2012年12月10日月曜日

下流へたどり着いたフレンチ

土曜日は久しぶりに本郷からお茶の水、神保町まで、途中で昼食を挟んでウォーキングをしました。
神保町で、料理書を多く扱っている古書店「悠久堂」へも途中で寄りました。
定期的にこの古書店は覗くのですが、事務所にある現在入手出来ない、料理関係の書籍はここで買っているものが多いですね。
 

見つけたのは秋山徳蔵の『料理のコツ』と『味と舌』
たぶん文庫でも読んでいるとは思いましたが、現在はすべて廃刊ゆえに購入しました。
秋山徳蔵は“天皇の料理番”として有名で、宮内省大膳職主厨長を長らく勤めた大料理人ですね。
写真には以前に悠久堂で購入した『秋山徳蔵メニューコレクション』も有りますが、これは、宮中晩餐会で饗された数々の貴重なメニューなのです。
ふと思ったのは、現在自分たちが外食で食している料理の数々は、元々ある身分制度の元に、一般庶民の伺い知る由もないところから、ある事情で“上から下に料理が流れて”来ているのではないかということです。

宮中での晩餐会は、基本的にフランス料理が中心になっています。
これは、元々は18~19世紀の外交の基本用語がフランス語で、晩餐は同じくフランス料理であったわけです。
フランス料理自体は、フランス革命によってルイ王朝や貴族の料理人達が大量に失業し、新興勢力の裕福な層に専属料理人として雇われて、“ブルジョワ料理”が誕生しましたが、これはまだ庶民まで流れて来ません。
さらに、そこから出て来た料理人達が“レストラン”という名前のスープを元にして、現在に繋がる“レストラン文化”が出現するのですが、それは今度はロシアのロマノフ王朝の崩壊によって、大量のロシア貴族や裕福な階層がフランスに亡命して来て、フランス料理の最盛期に突入し、フランス料理が世界の料理の中心に座することになるわけです。

1909年に秋山徳蔵は、フランス料理の修業のためにパリへ旅立ちます。
日本でも相当フランス料理や西洋料理は、大都会では食べられるようになったわけですが、一般庶民にはまだ高嶺の花ですね。
しかし徐々に上から水が流れるようにして、文化がジワジワと浸透していくものですね。いつの時代でも旨いものを食べたいという層の欲求があるわです。
また、戦後になって高松宮家がゲストハウスにしていた「光輪閣」がなくなり、そこにいた人々で起こされたイタリアレストランが「キャンティ」となるように、上流から下流への「食文化の流れ」が必要だったのです。

40年近く、フレンチを中心にした東京の“12月クリスマスシーズン”を見てきましたが、高級フレンチの地位は年々下がってきているような気がします。
それは、川下までこの数十年で達したということでしょうか。
その先は……?

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