焼酎とフランス料理の組合せの会があった時、陰謀で(笑)森脇さんの隣にさせられたのです。
何故かって、森脇さんは全然お酒がダメなので、ハルコは彼女の焼酎を全部飲むはめに(自分のも入れて倍!)。
いや、森脇エピソードだけで本になるくらい面白いネタがあるのに。そろそろ、森脇慶子フードライター伝でも書いてくれないかぁ。
最近はパーティで会うとお互いによく生きているねと、ジジババ会話で盛り上がり……。
彼女を見るとハルコも頑張らねばと思うのでありました。
(まだ地雷は踏んでいない! つづく)

2012年11月20日火曜日

職業としてのフードライター……2


出版関係の仕事に携わって、早30数年の月日が流れました。
昔、というと年寄りじみてきますが、雑誌文化の勃興期から仕事が出来たのは幸いだったと思います。
編集者とライターの区別は当然ありますが、現在でも一部新聞社系の出版社では、編集者のことを“記者”と呼んでいますね。雑誌編集者、雑誌記者微妙に違う様な違わないような……。

小さな出版社なら編集もライターも、はたまた写真も撮る、というようなケースもありますが、大手出版社は完全に分業化されています。
食の範囲も幅広いので、判りやすいレストラン取材を例に取ります。
まず、編集部(編集長)として何をどう取り上げるかが“検討”されます。媒体によって随分内容が違いますが、季節やテーマ(例えば祝いのレストランなど)に沿ってレストラン選びが始まります。
媒体の“クラス”により、選ぶ店は雰囲気や価格帯で違ってきます。夜のコースで5000円の店に、お一人様25000円の店は登場しません。
以前ならリサーチは大変でした。まず、その店を取り上げるために一度は覆面で食べに行くのですが、最近はそんな余裕はありませんね。まぁ、こんな店まで取り上げるの?(店の記事を読んで食べに行き、エラい目にあうこと)というケースも無きにしもあらず。

一度凄く変な仕事を引き受けた事があります。
フードライターさんとレストランに行き、エスコートするという内容です。
編集部と、ホテルの一流レストランでは客のどのようなわがままが効くかという内容で、レストランを予約する時からスタートします(かなり恥ずかしい!)。
エスコートする女性(二人のライターさん)には、一度も面識がありません。
まずレストランに、「○月○日の○時に予約したいのですが」
と、ここまでは普通ですね。
その後に「連れの女性に途中で花束を差し上げたいので、用意していただけますか」
ほら、もう相当恥ずかしいでしょう。
設定を考えると、どう考えてもオジさんが若い(?)女性にレストランで花束をプレゼントするというシチュエーション!
何か下心が無いと逆におかしいのですが、ハルコは電話で「えぇ、彼女の転職祝いですが」と言ったのです。
このエスコート役をハルコと編集長がするのですが、編集長のエスコートする相手は、こともあろうにフードライター界の重鎮森脇慶子さんだったのです!
風雲急を告げる怒濤の解決篇は明日に続くのだ!

2012年11月19日月曜日

職業としてのフードライター……1

だんだん寒くなってきました。これから、朝起きるのが辛くなりますね。

昨日は東北復興支援第4回東京グランメゾンで、チャリティカレーというイベントがあったのでアピシウスに行き、その後レカンの行列も見に行きましたが、大盛況でした。
普段敷居の高いレストラン子ども連れでに行ける、というのもフランス料理の層を広げるという意味でも効果があるのではと思いました。

先週は「職業としての料理研究家」をブログで書きましたが、食に関しての情報発信をするダイレクトな職業としての“フードライター”を考えてみます。
このテーマの骨子は、ネット以前・ネット後というのがキーワードになります。
それまでは一部特殊な人々の職業(仕事)だったのが、誰でもネットで発信出来る時代になると、それまでの境界線(プロ/アマ)が無くなりつつある、ということです。
かつては紙媒体が情報発信の場で、今はネット上で自分が媒体になり簡単に情報発信が出来るというのは、紙媒体時代には考えられないことでした。

