2016年12月19日月曜日

予約の取れない店症候群


















10数年ほど前か、ある日本料理店で定期的な食事会に誘われて参加してました。
この店は、日本版ミシュランが出た時にいきなり3つ星になったのです。

その日本料理店で、一緒に同席した女性のお話です。隣で食事をしながら美味しいものや,
どこどこにこんな店がという、たわいのない話をしていました。

色々と美味しい物が大好きで、日本、海外に限らずに食べ歩きをされていたとか。

メールで情報交換をするようになりましたが、
「予約の取れない(取れなかったら誰も行けないが)、
取り難い店」ばかりに行こうとしている方でした。
最初は、簡単な情報交換が、だんだん執拗な「どこどこの店に行きたいので、
予約をして一緒に行ってもらえないか」と。

出来る事なら要望に応えて上げたいとは思うのですが、
当方もそんなコンシェルジュを生業としている訳でもなく、
ましてそんな彼女が望む高額な料金の店に行ける身分でもありません。
だんだん面倒になり、メールも返さないでいるうちに、お付き合いは途絶えました。
彼女は日本では誰でも知っているナショナルブランドの一族出身で、
そんな方だからどこでもコネクションで予約出来るはずなにと思っていました。

最近もこの「予約の取れない店」に血道を上げている方が増えてますね。
しかし、半年後や1年後に予約してその時に、それが食べたいかどうか判りません。
話題性のある店にイチ早く行き、そこの常連になりたい、
その気持ちは判らないわけではありませんが、
集中豪雨的に一時期店の予約が困難になるのは、
料理店にとっては,勲章なのか、繁盛の象徴なのでしょうか。


江戸の札差(ふださし)の「十八大通」「東西料理番付:の時代から
今日の「★付きレストラン」まで「予約困難店症候群」は絶えないですね。

これも一種の病気だと思います。
お大事に!

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2016年12月2日金曜日

チーズの本







子どもの頃チーズと言ったらプロセスチーズでした。
硬いチーズを切って、不味いとも思わなかったのですが、旨いとも感じませんでした。

チーズは食卓から遠い世界の食べ物でした。
その後にチーズらしきものは食べていたのですが、関心の外という素材だったのです。

そして、本格的にチーズに目覚めたのは、フランス料理を食べ始めた当たりだと思います。
食後に残った赤ワインで、チーズをいただくという楽しみを知ったのです。

ワゴンで運ばれたチーズの中から好みのチーズを選ぶという贅沢さは特別です。

そして、ヨーロッパに食べ歩きをはじめてパリのレストランで日本と同じ種類のチーズを頼んで
食べた時の衝撃は忘れられなせん。

なにせ、同じチーズとは思えない味だったのです。
チーズにも新鮮さと食べ頃があるのを遅まきながら知ったのです。

さらに、フランスやイタリアの地方で食べたチーズは
都会で食べるものより断然に旨いというのが判ってしまったのです。
そんな時代から30年、今や東京では世界中の状態の良いチーズが
選び食されるようになりました。

夏に撮影していた恵比寿にあるチーズ専門レストラン
「スブリデオ レストラーレ」(吉田健志シェフ)の本が出来あがりました。

チーズをさらに料理に!
https://www.amazon.co.jp/酪農ビストロのとろけるチーズレシピ-恵比寿「スブリデオ-レストラーレ」に習う-吉田-健志/dp/4418163441

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2016年12月1日木曜日

グラッパ



食後のアルコール度数の高い蒸留酒は”消化剤”とウソぶいているハルコ。

以下は個人の感想ですが、
蒸留酒はチビチビ飲まずに一気に飲み干す方が好きなのです。
ブランデーやアルマニヤックなら、芳醇な香りを愉しみながら、
口の中で転がす様に飲むのですが、
グラッパやマールは”クワッ〜!”と喉ごしと胃の腑が”カッ〜”と
熱くなるのが良いのです。

一気に飲み干したら、目を一度くるっと廻す!
これは、ジョン・ウェンが映画の中でバーボンを飲む時の演技です。
ジョン・ウェンはさらに、手の甲で唇を拭うのですが。
または、バールのカウンターでヨレヨレの姿でくわえ煙草をしながらグラッパを
あおっているマルチェロ・マストロヤンニ。

ジャン・ギャバンならマールか、このギャバンと若い頃の
ジャン=ポール・ベルモンドの競演した『冬の猿』(1966年)は
したすら全編酒を飲んで酔っ払うシーンしかなかった。

ともかく映画の中のスター達のように
かっこいい飲み方を真似ては、翌日二日酔いになっていたもんです。
(全然かっこよくない!)
が、最近は酒量も落ちて昔のような飲みかたは出来ませんがね。

先日麻布のケパッキアで食後にグラッパを愉しんでいましたが、
「まぁ、見ていないから適当に呑んで」と!
お店のご好意にご満悦顔のハルコでした。

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2016年11月29日火曜日

イワテバル




11月21日に東日本大震災以来の、大きな地震で津波が発生しました。
丁度その日は、岩手へ出張で、新幹線が大分遅れましたが、何とか目的地の
雫石町へ到着しました。
小岩井農場の隣14ヘクタールに新しいコミュニティを作るプロジェクトで
現地視察でした。
来年からの開発で決まれば、食を中心にした監修を行うことになっています。
これは、またの機会に書きます。

さて、27日の日曜日に渋谷の道玄坂にオープンする予定の
「イワテバル」というお店のオープンングに参加しました。

ちょっと長いですすが、プロジェクトの佐々木達麿さんの言葉です。
12月1日からオープンします。
よろしくお願いいたします。(ハルコ)

