2013年1月31日木曜日

賛肉派VS反肉派

以前からだと思いますが、「肉」ほどそれに対する立場の違いの大きな食材はありませんね。
健康のためには、野菜や魚介類は良くて肉食はダメだという人から、長生きをするなら歳をとっても肉食をするべきだ、いや反対だと、それぞれの立場からの本もたくさん出ております。
まぁ、そんな「肉食」への過度の反応はなんだろうと考えていました。


肉食に関して長年疑問に思って、スッキリしないことがあります。
それは、肉食に対する考え方の違いです。
神の使いだからとか、けがれているからとか、食ったり食わなかったりと、もういや、わかんなーい、と夜も眠れません。
色々と事情はあるでしょうが、最初に「ダメ」と言った人の好き嫌いじゃないのかと、ハルコは勝手に思っています。
日本でも、江戸時代が一番、肉食に対する禁忌があったようなイメージがありますが、正確には天武天皇による「畜生の殺生禁断令」が天武3年(674年)に発せられ、驚くなかれ、明治5年1月24日に明治天皇が「自ら膳宰に命じて」牛肉を試食するまで、1200年間も、肉食をしてはいけなかったのです。知ってました?

「肉食はダメ」という仏教的思想の考え方から、やがて日本民族の多くに「けがれ」という意識が広がり、肉食を否定する国になってしまいました。
と、言っても本音と建前の民族性でけっこう肉食をしていた人々もいたようです。
例えば、あの水戸黄門も肉食をしていたとの記録があり、徳川御三家の紀伊藩藩邸跡から、大量の獣肉の骨が発掘されています。発見されたのはごみ捨て場から鹿、牛、馬、野兎などの骨です。
どんな理由で食べていたかと言うと、表向きは薬の一つとして食べていたのですね。
それらを買い付けていたのは、「獣店(けだものだな)」「ももんじ屋」と言われる種類の店です。ちなみに「ももんじ」とは、バケモノと言うような意味があります。
最も古くから食べられていたのは「猪肉」です。古代では肉の総呼は「しし」と言っていたのですが、区別が付きにくいので「いのしし」とか「かのしし(鹿肉)」と称したのです。猪肉は別名で「山鯨」とも言います。鯨は魚の種類と思われていて、猪肉の味が鯨に似ていて、「やまくじら」と隠語で表されています。また、「牡丹」と植物の名前で呼ばれているのはご存じだと思います。馬肉は「桜」、鶏は「柏」、鹿肉は「紅葉」などで現在も名前として残っていますね。

日本が正式に肉食を解放して、141年ですが、「肉を喰う」という文化は本当に成熟しているのでしょうか……。

2013年1月30日水曜日

フランス料理の源流を訪ねて

「復刊ドットコム」というものがあり、絶版や廃刊になった図書をネットで投票方式で賛同者が復刊を推進する仕組みらしいのです。
復刊ドットコム http://www.fukkan.com/


その中で『フランス料理の源流を訪ねて・各地方の食材と料理という1冊がありました。
うん?この本は確か持っているはず。
大判のカラー写真が満載のきれいな本で、著者はベルギー生まれの写真家ロベール・フレソン、日本版監修は酒井一之さんです。
ノルマンディ、ブルターニュから始まり、ペリゴールで終わる食材と料理の旅は、現在ではこんな風景はもとより、料理写真の再現も不可能だと思われる労作なのです。
それは、監修の酒井さんが冒頭で
『フランスの家庭料理・地方料理について述べた本はそう多くはない。
まして、フランス人が毎日家庭で食べている料理を、
台所まで踏み込んで書き上げた本は、もつと少ないだろう。
大河も山奥の湧水が始まりであるように、
フランス料理の源流はまさに、地方料理・家庭料理にある。
それは、プロ中のプロが作った料理ではなく、
プロのためにアマチュアが作る料理である。』