ここでフードライターという言葉を使いましたが、その内容は千差万別です。
オートキュイジーヌの料理評論から、いわゆるB級グルメの発信者など、現在ではかなり専門分野化しています。
また、外食のリサーチレポートをまとめる人から、それらをアンカーマンとして整理する職業まで、これも相当幅がありあます。
外食産業ばかりではなく、生産者の現場や流通、消費の立場での発信者まで入れると凄い数になるでしょうね。
さらに「食べログ」などの書き込みや、ブログなどで誰でもフードライター化した時代での食のジャーナリズムのあり方を考えてみたいと(多少自分で地雷原を踏む様な気がしますが)、数回にわたり書いてみます。

料理研究家の皆さん以上に、ハルコはフードライターの知人友人が多数いるので、敵に回したくないのですが(笑)、辛辣なことも書くやもしれません。
(つづく)

2012年11月16日金曜日

職業としての料理研究家……その5

料理研究家ってどんな職業だろう?という疑問だけで、思いつくままに書いてきましたが、エンドレスな内容になりそうなので、今日が一応最終回です。


昔、フリーランスになった頃、ある仕事(もう、何の仕事かも思い出せない!)の最初の打ち合わせの時に行った時の話です。
まず、名刺を出して自己紹介するのですが、相手の女性がハルコに名刺を出して「わたくし、詩人です」とおっしゃったのです。
いや、衝撃的でしたね。
詩人ですよ(全国の詩人の方他意はございません)。生まれてはじめて、詩人という方に会ったのですね。
その時に、「詩人って職業?」と思ったのです。確かに職業ですが、詩を書いてどのくらいの人が生計を立てられているのか。
その女性も職業は“詩人”で、仕事はコピーや原稿を書いて生計を立てているとのことでしたが、キッパリ「詩人です」とおっしゃっていたのです。

話は元に戻り、料理研究家は職業名で、仕事は例えば料理教室を主宰したり(王道ですね)、レシピを考案して雑誌に発表したり……。活躍の場はたくさんあります。
ここからは私論です。料理研究家という職種職業は昔に比較して随分増加していると思います。
ハルコは本業の傍ら(これも何が本業か不明ですが)、「現代食文化研究室」という名称で日々“食文化”の研究(?)をしているのです。

日本が太平洋戦争(第二次世界大戦)の最中に食糧事情が悪くなり、喰うや喰わずの世の中で戦争中の親世代は、子ども達次世代に家庭の味や料理レシピを伝授出来なかった、と仮定します。
本来は、母娘を軸に伝わるはずの料理が途絶えてしまった。そうすると、次世代は本来母親から教わるべき料理や、調理技術がまったく無いままに成人したベビーブーム世代が、花嫁修業のために料理学校(江上料理学院のような)に通い始めて活況化します。
やがて結婚したベビーブーム世代には、豊かになった日本の食生活を背景とした多国籍の料理が溢れ、ここに多くの“料理を研究する人”のマーケットが創造されたのではないでしょうか。
その中から、さらに次世代の料理研究家が生まれて、食ばかりではなく生活全般への提案と憧れという形で料理研究家がスター化していき、その活動を受けてさらに料理研究家は職業としての需要に支えられて、層を厚くしたのではないか……と、ここまでがちょっと大雑把な流れだとハルコは考えるのです。

そして現在料理研究家自体の飽和と、ネットでの新しい世代の出現により、大きく変化しているのも事実です。
ネットで自由にレシピが手に入り、簡単に誰でも手軽に“ネットを通じて教わる”時代に。さらに、自分の料理を写真とレシピ付きで発表することもできるのです。
プロとアマの区別の付け難いものは、コンピュータやインターネットの発達により顕著になりました。
少しネット時代の料理研究家を研究してみましょうか。
うむ、ハルコの肩書きは「料理研究家の研究家」!