岩手bal project 始動

ここ東京から岩手の為に出来る事。
あの震災の後から考えてきた事。
何が出来るか?
何をするか?
モヤモヤした気持ちと、頭の中に浮かんでは消えていくアイディア。
結局何もしていない。
自分の行動力の無さに辟易とする。
きっかけを与えてくれたのは、偶然に訪れたあの震災の取材を受けた時だった。
『東京だからこそ出来る岩手の良さを
発信していきたい』
活字となった自分自身の言葉に、
ドンと背中を押された気がした。
紙面にでたそれを見る度に思う
『有言実行』
もう大分前になるが、テレビの中の人が言っていた
『いつやるの?』
そう、きっと今なんだ。
今しかないだ。
まだまだ頭の中のイメージはまとまりきっていないし、物件探しも難航している。メニューの事やら、料理のレシピやら、宣伝広告の方法や、仕入れ業者など考える事は山積みだ。
しかし、不思議とそんな苦悩している事すら楽しんでいる自分がいる。
調べれば調べる程、岩手には魅力ある食材や地酒が山程あるからだ。
そして、あの震災から粘り強く立ち上がり再興している生産者さんや酒蔵さんの存在を知り、少しでも追い風になるような店作りをせねばと決意を新たに、
また頭をひねる。
岩手bal project
それは店をオープンする事がゴールではなく、永続的に岩手の魅力を発信し続ける事。
遠い故郷に想いを馳せ、ここ東京で頑張っている岩手人の盛り場になる事。
そして、懸命に再興に尽くす生産者さんへの道を作る事。
コンセプトはブレない。
そしてこの計画は私1人のモノではありません。
ここまで読んで下さった皆様方にも、
是非ご参加して頂きたいと思っております。
店作りへのアイディアやアドバイスから、岩手の耳よりな情報、生産者さんのご紹介などなど。
もちろん、お店が完成した後に、
岩手の肴で一杯やる、そういった形も大歓迎です。
皆様の御力をほんの少しで構いません、
世間知らずの私にお貸し頂けたら幸いです。
長くなりましたが、これからの活動記録は随時こちらで更新していきます。
ご拝読ありがとうございました。
岩手bal project 佐々木 達磨

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2016年11月18日金曜日

逆さ箸はダメ!



料理を取り分ける際に、取り箸が無い場合どうしていますか?
自分の箸を逆さまにして、持ち手の部分で料理を取っている
方がたまにいますが、先日も‥‥‥‥。

目の前で逆さ箸で大皿から取った料理を取り皿に移しているではありませんか!
その時は面倒だったので言いませんでしたが、過去に何度となく
この逆さ箸はダメだと言っているのです。

しかし、この逆さ箸は正しいマナーだと思われている方が非常に多いですね。
大体自分の手元でつかんでいた箸を逆さまにして料理を取ったら、
こんど元に戻してた時に手元が汚れてしまうではないでしょうかね。

また、それで取り箸されたら、相手に自分の手元の汚れをわざわざ付けているという
不衛生に気がつかないのでしょうか。

これらの「逆さ箸(返し箸)」はのマナー違反で、
「嫌い箸」「忌み箸」「禁じ箸」と言われているのです。

直箸も確かに良くはないですが、個人的には逆さ箸よりはましだと思ってます。
取り箸がない食卓では、「今日は直箸でも良いですか」と聞いてから食べはじめます。
まぁ、潔癖の人はだめでしょね。
しかし、韓国ドラマの食事で、直箸で取った料理を相手の
茶碗やレンゲに直接入れるシーンがよく出てくるのを見ると
これは、嫌だなぁと思うのですが。

また、和食の場合は、箸で料理を崩して食べますが、
たまに箸で崩せない硬いものが有る時に往生しますね。
箸をフォークやナイフのようにして切るなんてマナー違反だし、
硬いものは食べやすい大きさに切って出すのが常識なのです。

分とく山の野崎さんの教えは「適当」というのはサイズの事で、
和食で適当に切るというのは、箸でつまんで口に一度に入る大きさのことを
「適当」と言うのだと。

箸をめぐる世界は奥深く面白いです。


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2016年11月15日火曜日

鮨屋の海苔






鮨好きなハルコです

しかし、大トロなどの高価なネタはあまり好みではなく海苔巻きが好きなのです。
正確に言うと鮨屋さんの海苔巻きの「海苔」が好きで気になるのです。

以前、新規開店したばかりの鮨屋さんへ一時期通っていました。
つまみも、鮨もそこそこ旨いのですが、海苔がいけません。
親方に(まだ若い)この海苔はなんとかならないですか、何度もお願いしたのですが、
一向に改善されないので、足が遠のいてしまったのです。



先日、新規開店したばかりの鮨屋さんへ出かけました。
お任せでつまみから握りへと移り軍艦巻きの時に、
無造作に保存袋から海苔を取りだして巻いたのです。
「あれっ」と思いましたが、案の定海苔が湿っていて、口の中で喰いちぎろうとしましたが
中々切れませんでした。
おそらく、開店前に海苔を焼いてそのまま袋に入れておいたのでは。
ここの鮨屋さんはダメだなぁ、と思ってしまったのです。
普段なら追加で頼む細巻きも食べずに店をあとにしました。

「東京の海苔は、焼いた海苔の香りとツヤ、パリッとした歯ざわりが味の命」とは
日本橋吉野鮓本店三代目の吉野曻雄さんの言葉です。
吉野さんの『鮓・鮨・すし』すしの事典によると(この本は名著です)
関東と関西の海苔の使い方の違いをこう書いています。(意訳)