と述べている通りなのです。
日本人のフランス料理シェフの中で酒井さんほど、フランスの家庭料理に精通している方をハルコは知りません。


ページをめくっていくと、まさにこの本は“フランス料理の食文化遺産”なのです。
ノルマンディのカルヴァドスを使った「若鶏の煮込み・ドージュ渓谷風」、ブルターニュの「オマールのポ・ト・フ・ブルターニュ風」、アンジュー・トゥールの「アルティショーのファルシ」、イル・ド・フランスの「うさぎのフリカッセ」、ソロニューの「蜂蜜パン」、アルザスの「蛙の足のリスーリングソース」、ブルゴーニュの「エスカルゴ」、リヨンの「オニオン・スープ」、プロバンスの「牛肉の赤ワイン煮込み」……。
あぁ、キリがありませんね。
こんな料理が100例入り、写真も375点入りです。

しかし、この本を実際に復刻するのは非常に難しいと思います。
まず、日本版の出版社は倒産して既にない。また、大元の海外著作者関係の権利を手繰らなくてはならない。
そして、大判の写真入りで精緻に作られており、現在同様の書籍に仕立てるには相当お金がかかるということです。その当時7,725円ですが、現在では1冊諸関係がクリアになっていたとして、初版300部で、1万5千~2万で採算が取れるか?
ネットで見たら、料理書で有名な神保町で、常に入荷待ちの状態で4万円の値付けとか。

ハルコ所有の本は監修の酒井さんからサイン入りでいただいたものです。
何とかなれば、お手伝いしたいものですが。

2013年1月29日火曜日

牡蠣喰えば、金がなくなり……。

突然ですが、わが家のオクサマは大の牡蠣好きです。
特に牡蠣フライがことのほかお好きで、週の内に数回は召し上がっているはずです。
この所は牡蠣フライが多いのですが、生牡蠣もまた、大好きなのでございます。
ハルコはと言うと、まぁ牡蠣フライはご相伴で1個も食べればという位で、あまり加熱した牡蠣は好みではないのです。
所がですね、生牡蠣だけはなぜか別なのです。


最近は行く機会が無いのですが、牡蠣と言えば冬のパリの愉しみのひとつでした。
まず、パリに到着してホテルにチェックインし、荷物も解かずに街に繰り出します。
大抵は左岸に宿を取っているので、サンジェルマン・デ・プレ界隈で外にエカイエが牡蠣むきをしている店を捜して入ります。

まず、食べたいのは冬にしかない「フュード・メール」ですね。
氷を敷き詰めた脚付の円盆に、好みで牡蠣を中心にした貝類の盛り合わせをオーダーします。
カルトには牡蠣の等級と値段が表記してありますが、これが高級店だと目が飛び出すくらい高価なのですよ。
平たいブロン種と、日本でもよく食べられている窪んでいる牡蠣の2種類に大別されます(フランスで牡蠣が絶滅に瀕した時に、日本から牡蠣の種を送ったことがあります)。

牡蠣には厳密な等級があります。
ブロンを例に取ると、牡蠣の値段は重さで決まるのです。
NO.5(30g)、NO.4(40g)、 NO.3(50g)、 NO.2(60g)、NO.1(70g)と続くのですが、さらに上があるのです。
今度は数字の0(ゼロ)が付くのですが、0(80g)、00(100g)、そして最上級はゼロが3つの000(120g)です。

その当時の絵日記を比べながら見てますが、相当牡蠣を食べていますね。さすがに000は回数は少ないですが、12個1ダースでその当時の日本円で約4万円くらい!
牡蠣ばかりではなく、フュード・メールにしているのでひと盆約6万円以上、シャンパンをクリスタルにしてもう1本白ワインで、締めて30万を越す値段に!
今考えると、値段もさることながら、たかが牡蠣を食べるだけで、こんなに情熱を持っていた自分が凄いと思いました。

そして、牡蠣喰えば、金が無くなり、ノートルダム

2013年1月28日月曜日

空腹と記憶力


朝目覚めて、お腹が空いている状態は健康のバロメーターですね。しかし前日飲み過ぎ食べ過ぎで、月曜なのに朝からぐたっとしているハルコはダメです。

先週の新聞記事で目についたのが、「おなかがすくと記憶力アップ」というものでしたが、うむ、これって昔から言ってない?と思った次第です。
何でも、これはショウジョウバエで観察したとかで、空腹で血糖値が下がりインスリンの出る量が減ると、記憶に必要なタンパク質が活性化するそうです。
これでいくと、人間でも同様の作用があるらしいのです。