2012年11月15日木曜日

職業としての料理研究家……その4


テレビ東京で、朝8時から「世界の料理ショー」を再放送しているのにはビックリしました。今から35年以上前に放映してた番組ですね。

ハルコは、この「世界の料理ショー」ラハム・カーの大ファンだったのです。
カナダの料理エンターテインメント番組で、料理研究家のグラハム・カーが、スタジオの観客の前のキッチンでユーモア溢れるトークをしながら、絶妙なテクニックで料理を作ります。最後に、スタジオに来ている客の中から一人を選び、作った料理を一緒に食べるのです。
その時の、食べているグラハム・カーとお客さんの顔というのが、とても良いのです。その当時20代だったハルコはテレビ画面を見ながら、涎を流さんばかりでした。
ある意味で、この「世界の料理ショー」を見てから、料理に対して興味が出てきたのかもしれません。
画面に登場しない“スティーブ”を相手に、助手も出て来るわけではなく、シンプルに流れるように料理を作る番組のコンテンツは、今でも最高だと思うのです。
彼はこの番組のための用意やリハーサルに、19時間もかけていたそうです。
グラハム・カーの奥さんが番組のプロデュースをしていましたが、夫婦二人が交通事故に逢い、番組は終了したのです。
そして、1990年に「新・世界の料理ショー」として復活しますが、前に比較して低カロリー健康指向に変わったのは、カー夫妻と社会が変化を求めたということでしょう。

料理研究家の最大の売りとしては、トークがいかに上手いかだと思います。
レシピや原稿をまとめる能力と同時に、第3者に判りやすくメッセージ伝える能力は重要です。
これがプロの料理人だと、喋るのは上手でなくても良いのですが、やはり客商売ということで、皆さんトークはお上手です。
フランスで最初にテレビで料理番組を持った「グラン・ヴェフェール」のレイモン・オリヴェは、三つ星シェフの腕前とトークの上手さで一時代を築きました。

ある意味では、料理研究家はサービス業の一種です。
マスコミに登場する料理研究家の皆さんはトークのお上手な方が多いですね。
それぞれ優しく言う方、叱りつけるような言い方をする方、ユーモアのセンスのいい方と、個性豊かです。
料理サロンに生徒として来られる人たちも、先生のトークを楽しみにしていることも多いようですね。

料理研究家は「一にトーク、二に料理」と言ったら叱られるでしょうか。
また、マーサ・スチュアートのように、ライフスタイル全般を憧れの対象とした料理研究家は、次回に続きます。

2012年11月13日火曜日

職業としての料理研究家……その3

わが家にテレビが来たのは1961年(だったと思う)、ハルコは小学1年でした。
学校から帰ると、玄関に巨大な木の箱(木ですよ!)があり、部屋に上がるとテレビがありました。テレビを買うなんて聞いていなかったのでびっくりしました。
田舎ゆえに、チャンネルはNHK第1と教育放送に地元ローカルの3局のみ。
母と伯母がいて、一緒に見た最初の番組が「NHKの今日の料理」でした。モノクロ画面に今でも使っている冨田勲の♫タンタカタカタカ~タンタンタン♫が聞こえてきて、「こんにちは、えがみ とみ でございます」と話しはじめました。
わが家ではじめて見た番組が「NHKの今日の料理」というのは、何だかハルコの未来を予見していたのでしょうか。

江上トミさんがハルコがはじめてテレビで見た料理研究家だったのでしょう。
ハルコも早速「江上トミでございます」と物マネのレパートリに……(どんな小学生だ!) その江上トミさんのテレビでの露出が、現在に繋がる料理研究家の草分けではないでしょうか。
熊本の名家に生まれて、19歳で結婚した婿養子の夫の最初の赴任地(陸軍関係)で、東京は本郷の東京料理学校で料理の基本を学び、1927年に夫の赴任地パリのコルドン・ブルーで2年間フランス料理を学び、帰国して知人達に料理を教えていたのが大評判になったそうです。
戦後に夫が公職を退き、一家を支えるために福岡で料理教室を始めて、1949年に「江上料理高等学院」を開校しました。
もう15年以上前の話ですが、福岡時代の江上トミさんの生徒で、その後東京で料理研究家になった方と仕事をしたことがあります(その方はもうお亡くなりになってます)。
生徒も多く、随分盛況だったようですね。
その後、江上料理学院は東京に進出し、戦後のベビーブームと花嫁修行で入学者が3000人にもなったのです。
そしてNHKの「きょうの料理」が始まり、「江上トミでございます」に繋がるのです。
この時代に活躍した江上トミ、飯田深雪、土井勝、村上信夫、辰巳浜子、辻嘉一、小野正吉、陳健民、玉馬煕純……。と、テレビ創世記の料理番組の巨匠達ですね。