「東京の海苔巻き(焼いてあるので)は湿りやすい海苔の上に飯を
のせて押しつける作業を機敏にしないと見る間に海苔は湿って縮んでしまう。
その点関西は海苔が生だから破れる心配は少ないし、ある程度まで
色やツヤの変わるおそれもない。」

また、吉野さんはこうも書いているのです。

「関西では海苔をいきなりまな板の上にひろげておいて、巻簾を使わないで手巻きする点だ。」

先ほどの鮨屋さんは濡れたまな板の上に海苔を広げて飯を押しつてて手巻きにしているので、
江戸前ではなく、関西で修行をしていたのだろうか、とも考えてしまいました。
兎にも角にも、鮨屋の海苔にはうるさいハルコなのです。

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2016年11月8日火曜日

11月8日は刃物の日



何と4ヶ月以上もブログをさぼってました。
気を入れ直して再開します。
さて、11月8日は「イイハ」で「刃物の日」です。
ハルコが商品開発やキッチンステージでお手伝いをしている貝印は、岐阜県関市が本拠なのですが、この時期に鍛冶屋の催事“ふいご祭”が全国的に行われるので、1996年(平成8年)に、全国の主要刃物産地が協力して「刃物の日」として登録されたのです。

関市といえば、近くにあるのが合戦場で有名な“関ヶ原”ですが、関は鎌倉時代から刀鍛冶が沢山いた場所なのです。
刀の大業物で有名な「関孫六」も、この関の良質な土と炭を求めて関孫六兼元が定住したのが最初なのです。
やがて、江戸時代に刀の需要が落ち込んでくると、関は刀造りの技術を活かして包丁、小刀、鋏などの家庭用の刃物を作り、明治になってはポケットナイフも輸出し、やがてカミソリの刃も造るようになったのが貝印なのです。
そして、現在は「旬」などのブランドで世界的な包丁メーカになりました。


良い料理は良い包丁から。貝印をご贔屓にお願いいたします。

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2016年6月30日木曜日

新しいか古いか、それが問題だ!




今年も半年で折り返し地点ですね。

最近の食を考えていると、「新」と「熟」の対比が気になるのです。
数年前から、
「麹ブーム」や「熟成肉」などの影響で
ある程度時間をかけて食べるという方法が注目されてきました。
それまでは、新鮮な食材が一番良いのだという風潮が支配していました。

「新」の文字を拾うと無数にあります。
新米、新酒は代表格ですが、野菜の新を付けるなら、新ジャガ、新タマネギ、新ショウガ‥‥と切りがありませんね。

「新」の反義語・反対語は「旧」で、感覚的には新米、新酒に対して古米、古酒とあるように、「古」の方がなんだかしっくりきます。
「古」に対する反義語・反対語は「今」なのですが、今のつく食べ物って思い出しませんね。

では、「熟」の反義語・反対語はというと「未熟」なのです。
未熟な食べ物は成長過程途中ですが、成熟するとは限りません。
新しく、新鮮な物でも時間が経つと劣化し、古くなるのですが、全てはそうとも限りません。
ワインを飲む時に「このワインは新鮮だ」とは言いませんね。「このワインはまだ若い」
そこに「若い」という言葉が登場しますが、「若い」の対義語は「若くない」と面白くもありません。

なぜ、こんなことを考えているかと言うと、
「今」の時代は「新鮮」な「熟成」した味を求めているような気がするのです。
新鮮でみずみずしい、は言い換えると味が薄いのですが、新鮮だけど旨味が凝縮している。
どちらが好きかは判断に迷う所です。
魚に関しても、すぐ刺身にしても味がのってきませんね。ある程度寝かして熟成させる必要があります。
これも、逆にいうと新鮮な状態をどう変化させるかという知恵ですね。

科学的な調理技術が進化し、以前の冷凍法など比較出来ないくらいの変化で、単に保存するだけではなく、保存中に新鮮なまま、熟成も可能だという未知の世界に私たちはいるのです。

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2016年6月28日火曜日

続・お弁当ライフ




この所すっかりお弁当生活なハルコですが、
先日、米櫃が空になり、
やはり「お弁当=米」の消費量が多いのが
原因でした。

東京に上京した折は、毎月仕送りがあると、
米をまず買いに行きました。
その量は10kg、今思えば、おバカな
ハルコで、
「3合=お茶碗3杯」だと
勘違いしていたのです。

現在わが家での1回の炊飯量は
2合(300g)で、
1回の食事+お弁当でほぼ食べ尽くします。
ゆえに、週3回自宅でご飯を炊くと、
1ヶ月の米の消費量は4kg弱の計算。
一人で1回3合のご飯を食べようとしていた
ハルコはそんなに大食いだったのか?