脳の神経細胞には、CRTCという記憶に必要な遺伝子を動かせるタンパク質があり、インスリンが少ないと沢山つくられるため、空腹時にインスリンが下がると、このCRTCがよく働き、記憶力がアップする仕組みだそうです。
最初に述べたように、昔から言っていた「勉強は朝飯前に」が、科学的に実証出来るということですね。

まぁ、記憶することもそうですが、仕事も空腹時の方が進む実感はありますね。
子供のころも、給食や昼食の後の5時限は眠くなり、確かに勉強に意識が集中しませんでしたね。
ただ、これは適度な空腹が良いのであり、強烈な飢餓感がある時は、当然意識が「腹減った!」になってしまい、効果はないようです。

この所早朝の時間帯を活用して、社会人でも勉強をする人が多くなりしたが、やはり朝飯前にすると効率が良いでしょうね。
えっ、ハルコも早朝型じゃないかって?
そうなんですが、早起きして録画撮りしている韓国時代劇ドラマを、毎朝1~2本分早送りで観ているのです。朝飯前なので詳しくなりましたが、何の役にも立ちませんね(ハルコはこれを朝韓と呼んでます)。
この歳になると、いくら空腹で覚えても直ぐに忘れてしまいますね。
せめて、朝飯前にその日の仕事のダンドリくらいやらねばと、思うハルコでした(さて、どのくらい続くことやら)。

2013年1月25日金曜日

辛い物狂想曲

辛い料理はいまだに人気ですね。ハルコも昔は大丈夫だったのですが、最近は弱くなってきました。
これは、以前、四川料理の辛さについて考察した再録です。


結論から言うと、四川料理が辛いのは地域性によるものなのです。
四川は中国の内陸にあり、盆地で夏は非常に蒸し暑くなります。そうすると、さっぱりした味つけではなく、元気が出て食欲が湧く辛い味つけになっていくのです。
さて、その辛さの役割はには2種類あり、「痛」「熱」が複合化されたものなのです。
「痛」には大きく分けて、鼻にくる“ツーン”とした山葵や芥子の辛さと、舌先に“ピリッ”とくる胡椒や唐辛子や山椒の辛さがあります。
四川料理は後者の舌先にくる「痛」なのです。

以前、取材で陳健民さんの弟子の橋本暁一料理長にお話を伺った時に、ハルコが「料理する時に辛さの味見をするのですか?」と尋ねたら、「いちいち味見していたら、舌が麻痺して料理が出来ないね。ハハハ」
う~む、辛さは客を実験台にしていたのか!

蒸し暑い四川地方なので、辛いものを摂取すると代謝が良くなります。
“カプサイシン”は血行を良くして食欲を増進させ、発汗を促します。発汗による気化熱で体温が下がりますね。
また、辛みの中には殺菌作用があるので食中毒を防ぐ効果もあり、蒸し暑い地域では本能的に辛い料理が求められているのですね。

さらに、人間の脳内には痛みを抑える脳内物質が存在しています。ドーパミン、セロトニン、メラトニンですが、四川料理の中には唐辛子の辛い「熱」や山椒のしびれる「痛」には脳内の快感物質同様に「熱さ」や「しびれ」が段々と快感に感じられ、「美味しい」と錯覚して脳を騙す効果があるのではないでしょうか。

厠にて 昨夜食べたる 四川かな
ハルコ心の俳句(これが本当の“しも”の句。……失礼!)