元帝国ホテル総料理長・村上信夫さん(写真提供/帝国ホテル)

一度、帝国ホテルの現総料理長田中健一郎さんに取材した時に、村上信夫さんが「NHKのきょうの料理」に出ているのを見てから料理人を目指したと伺いました。
現在の料理研究家のベースには、テレビに出演していた方々の影響があったのは、まぎれもない事実なのです。
(つづく)

2012年11月12日月曜日

職業としての料理研究家……その2

ハルコは昔、勤めていたデザイン事務所で『家庭画報』のデザインをしていました。当時はまだ四大婦人雑誌全盛時代で、後発の家庭画報は200ページ足らずの薄い雑誌でした。

その頃から他の婦人誌と違い、家庭画報の巻頭は料理を中心にした編集方針で、そこには多くの料理の先生達が登場していました。
ランダムに書くと、牧田文子、城戸崎愛、河野貞子、飯田深雪、江上栄子、遠藤功、川上のぶ、波多野須美、入江麻木、高見沢たか子、ポンツィオ・トモ子、阿部なを、末村順子、村上信夫、入部隆司、土井勝、小川忠彦、志の島忠、千澄子、春田光治、村上昭子、清水信子、小野正吉……。
さて、どのくらい顔と名前が一致するでしょう。
その頃は、料理を作る人もプロの料理人、料理研究家、玄人に近いアマチュア、調理師学校の先生……と現在の様に料理研究家はそんなに多くはいませんね。
やがてハルコはフリーランスになり、事務所を構えて仕事を始めましたが、料理研究家の名前は知っていても、直接会って仕事をするという接点や機会は、まだありませんでした。


はじめて生(?)の料理研究家に会ったのは、それからまもなくの『ファミリーサークル(アメリカでその当時400万部発行されていた日本版)という雑誌の忘年会でした。
今でこそ、男性でイケメン料理研究家は沢山いますが、“元祖イケメン料理研究家”といえば、この人でしょう。
入江麻紀最後の弟子(入江麻紀の娘は入江美樹で小沢征爾の奥さん)で鮫島正樹さんです(写真は青山にあったカンセイで坂田シェフ、鮫島さんにハルコ)。
今でもダンディですが、その当時は料理研究家でモデルと、マダムキラーでした。



鮫島さんとも20代からの付き合いですが、その編集部のアルバイトに現在料理研究家になった川津幸子さんがいたのです。
『ファミリーサークル』編集部から、世界文化社へ。さらに『オレンジページ』の料理チーフとして創刊に関わり、フリーになり栗原はるみの『ごちそうさまが、ききたくて』や、山本麗子の『101の幸福なレシピ』を編集した後に、エコールキュリネール国立でフランス料理を学んだのです。
その当時、自ら料理を作り編集する料理研究家になろうとは、ハルコも川津幸子さんも思っていなかったでしょう(写真は30年前にハルコが企画したボジョレーヌーボの会にて。右奥には酒井一之さん)。
料理が好きで、編集の世界からアプローチして料理研究家となった彼女は、「100文字レシピ」などの本ではさすがの優秀な編集者としてのアプローチは新鮮でした。
(つづく)

2012年11月9日金曜日

職業としての料理研究家……その1

この所曜日感覚が無くなっています。
12月1日に発刊する健康系の雑誌の創刊で追われてます。若い時は雑誌の仕事も楽しいですが、歳と共に雑誌の仕事はつらい物がありますね。
単行本などの書籍と違い、雑誌は取り次ぎ搬入発売日を厳守しないと“事故”になってしまいます。


さて、昨日はその雑誌の撮影で立会をして、料理研究家の奥園壽子さんと初めてお会いしました。今まで奥園さんとは間接的には仕事をしていたのですが、それも奥園さんがタレント化して、ホリプロ所属になる前です。
撮影をしながらふと考えたのは、「職業としての料理研究家」とは何か、ということです。
これが「料理研究家の仕事」ならば、内容は料理教室で教えたり、料理のレシピ本を出したり、講演会をしたり、企業の商品開発やらコーディネートなどがありますが、「職業としての料理研究家」ってなんだろう?と考えたのです。