さて、現在の日本人の1人当たりの米の消費量は、大体1年間で60kg。
当然、外食分も含めての数字ですが、
これが、昭和35年だとおおよそ120kg。
半世紀で日本人の米の消費量は半減したのです。
戦後の食糧難から、食生活が豊かになり、米が腹一杯食べられるように
なったと思ったら、いつの間にか米離れが進んでしまったのです。

そして、時代をさらにさかのぼり江戸時代の米の消費量は、
なんと1日当たり1人は米五合を食べていたのです!
これは、あくまで米の大消費地江戸の町ですが、
1日に750gで年換算で1人当たり270kgで、米俵に換算すると
約4俵半の量になります。

白米を食べるのが江戸っ子の自慢だったそうで、そのために「江戸わずらい」と
称する病気で多くの人が亡くなりました。
この病気は「脚気」で精白米ばかり食べているとビタミンBが不足してかかるわけです。

米を主食として食べていた民族が、米離れをおこし、
さらに、糖質制限で炭水化物摂取が少なくなり、米を食べないような時代性に
今後の日本の食生活や食文化はどうなるかと、
毎日お弁当をつかいながら、思うハルコなのでした。

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2016年6月13日月曜日

塩辛食おうとて水を飲む

皆さんは「塩辛食おうとて水を飲む」と言うことわざをご存知でしょうか?
これは「塩辛を食べると当然のどがが渇くので、食べる前に事前に水を飲んでおく」という意味で、何事につけて手回しがよいことの例えなのです。

しかし塩辛を食べるからといって、事前にどのくらいの水を飲めば良いのでしょう。
確かに、「調整」というのは日常的にありますね。
今晩はご馳走を沢山食べるので、昼ご飯は軽くするとか、抜くとか。ところが、逆に食べられなくなってしまうと、いうケースもありますね。用心し過ぎてダメになる。
これとは逆に、本番で食べたり飲んだりするために、「練習」と称して食前に飲食する強者もおります。

落語の「試し酒」の中にも、ある商人の家に大酒飲みの奉公人がおりまして、 この男がどれくらい飲めるか? という話になり、 「五升は飲めるか」「いや、飲めないでしょう」と、 二人のヒマな旦那が賭けをする噺がありますね。
旦那に「今ここで五升の酒が飲めるか?」と言われた奉公人が、 「ちょっと考えさせてくれ」と外に出て行く。 そして戻ってくると、一気に五升を飲み干したのです。 

呆れた二人の旦那が外で何を考えていたのかと訊ねると、 「五升と決まった酒が飲めるかどうかわからねえから、 さっき表の酒屋で試しに五升飲んできた」という噺は大好きですね。

現在のハルコはもうダメダメですが、これでも若い頃はかなりの大食いで、鮨屋さんへ行く時なぞ、あまり食べ過ぎると勘定が心配になるので、事前にカツカレーを食べてから出かけたものです(実話)。
鮨屋のご主人にも、「今日はカツカレー召しあがって来ましたか?」とよく聞かれたものです。
また別な鮨屋さんでは、ハルコが店内に入るなり「おーい、暖簾を下げろ」と、まだ宵の口なのに貸し切り状態になることもままありましたが、最近はもうそんなことは不可能ですね。

今は事前に消化剤を飲んで食べに行くと、堕落してしまったハルコでした。

(2013年6月14日再録)

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2016年6月1日水曜日

お弁当ライフ










このところずいぶんブログを休んでました。
気がつくともう6月ですね。
長年外食が多かったハルコですが、最近は自宅でご飯も食べているのです。


一番外食が多い時代は自宅で、ご飯を食べるというのは、月に1~2度くらいだったでしょうか。
今年になって自宅でご飯を食べる機会が増えたきっかけは、2月にインフルエンザになり、
外出できなくなったことにはじまります。

週一度食材の宅配を頼んでいるのですが、外食が多いと食材を無駄にすることも多いのです。
内食だと適切に食べきれるメリットがありますね。
また、外食に飽きてきたのの事実です。

35年に渡り、新しいレストランが出来たと聞いては出かけていましたが、歳とともに食傷気味です。
フードライターをしている方には申し訳ないですが、
食べるということを職業にしているのは大変楽しくも辛いことですね。
外食で食べたいものを考えると、面倒な料理(頭で考えて食べる)は避けたいし、
そうすると、食べたいのは鮨しか残らなくなります。

そして、週一でお弁当持参で仕事場に行くようになったのです。
金曜日に食材の宅配が届く前に、内食して残った食材をお弁当に活用という
割とエコなお弁当なのです。

こんなことを書いていたら、徳川夢声の『戦争日記』を思い出しました。
東京が空襲の脅威にさらされている時で、仕事場にお弁当を持って行くのですが、
当然外食出来る場所なんかありません。
その時、夢声さんは2個お弁当を持っていったそうです。

さて、お弁当ライフですが、実はオクサマの手づくりなのです。


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2016年4月18日月曜日

チューハイの原価率!?



昔、京の嵯峨に”能説法”という弁舌巧みな説教師がいて、
その隣に酒屋を営む金持ちの尼がおったそうな。

この尼公も仏事を行うことがあり、能説法に道士を頼んだそうな。

この話を聞いた近所の人が
「この尼の売る酒には水を入れて売っているので、味が薄いので、
”酒に水を入れて売る”のは罪であると皆に説法する際にお話ください」と。

説法師が仏事が終わったあとに、尼公が大きな桶に酒をなみなみ入れてふるまったとな。

皆の衆は説法のあとなので、さぞや旨い酒が呑めると思ったそうな。



最初に呑んだ説法師があっと叫んで、
「いつもの酒は水臭い酒なのに、今日のは酒くさい水だ!」

これを聞いた尼公は平然と
「さも候うらん。
酒に水入るるは罪と仰せられ候いつのる間、
是は水に酒を入れて候」と答えたという。

これは、中世の時代の隠遁僧”無住”の『紗石集』に出てくる内容。
(『信心の世界、遁世者の心』大隅和雄著から意訳引用)

この行(くだり)を読んでいてなぜか
「チューハイの原価率」という言葉が頭を過りました。

居酒屋さんでチューハイは定番ですが、店によって多少違いますが、
1杯あたりの原価率は数十円で、10~15%なのだそうです。
ちなみに原価率が一番高いのはビールで30%!
まぁ、ビールクズのハルコとしてはビールは当然ですが。

