2013年6月7日金曜日

馬刺の裏面史

昨夜は渋谷「銀座ほんじん」で晩ご飯でした。
一昨日は体調不良で休んでいたのですが、「元気の出るホルモン鍋」で復活です。
最初に馬刺を出していただいいて、芋焼酎との相性もよく満足でした。


さて、馬肉をいただきながら、日本で馬肉がどのくらい普及していたのだろうかと考えたのです。
馬肉は別名「桜肉」とも「蹴飛ばし」とも言いますが、馬刺は熊本県の郷土料理で、古来より馬の産地と深い繋がりがありました。
ただ、日本では表向きには獣肉は禁食なので、「桜鍋」などと称して「薬食喰い」されていましたが一般的ではなく、明治になっても馬肉に対してのタブーは残っていたのです。
しかし、馬肉は脂の融点も低く、生肉でも口で溶けるのと今や人気の食材となっていますね。

さて、ここからが本題です。
馬肉料理を食べる文化の根付いていた場所は、馬の産地の他にもあるのです。
それは、鉱山のある地域なのです。過酷で多湿な劣悪な労働環境で、「よろけ」という鉱山病の予防のために馬肉(内蔵)を食べていたのです。
炭坑として発達した地域には「ナンコウ(馬肉)」を料理供する居酒屋や料理が多く出現したのです。
「ナンコウ」とは、馬肉と言うのを嫌がった人々が、江戸時代の方位で「午は昼九つ南向(ナンコウ)」と名付けたそうです。
これが秋田から北海道の鉱山のある地域に伝播していくのですが、近代になって朝鮮半島から使役として来た朝鮮人が、過酷な労働の中で午の内蔵や骨すら食べて生きながらえてきた貴重な栄養源でもあったのです。

単なるグルメや美味しいという観点を離れてみると、食文化には複合的な歴史の裏に真実が見えてくるのではないでしょうか。

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