普段からプロの料理人以外に、料理研究家、フードコーディネーター、フードスタイリスト、テーブルコーディネーター、○○料理研究家……という肩書きの方達とお付き合いもあり、数えたことはないのですが、相当数の方達と知り合い、随分一緒にお仕事もしております。
失礼を顧みずに言うと、パーティなどで石を投げると料理研究家の方達に当たります。
考えると不思議です。なにせ、“料理を研究する”のです。広義で捉えると、料理を研究するのであれば、ハルコも料理研究家ということになります。
でも、世間一般での料理研究家というのは、それとは別なイメージですね。
しばし、来週から料理研究家について考えてみます。
本日は予告編です。

2012年11月8日木曜日

包丁いっぱい

今日11月8日は岐阜県関市の包丁供養“いい刃”の日です。今日で包丁のお話は一旦お休みです。

現在ハルコ所有の包丁は、自宅、事務所、新潟のダーチャの3カ所にあります。以前も書きましたが、実は何本あるか判りません。
自宅のキッチンの一番上の引き出しには、ペティナイフだけでも10本近くあります。大きさや用途(少し波刃)で違いはありますが、最初に手に触れたものを使います。
その他に、各種の包丁のうち使用頻度の高い包丁は、流し台の扉の包丁挿しに10本ほどあります。

さて、そこから先が不明です。
昔買ったフランス製の包丁セットが専用のケースに入っていたり、京都の木屋で買ったハルコの名が刻まれている包丁は、使用した後は箱の中にしまい込んでます。
さらに使用頻度の少ない出刃包丁、柳刃包丁は、箱や新聞紙にくるんで何処かに分散しています。数えるには全部探し出さないと無理ですね。
新潟のダーチャには自宅ほどはなく、使用する分の包丁が10本程度でしょうか。

家庭で普段使いの包丁は、まず万能包丁三徳包丁と言われる、野菜、肉、魚など、何でも切ることの出来る包丁(180mm)が1本と、小型のペティナイフが1本あれば、たいていの料理には取りあえず間に合います。

ここからさらに包丁を増やしていくのであれば、冷凍食品やパンを切る波刃の包丁は必需品です。
余裕があれば、野菜専用の菜切り包丁、肉を切るために長めの牛刀(シェフズナイフ)、魚をおろす出刃包丁、刺身を引く柳刃(刺身包丁)まであれば、大概の物は切ることができます。
あと重要なのは、刺身や魚をおろすのには、諸刃(両刃)ではなく片刃がお勧めということですね。素材はさび易い鋼ではなく、ステンレス製で充分です。
これに、砥石の中砥と仕上砥を持てばパーフェクトですね。

2012年11月7日水曜日

包丁5本


雑誌のハルコ連載などの取材で、多くの料理人の方々の包丁を拝見させていただきました。
また食事に行った際も、料理人さんから包丁の話を聞きながら、包丁を見せていただきます。場合によっては包丁を握るのを許してくださる奇特な方もおります。

これは、おおよそ100名近くの料理人さんから見聞きした、包丁への思い入れ度の比較感想です。
関心度が強いジャンルから見ると、ダントツの1位は鮨やさん。次に和食・日本料理に、3位はフレンチ、4位は中国料理で、最下位はイタリアンです(ハルコの感想です)。
中には、現在フレンチだけど日本料理からイタリアンへ行き、フレンチになった料理人がおり、牛肉の塊を和包丁で引く方もおりますが、これは例外ですね。

やはり魚介、特にお造りを扱う料理人は包丁への思いが強いですが、鮨職人さんには負けますね。
「はしぐち」の橋口さんから聞いた話は、店が終了後に毎晩包丁を研ぐのですが、研ぎ過ぎて、刃先が小さく(カンナの削りを想像してください)“返し”になって手を切ることがあるそうです。
また、銀座の「小笹寿し」の寺嶋さんは、柳刃包丁を長年研いで研いで、使う半分の長さになっても使い続けて、柄は3度も細くなり替えたというのも聞きました。
お客さんから預かった鋼の包丁を、研ぎ直して上げたのを見せていただいた事があります。こんな話が山ほどありますが、またの機会に。
(つづく)