居酒屋さんでソフトドリンクを頼むあなたは、
お酒を呑む客よりもお店に貢献しているのですぞ。

さて、今晩のチューハイは
「水臭いチューハイか、チューハイ臭い水か」

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2016年4月7日木曜日

とと姉ちゃん



4月からNHKの朝の連ドラ
『とと姉ちゃん』がはじまりました。
長年の朝連ドラファンとして毎朝が楽しみです。

ドラマは『暮らしの手帖』の発行人で暮らしの手帖社の社長だった大橋鎭子がモデルです。

初めて『暮らしの手帖』を見たのはもう50年も前のことだったと思います。
母親の生家に遊びに行くとその頃伯母が一緒に住んでおりました。

読書好きの伯母の部屋に行くと沢山の本があり、本棚から読めそうな本を取り出しては遊んでいました。
その中に『暮らしの手帖』がありました。

描き文字のタイトルに、毎回季節ごとに表紙の絵が変わり、子ども心にも“楽しい絵”だと思っていました。
その頃漠然と、絵や図案の仕事につけたら良いなと思っていたのです。

長じてデザイン事務所に就職して、毎日雑誌の仕事をするようになりました。
アートディレクターのボスの元で
毎日朝から夜遅くまで『家庭画報』のレイアウトに明け暮れてました。
仕事の合間にボスが色々な雑誌やデザインの話をしてくれるのですが、
その中に『暮らしの手帖』もありました。

「今の雑誌はデザイン過剰で読み難い。
『暮らしの手帖』のようにシンプルな、手づくり感のある雑誌が良い」
と言って、その頃発刊された大橋鎭子編著の『すてきなあなたに』を見ていたのです。
現在の雑誌は広告収入があって成り立ちますが、『暮らしの手帖』は一切の広告が入らない、ある意味で理想的な雑誌なのでした。

フリーランスになり、最初は『家庭画報』編集部にデスクをもらい仕事をスタートして、どのくらいの雑誌に関わってきたでしょうか。
創刊号もずいぶん立ち上げましたが、廃刊を見届けた雑誌も相当ありました。
雑誌が好きでどんどん編集指向になり、自分で雑誌の編集も何誌も手がけましたが、
これは花森安治の影響なのです。

『暮らしの手帖』の編集長で誌面のデザインから取材までこなした花森安治は、今でもあこがれの人なのです。

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2016年3月23日水曜日

ぬか喜び


いったん喜んだあとで、実はあてがはずれて
がっかりするような、空しい喜びのことを
「ぬか喜び」というのはご存知だと思います。

まぁ、玄米を精製して生じる種子などの
砕けた粉なので、
微細なものという意味で使われていますが、
なんで「ぬか」なんだと思うわけです。

この「ぬか喜び」という言葉は
10世紀前後からあるようで、
その当時はまわりに(目に見える)
あまり適当な微細なものが無かったんですね。

ぬか漬けは江戸時代頃から始まり、
10世紀頃にはまだ、ぬか漬けは無く、
塩、酒粕、もろみ、味噌に
漬け込んでいたののです。
それが、ぬか床で連続して漬け物が出来るようになったのは
画期的な発明ですね。

ぬかで漬けた野菜はビタミンB1で脚気の予防にもなるし、
そんなことがその当時判っていたら「ぬか喜び」なんて言われてないと思うのですが。

さて、わが家でも長年、ぬか床を使った「ぬか漬け」を実践しているのですが、
その肝心の「ぬか床」を何度も、何度もダメにしているのです。

毎日、一度は搔き混ぜないとと思うのですが、
ちょっと出張で留守にしてぬか床の存在を忘れていて気がつくと、
”白カビ””青カビ”が発生する始末です。

今までは、ぬかから真水に塩水と一からぬか床を作っていたのですが、
今回は最初から「熟成ぬか床」を使うことにしました。

忘れなければ良いのですが、「毎日、ぬか喜び」したいものです。

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2016年3月16日水曜日

日々是甚六。富ヶ谷


1974年表参道で開業した「甚六」が昨年末入居しているビルの建て替えで閉店いたしました。

表参道交差点から徒歩1分の近さと、表参道らしからぬ店で長年多くのファンに愛されました。
昨年から移転先が二転三転しましたが、3月15日より富ヶ谷で再スタートしました。

以前の店の名残は、木のカウンターと黒板くらいで、若干狭くなりましたが、半地下のオシャレな店になりました。
表参道時代は事務所もすぐ側で、「わが家の居間」代わりに使ってましたが、事務所も代々木上原に移転した後に、「甚六」の永谷親子に移転するなら、近所に来てとお願いしたら、本当に近所に来てくださいました。

おっと、少し責任感じてます。

最寄り駅は
千代田線代々木公園駅と小田急線代々木八幡駅で、渋谷から東急百貨店方向の最近人気の「裏渋谷」です。
東京都渋谷区富ヶ谷1-14-11 「甚六」
電話 03-3467-0633
定休日は日祝日で、
月土は18時~24時(フードラスト22時半)
火~金は18時~5時(フードラスト3時)

御贔屓のほどよろしくお願いいたします。
※写真は永谷親子です。

ハルコ

2016年3月12日土曜日

311とトモダチ作戦


アメリカ海軍にアーレイ・バークという軍人がおりました。
アーレイ・バークはアメリカ海軍史上でただ1人、海軍作戦部長を3期6年にわたって務めた人でした。
太平洋戦争中、駆逐戦隊の司令官となり、ブーゲンビル島上陸作戦の支援に当たり、日本海軍の巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など多く撃沈破しました。