写真はハルコの包丁指南本で、台湾でも中国語でも出版されたのです(少し自慢!)。

2012年11月6日火曜日

包丁4本

自分で「包丁○本」とタイトルにしましたが、当然包丁の数え方“本”でも“挺・丁(ちょう)”でもよくて、柄のある道具は”柄(へい)”とも呼びます。
同じような切る道具の「刀」の数え方は意外に多く、本・振り・口(ふりくち)・口(こう)・腰(腰)・刀(とう)・剣(けん)・匕(ひ)があります。匕は肉を切るための短剣や懐剣を表し、短剣を数える語です。

と、書くくらいに包丁と刀は非常に近い仲間ですね。
鮪包丁になると刃渡りが150cmになるくらいの物もあり、こうなると普通の刀よりも長いのです。
地域での違いはありますが、実際に和包丁と刀の各部分の呼称は相当重なっています。日本刀鍛造包丁と呼ばれる包丁は、軟鉄と鋼の鋼材の合わせ方が似ているのです。


写真はハルコがデザインして、四国の刀鍛冶さんに依頼して造ってもらった包丁です。峰の所をもう少し山にしたかったのですが、ちょっと違いますね。
波紋といい、これは日本刀とまったく同じですが、片刃の和包丁なのです。
片刃と書きましたが、皆さんはご存知ですよね。
刃が片方に付いていて、両方に刃が付いているのは「諸刃(もろは)」と言います。
「両刃(りょうば)」という言い方もありますが、本来両刃は剣や鋸のように両方の側に刃が付いているものを指します。

ともあれ戦国時代が終焉した時点で、刀鍛冶は包丁などの道具作りになり、さらに明治維新後に廃刀令が出て、民生用に転じたのですね。
毎年1月に「世田谷ボロ市」がありますが、昔はこのボロ市で素晴らしい鍛造の包丁が随分出ていたそうです(これは、魚柄仁之助さんから聞いた話です。魚柄さんは骨董商をしていたそうです)。
何故かというと、明治維新後に刀鍛冶が仕事を無くして、世田周辺に住みはじめて包丁作りをしていた名残りなのです。そのため、世田谷ボロ市では鍛造包丁が多く売られていたそうです。

2012年11月5日月曜日

包丁3本

ブログの包丁○本は、11月8日の関市での包丁供養「いい刃」まで書く予定ですが、タイトルを付けた本人があまり面白くないなぁと思ってます。

先週の金曜日は、前日からの続きで朝の8時から夜の7時まで、ぶっ通しで包丁の撮影をしておりました。
貝印の商品開発から販促までのアドヴァイザーをしているのですが、包丁関係でもかなりお手伝いしているのです。


ハルコは外部のプロの料理人さんに貝印とのコラボ企画を持ちかけて、貝印と契約していただき、商品開発を手がけているのです。
その中の一人に、「トゥーランドット臥龍居」の脇屋友詞さんがおります。
脇屋さんには色々と協力していただき蒸し鍋なども作りましたが、やはり、一番作りたかったのは中華包丁です。
中華包丁というと、「ごつい」「重い」というイメージですが、家庭用でもっと使い易く、と考えて2本(丁)デザインしたのです。
ひとつは、中華ペティで小型で普段使いに、もうひとつは大型の中華包丁です。
しかし、大型の中華包丁は矛盾を抱えているのでした。
重い中華包丁は素人には扱いにくい包丁で、軽量化を図りましたが、本来は包丁自体の重さで素材を切るものなので、どの程度軽くするかというのが悩み所でした。

秋からのフジテレビ系の新番組で「アイアンシェフ」が始まり、脇屋さんがアイアンシェフとして登場、現在貝印は脇屋さんの包丁サポートをしております。
写真は「アイアンシェフ」第1回で脇屋さんが使ってくれたハルコデザインの中華包丁です。
本式には、同じく貝印で開発したミシェル・ブラスの中華包丁がプロユースだと思いますが、Wakiyaマークの中華包丁も良い包丁ですよ。
(続く)


2012年11月2日金曜日

包丁2本


朝から貝印で包丁の撮影をしております。
オッホン! 今日のハルコは包丁の使い方・切り方の先生です。
えっ、ハルコにそんな高度な仕事が出来るのかって?
てへ、なりゆきです。

昨日は撮影の最初に、カメラマンさんが手を切ってしまい、4針も縫うことになり、今日までずれこんでしまったのですよ。
引き続き、撮影がんばります!
(続く)

2012年11月1日木曜日

包丁1本

ブログをはじめて1年以上になりますが、包丁のことを書いた記憶がありません。
食や料理の事はほぼ毎日買いてますが、そう、包丁は書いてませんね。

包丁はハルコにとって大変重要な意味を持っています。
初めての自著が包丁の使い方の本だったせいもありますが、包丁が好きなんです。別に怪しい意味ではなく、料理に無くてはならないし、調理していても切れる包丁は料理自体も楽しくしてくれますね。
仕事をしない日があっても、旅行中を除けば、ほぼ毎日包丁のお世話になっています。

全国の刃物産業のある地域では、それぞれに包丁供養があります。岐阜県の関市では、今月の11月8日(良い刃)は包丁供養の日です。
包丁1本さらしに巻いて、修業に出たのは板前場の修行ですが、ハルコも割烹着に三角巾姿で、延べ80人以上の料理人さんの元に修行に行きました。
これから、何回か包丁修行と包丁のお話を書きたいと思っております。
今日はこれから、貝印で包丁の使い方の撮影があり、監修者の立場で出かけます。

写真は、ハルコが作った貝印の一般向けの「包丁入門 基本のキ」と、社内向けの「貝印包丁マニュアル」です。


「包丁入門 基本のキ」(写真左)と「貝印包丁マニュアル」(写真右)

2012年10月31日水曜日

上海蟹到来!


生の上海蟹(左)と蒸した上海蟹(右)。

今日で10月も最後ですね。
昨日は締め切り作業に追われて、夕方から貝印カイハウスで美容関係のイベントがあり、バタバタな1日でした。
ブログも書く余裕もなかったのですが、最後は神保町の「新世界菜館」で晩ご飯に。
前に新世界菜館に行った時から上海蟹はあったのですが、昨日が今シーズンのお初でした。

1年中で11、12月が一番食べ物が美味しい季節だとハルコは考えてます。
この上海蟹もそうですが、間人(たいざ)蟹(あぁ、涎がでますね)に、生牡蠣、河豚、それにジビエ!
夏から秋にかけて収穫された、それこそ山海の珍味の季節の到来です。
来ました! 来ました!
しかし、ハルコブログで確認したのですが、昨年上海蟹を食べたのは10月28日
今年も大体同じような時期ですね。最初に新世界菜館で見た時は、まだ暑かったので見送ったんですね。やはり、寒くならないとだめですね。

上海蟹は年中ありますが、なぜ秋からの食材なのかと調べると、上海蟹は夏に活動が盛んですが、寒くなると急に動かなくなり、蟹味噌や蟹肉が一気に蓄積されるそうです。まぁ、ハルコのお腹と一緒ですね。
また、10月の雌、11月の雄といわれるように、微妙な味比べが出来るのです。

上海蟹を最初にいただいたのは、まだ上海蟹が一般的ではない時代で、26年くらい前でしょうか。上海蟹の輸入元締め、神保町の「新世界菜館」の傅健興さん上海蟹を食べる会に参加したのが最初だったと思います。
目の前に生きた上海蟹がタコ糸で縛られて、付いている札に自分の名前を書いて蒸してもらうのですが、途中で蟹が逃げて、テーブルの下で捜索して大騒ぎになったことを思い出しました。