戦後、大西洋艦隊司令長官となったミッチャー大将の参謀長を務め、朝鮮戦争が勃発すると、アーレイ・バークは極東艦隊参謀副長として日本へ派遣されたのです。
太平洋戦争を通じて、アーレイ・バークは日本が嫌いで反日的・嫌日的な態度を取っていたのですが、あることがきっかけで親日家になったというエピソードが残されているのです。
朝鮮戦争の和平交渉のために東京へ赴任して帝国ホテルを定宿としていたのですが、日本人に対して頑に交わろうとしませんでした。
ある時、ホテルの部屋に花が飾られており、アーレイ・バークは余計な事はするなとホテルに抗議すると、ホテル側は知らないとの返事。
花が枯れるたび、新しい花に代えられていき、アーレイ・バークが調べていくと、客室係の女性が個人的に花を買っていた事が判明したのです。
感謝してアーレイ・バークは花の代金を支払おうとしましたが、女性は受け取ろうとしませんでした。
彼女は戦争未亡人で、夫はソロモン海戦でバークによって沈められた駆逐艦の乗組員だったのです。
「私はあなたの夫を殺した人間だ。どうか許して欲しい。」と謝罪しましたが、彼女は「悪いのは戦争です、何もしなければ死んでいたのはあなたです。あなたは何も悪くありません」と答え、それ以降、親日家になったという逸話があったそうです。

その後アーレイ・バークは日本の海上自衛隊の創設にも尽力し、日本からは旭日大綬章を授与され、この勲章は遺言により棺にただ一つだけ納められたそうです。

そして、2011年3月11日の東日本大震災で「トモダチ作戦」で、
日本にいち早く到着した空母「ロナルド・レーガン」の艦長トム・バーク大佐は
アーレイ・バークの孫に当たるのです。

東日本大震災で復旧、復興に尽力された方々に感謝をこめて。

※写真は鵜住居根浜海岸(宝来館前から)

2016年3月10日木曜日

平田勝さんのこと

ブログをずいぶんさぼってました、

3月9日に平田勝さんの訃報が届きました。
お具合はあまり良くなかったようですが、まだ、享年65歳とお若く残念です。
1988年に麻布に「クッチーナヒラタ」がオープンした週から1年で50回ほど通いました。
ハルコにとって料理の世界を導いてくださった方が幾人かおります。
これは、まだ料理の世界をよく知らない時に、教えていただいたということもありますが、より深く興味を持ちその世界に没頭したということです。

フランス料理は「ヴァンセーヌ」の酒井一之さん、日本料理は「分とく山」の野崎洋光さん、中国料理は「メゾン・ド・ユーロン」の鈴木訓さん、そして、イタリア料理が「クッチーナヒラタ」の平田勝さんなのです。
1988年というと昭和から平成に変わる前年で、この年に「日本イタリア協会」が設立されているのです。
1980年から東京のイタリアンシーンを見ると、平田さんがシェフを勤めていた「ラ・パタータ」がオープンし、以降「ジーノ」「グラナータ」「アル・ポルト」「リストランテ山崎」「トゥリオ」と現在に繫がる名店が誕生してイタリア料理ブームが起きた時代だったのです。
ハルコはイタリアの宗教美術に興味がありイタリアに行き始めた頃で、行くなら美味しいイタリア料理も食べてみたいと思い、「クッチーナヒラタ」に行くたびに平田さんから、イタリア料理のメニューの読み方や、食べ方を教わっていたのです。
ある時はパスタばかりを5種類コースにして食べさせてもらったり、ビフテッカ・アラ・フィオレンティーナを骨付きで3キロ焼いてもらったり、オーヴォリ(きのこ)を初めて食べさせてもらったのも平田さんの所でした。
そしてマダムの千恵子さんが、今日こんなワインがあるのよと「サッシカイヤってワイン知ってる?」と飲ませていただいたのが82年物で8千円ほどでしたが、今やこんな値段では飲む事は不可能ですね。
平田さんの凄いのは、多くの優秀な料理人を育てて輩出したことでもあります。
鈴木弥平さん、石川勉さん、岡村光晃さん、野田武十さん‥‥‥。
みなさん実力も人気のあるシェフ達です。

一度引退した後に広尾の「ちいさな台所ひらた」を開かれて、幾度か訪れました。
平田さんはお元気そうでしたが、マダムの方が身体が辛そうでした。
ハルコの「青唐辛子パスタ」好きのルーツは平田さんのパスタが原点なのです。
一時代を築いた名シェフ平田勝さんの意志は多くの後輩が繋ぐと思います。


心よりご冥福をお祈りします。
ハルコ

2016年2月6日土曜日

海苔の日



今日2月6日は「海苔の日」です。

このブログは2年前に書いたものですが、
「ブログを始めて3年ですが、海苔の日だけは必ず書いています。」
と、ありますが、昨年は事務所の移転と重なり書いてませんでした。
あらためての再録です。
(2014アーカイブ)


「海苔の日」は、1967年(昭和42年)に全国海苔貝類漁業組合連合会が制定しました。
なぜ、この日かと言うと、701年(大宝1年)に大宝律令が制定施行された日だからなのだそうです(太陽暦換算)。海苔が「調(年貢)」のひとつになったのです。
普段何気なく食べている海苔は、「調」の藻類の中でも貴重なもの(紫菜・むらさきな)でした。庶民の口には入らないくらい高価な、当時の高級食品だったのです。