シーズンの開始はまずは新世界菜館からというハルコでした。


2012年10月30日火曜日

今日のブログはお休みします


いつもハルコを応援してくださる皆様、ありがとうございます。

本日、ハルコは多忙のため、ブログをお休みします。
今後ともハルコをよろしくお願いいたします。

近況はFBにて随時発信しております。
ハルコのfacebook

2012年10月29日月曜日

“天のしずく”辰巳芳子

日曜日は朝6時から夕ご飯の仕度でおでんを仕込み、栗ごはんの用の栗をむいたりとバタバタしておりました。
9時に新宿伊勢丹キッチンステージの立ち会い準備のため入館し、セミナー終了後の今度は秋葉原に「天のしずく」辰巳芳子“いのちのスープ”の試写会に参加しました。


この「天のしずく」は、料理研究家の辰巳芳子先生のドキュメント映画です。
NHKの「今日の料理」のプロデュサー矢内真由美さんらの企画で、脚本と監督も元NHKの河邑徳さんで制作されました。
実は、貝印も制作に協力しているのです。あまり知られていませんが貝印はかなり文化事業に協力・協賛しているのですよ。 今回の試写会は貝印の主宰で行われ、上映後に矢内さんと河邑さんのトークショーもありました。

本当に心に染み渡る良い映画でした。
辰巳さんが話す、料理を作る、料理を食べる人、野菜を作る人、季節の移ろい、そして3月11日。
昔勤めていたデザイン事務所で、家庭画報のデザインをしていました。おそらく1975年頃でしょうか、家庭画報の連載ページに「母と娘の対話」というのがあり、そこで辰巳浜子さん(母)と芳子さん(娘)の対談ではじめてお名前を知りました。
今朝事務所の家庭画報のバックナンバーを捜してみたのですが、見当たりませんでした。でも、記憶では母娘で庭に立っている写真を今でも覚えています。

わが家でも、調味料の使い方は辰巳芳子さんの影響を受けています。
最低限の調味料で複雑なことはしない。簡便よりも、手間隙掛けながらも合理的に調理をする。
ハルコのキャッチフレーズ「不便って美味しい」は、通奏低音では辰巳芳子さんと重なっているんです。
是非、機会がありありましたら、「天のしずく」をご覧ください。

天のしずく製作委員会
http://tennoshizuku.com

2012年10月26日金曜日

ハリーの災難

昨日はブログも書けないくらいバタバタの1日でした。
まぁ、夜の志の輔の「中村仲蔵」を聞きに行くために、昼ご飯も抜きで仕事をしてヘトヘトでしたが、いや、今日になっても昨夜の中村仲蔵を反芻しているくらい面白かったです。

さて、10月26日はわが家で長年生活を共にしていた飼い猫の命日です。
以前住んでいた白金で、怪我をした猫(血だらけでした)を拾い、オクサマが仙台坂下の動物病院に連れて行きました。
病院から電話があり、「今日手術しないと助からない」とのことで手術を了解しました。
それからしばらくして(忘れていました、動物病院から電話があり、「元気で餌を食べているので引き取りに来て下さい」
手術料を聞いてびっくり!
え~~っ、血統書付きの猫が何匹飼えるの~~~~!?

と、いうわけで病院へ行き、手術代(皆さんから温かな寄付をいただきました)を支払い、猫の名前は?と聞かれ、「はて、この猫飼わないといけないんだ!」と、その時に認識した次第。
名前はハルコの本名、ハルヒコからと、ヒッチコック監督の映画『ハリーの災難』から取り“ハリー”と命名したのです。

ハリーこと正式名“ハリー・サンタ・ドミンゴ・ドン・ジョバンニ”
茶トラの雄です(拾った時にはすでに去勢済でした)。その当時の推定年齢(動物病院調べ)は4歳。2005年で推定26歳で天寿を全うしたのでございます(人間だと百数十歳)。
人間だと七回忌でしょうか。まぁ、こんなに長生きするとは思いもよりませんでした。

ハリーの好物は“イカ刺し”“まぐろ”“ウニ”でした(まぁ、何て贅沢な!)。
ブログのハルコが魚の干物を与えている後ろ姿の猫こそが“ハリー”なのです。
人世の中でただ一度きりの猫との出会いです。
「生涯一猫」
写真はハルコが描いたハリーの絵です。