海苔が庶民の口に入るようになるのは、江戸時代の浅草海苔の登場からです。江戸初期では、海苔は精進料理に親しむ寺院を除けば一般的ではありませんね。
寛永20年(1643年)の『料理物語』には「浅草のり」という名前が見られますが、この当時は醤油ではなく、溜(たまり)で味付けされていたようです。
江戸名物になる「浅草海苔」は、亨保年間(1751年)頃に現在の乾海苔の原型「抄(す)きのり」が発明以降ですね。多くの専門問屋出来て、全国へ浅草海苔が広まったのです。
こうして日本全国で海苔の採取加工が行われ、現在の海苔産地が形成されるようになったのです。

日本人の年間平均の海苔消費量は82枚だそうです。多いか少ないかはわかりませんが。
ハルコは家で海苔を食べる時は、4〜5枚は食べます。その他にも、鮨やさんの巻物、コンビニのお結び、そば屋さんで、焼肉屋さんで韓国海苔……。
数えたことは無いですが、年間200枚以上は食べているはず。
そば屋でぬる燗で海苔を当てにして食べるのが一番好きですね。


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2016年1月29日金曜日

学校給食の甲子園大会




もう1月も終わりですね。
何だか1月は正月から長かったような気がしました。

先日、現在制作中のレシピ本の最後の撮影で、護国寺の近くの小学校へ行ってきました。

全国学校給食甲子園大会というものがあり、応募校2266校の頂点に立ったのが東京都文京区立青柳小学校の松丸奨さんという先生で、2013年の第8回全国学校給食甲子園大会で優勝者なのです。

しかし、勉強が嫌いだったハルコとしては小学校訪問なんてドキドキしますね。
ランチルームという教室で撮影したのですが、給食の写真がたくさん貼られており、どれも美味しそうなのです。

ハルコの小学校時代の給食は、まず、悪名高い「脱脂粉乳ミルク」と、まだ、中まで発酵仕切ってない、ちょっと酸っぱく、しばらくするとカチカチになるコッペパンに、具材があまり見えない薄いスープのようなものに、銀紙に包まれたマーガリン。
何も美味しく思い出は一つもありません。脱脂粉乳ミルクはまず、鼻をつまみ一気飲みしてから他の物を食べますが、何であんなに不味いものだったんでしょうか。

それに引き換え現在の給食の素晴らしいですね。
毎日の食生活の他に、季節の行事食や江戸時代からの伝統的な野菜も栽培しており、食の歴史も勉強していいるそうです。
子どもの内からこうゆう食育を受けているのはとても良いと思い羨ましいですね。

今度、調理道具を通じて何かお手伝いできないかと思うハルコでした。

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2016年1月25日月曜日

寒い夜の悲惨なカレー!




暖冬かと思ったらいきなり極端な
大寒波で寒いですね。
毎年寒い1~2月はカレー度が高く多い時は
週に3度も食べるくらいです。
日曜日に自宅でカレー作りですが、
結婚して約30年の間にどのくらいカレーを
作ったでしょうかね。
ひき肉でキーマカレーにしたのですが、
オクサマがハルコの作ったカレーの中で
一番美味しいと!

いやはや、これでも数百回カレーを作っているので、相当年季が入ってますからね。
いつも同じ作り方はせずに、毎回作り方を変えてますが、一時期は香辛料を組み合わせたりしていた時期もありますが、最近はお気に入りのカレーパウダーのルーを使ってます。
前回は昆布だしベースでしたが、今回は野菜の皮の部分やりんごの芯でだしを取るベジブロスでした。

カレーを作りながら40年以上前の悲しいカレーを思い出しました。
東京に上京した貧乏学生の頃の話です。
やはり、寒い晩に友人の木賃アパートを訪ねたら丁度晩ご飯を自炊していたのです。
「何?」と聞いたらカレーライスと。
これは、1食浮くなと思いカレーを待っていたら、何と、カレーのルーをお湯で溶いただけのカレーライス!
彼はこれに生卵を1個落として(贅沢!)食べたいたのですが、
ハルコのカレー汁はご飯の下に消えて行きました。

こんな悲惨なカレーは2度出会ってませんが、いまだにその情景が目に浮かびます。

2016年1月22日金曜日

鮨屋の包丁




何か食べたいものはと聞かれると、
「鮨」と答えるくらい鮨は大好きなのです。
鮨の良いところは、目の前で握ってもらう他に
直に包丁さばきが拝見出来ることです。
阿佐ヶ谷の「なんば」へご案内いただき、
カンターの前のご主人難波さんの目の前に案内していただきました。

その日は舞鶴から来た見事なマグロでしたが、
難波さんの包丁使いを見ているとサウスポーなのですね。
数寄屋橋次郎も確かに左利きだったはずです。
マグロの塊を刺身包丁で切りとっていくのですが、通常は一度の引き切りを途中で、押し出すように刃を戻して引いているのです。
普段鮨やでは客の前で塊を切り取りはしませんが、当日は貸し切りのためか一種のパフォーマンスをされたのでしょうか?

帰る際に気になって、包丁を見させていただきました。
何と包丁の刃の部分が細かいギザギザになっているのです。
何度も刃の部分を触ってみましたが、よくこれで切れのかと思いました。
これでは、一気に引くと途中でひっかかり、戻す必要がありますね。
難波さんは、良い包丁欲しいのですが、と言ってましたが、難波さんの包丁は鋼でも相当硬い部類のもので研ぐのもかなり大変そうなものでした。

さて、色々考えてみました。
刃渡りの長い刺身包丁の刃は切れ味が重要だが、あえてギザギザの刃を使っているのか。

思い当たったのは、戦国時代に城から合戦に出かける時に、門のそばには砂が小山になつており、それぞれの武士は
砂山に刀を入れて、わざと刃に傷を付けるのです。
これは、闘う時に一度は切れるのですが、何度も切っている時に脂で切れ味が悪くなり刃が滑ってしまうのです。
鮨やも「大トロ」のような脂が多い素材はいくら切れる包丁でも、何度も脂を拭う必要があるのだと気が付きました。

洋包丁なら包丁と高炭素鋼でヤスリのように作られた”研ぎ棒”がありますが、これも、研ぐというよりは包丁の脂をとりギザギザにするためです。
昔はよく茶碗の底の高台の部分で包丁を研いでいた時代もありました。
単に切れれば良いというもんではないですね。
と、思うハルコでした。

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2016年1月21日木曜日

未完



時代劇小説マニアのハルコですが、
長年愛読している時代劇小説シリーズが未完のまま終了してしまうものがあるのです。
昨年66歳で亡くなった宇江佐真理さんの人気シリーズ『髪結い伊三次」が未完のままなのです。
髪結い伊三次は『幻の声』からはじまり、今月文庫本で刊行された『名もなき日々を』まで通算13冊。
主人公の生活の変化と供に読者も、江戸の時代にタイムスリップしていき共感するのが愉しいのです。
現在、朝日新聞で『うめ婆行状記』が最後の遺作として読むことができます。

また、『吉原御免状』や『影武者徳川家康』で一世を風靡した隆慶一郎(池田一朗)も奇しくも66歳で亡くなっているのです(1989年)。
日本の民俗学を駆使し独特の世界観を作り上げた時代劇小説は目鱗でした。(その先駆者に伝奇小説の半村良もいるが)残念ながら隆慶一郎の小説は『花と火の帝』『見知らぬ海へ』『風の呪殺陣』が未完のままになってしまってるのです。
未完小説も購入して(未完のまま出版さらている)読んでいたが、やはりその先はどうなってかと、筆者のみ知る世界で完読出来ないのは非常に残念です。

過去に司馬遼太郎、池波正太郎、藤沢周平と時代劇小説(歴史小説)の作者が世を去りもう新作が無くなり暗澹たる気持ちになったものです。

これこそ「読まずに死ねるか」と時代劇小説マニアの心情です。

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2016年1月20日水曜日

食の廃棄物と豚缶

廃棄したはずの食品が別のルートで再販売されているニュースを毎日見聞きしてます。
確かに、廃棄したものを偽りで販売することは、消費者を騙す上に安全面でも問題があります。
しかし、売れないから廃棄すればという仕組み事態も世界中の食糧難の地域から見るとこれは、これで、どうかと考えてしまいます。

幼少時の昭和30年代の頃を思い出したことがあります。
(写真中央は幼少期のハルコ)
地方の工業都市の企業の社宅長屋には一定の間隔で、生ゴミ(残飯)を入れる大きな缶が置いてありました。
これは通称「豚缶」と呼んでいて、これを養豚飼育している業者が毎日回収して廻っていたのです。
今思うと、食品は「生のママ」売られており、豆腐屋へは鍋かボウルを持って行き、魚屋、八百屋はも誰もが買い物かごを持参で、過剰な包装など無かったのです。
また、りんご園を営んでいた親戚で鶏も飼っていたので、残ったご飯は「干飯(ほしい)」にして溜まると持っていったものです。
近所の酒屋にも一升瓶持参で酒や醤油の計り売りに行かされてことがあります。
食品を包む包装紙も七厘で焚き付けする時に燃料の一部になり燃やしていたのです。
今、思うとゴミのあまりでない時代ですね。


昭和40年代になり、生ゴミにビニールなどが混入されるようになり、豚缶は消滅しました。

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2016年1月19日火曜日

時代劇小説ファン


佐伯泰英の『居眠り磐音 江戸双紙』シリーズが1月に2冊同時刊行、「竹屋ノ渡」と「旅立ノ朝」全51巻で完結しました。

50巻の「竹屋ノ渡」で”おこん”の父親”どてらの金兵衛が亡くなる最後の場面では通勤途中の電車の中で読んでいたのですが、涙がとまりませんでした。


最後の51巻目は仕事場で最後まで読み切り、その日はほぼ仕事をさぼってました。
足掛け15年に渡る文庫本書き下ろしで、若かった主人公達も歳を取ってきますが、
それにも増して筆者の時代との変化で内容も大きく変わっていると感じるのです。
時代劇で登場するのは、いわゆる”チャンバラ”で剣戟の凄惨な場面が
多く描かれてましたが、近年は闘うというよりは、
家族や仲間という市井の生活の大切さを描いている比率が高いのです。

それも、特に2011年の東日本大震災以降の刊行されたものが顕著です。

佐伯泰英本は時代劇小説に関してはほぼ全部読んでいると思います。
「密命」「秘剣」「夏目影二郎始末旅」
「古着屋総兵衛影始末」「新・古着屋総兵衛」
「吉原裏同心」「鎌倉河岸捕物控」「長崎絵師通吏辰次郎」
「酔いどれ小籐次留書」「交代寄合伊那衆異聞」
それがすべてシリーズで、何冊読んだのか把握もでみませんが、
本当に凄い刊行点数ですね。
まだ、4シリーズは完結していないので、
まだまだ楽しめますが、登場人物の行く末は
大変気になります。


※最近はブログさぼりがちです。
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