2013年1月24日木曜日

日曜のドラマ「Dinner」

今日の午前中は新宿伊勢丹キッチンステージ「AOYAMA HATAKE」神保佳永シェフのセミナーで、盛況でした。


セミナーが終了して、神保シェフと話していたら、毎週日曜21時からフジテレビ系列のドラマ「Dinner」の料理監修を第3話からしているそうです。
「えっ、あれって落合さんがしてましたよね」と言うと、
まぁ、落合さんは……。

ハルコも第1回から欠かさず観ており、大変楽しみにしています。
ドラマ収録では、料理をしている神保シェフの手も出てくるそうです。
一流イタリアンリストランテを舞台に、オーナーが病で倒れ、その後に性格に問題のあるシェフとして登場するのが江口洋介
ドラマで美味しそうな料理の数々を監修するのは大変だと思いますが、期待大ですね。
ハルコ、一度客の中に紛れて出たいなぁ。

今日はバタバタしていて、これから撮影なのでブログは短かめでした。

ドラマ「Dinner」公式HP
「AOYAMA HATAKE」HP

2013年1月23日水曜日

家事はやせる?


朝に時間の余裕のある時は、NHKの「あさイチ」TBSの「はなまる」は観るようにしております。
まぁ何と言うか、お手伝いには大変役立つ情報がありますね。
炊事、洗濯、掃除、料理とハルコの仕事に役立つネタを仕込むのです。

今朝は「はなまる」を観ていたら、堤信子さん「ニート」の紹介をしていました。
「うん?はなまるで『ニート』?」と思ったんですが、意味が違うんですね。
定職の無い方々ではなく、NEAT(Nonexercise Activity Thermongenesis)の頭文字を取って“ニート”と名付けられているのですが、簡単に言うと運動時以外の体のエネルギー代謝のことなのです。

えっ、分かりにくいって? そうですよね。
まず、人が活動するための1日の総消費エネルギーの内に、基礎代謝量というのがあります(ハルコは女子栄養大学の仕事をしていたので以外と詳しいのです。エヘン)。
何もしなくても息を吸っているだけで、全体の60%のエネルギーを消費しているんです。大体1500kcalの内の筋肉が約半分の800kcal、肝臓で350kcalの順なのですが、脳も200kcal消費しているのです。
半分冗談ですが、ちょっとお太りになっている方には「頭を使うとやせるよ」と言ってますが、頭脳労働は相当エネルギー消費が高いのです。

あぁ、話が横にそれましたね。
では、運動ではどのくらい消費しているかというと、個体差はありますが大体10%くらいなのです。
後は、食べる時に消費するのエネルギーも大体10%くらいですが、確かに食事をするというのはそれだけでエネルギーを使うので、「ご飯を食べているとお腹が空いてくる」という人もいますね。
では残りは何かというと、運動以外の日常生活に25~30%使われているのです。
このことは、昨日今日の話ではなく、以前から指摘されていたことです。
ゴルフで1ラウンド回るのと、家で雑巾掛けを30分するのは、エネルギー消費量は同じなのだそうです。

結論から言うと、やせるためには家事をしなさい、ということなのです。
家事というのは「永遠の面倒」という格言(?)があるように、「テヌキ、テキトー、テニアマル」で楽をしがちになりますが、やせるためにはコマメに動いて家事に励むことですね。

「ハルコ~、お茶入れて~」
だから、オクサマはご自分でお動きになった方がよござんすよ。

2013年1月22日火曜日

今日はカレーだよ!

今年になって(今更ですが)まだ、一度もカレーを食べてないことに気が付きました。
普段なら、2週間に1度は自宅でカレー作りをしているのですが、昨年から考えると1ヶ月以上カレーを作っていないし、外でも食べていません。
何でカレーかって? 今日は「カレーの日」なのですよ。

1982年(昭和57年)の1月22日「学校給食設立35周年」を記念して、当時の文部省が後援し、全国の小中学生約800万人に「一斉カレー給食」が実地されてこれが記念日になったそうな。
しかし、全国の約300の市町村は「給食の管理化」として反対したそうな。まぁ、賛成するのも反対するのも、根拠は希薄ですね。

この頃の小中学生が好きな給食メニューのトップ5は、カレーライス、焼そば、ハンバーグ、スパゲッティ、カレーシチューだそうです。
事務所のスタッフの一人は、この年に小学生だったというので聞いたのですが、覚えていないという答え。
うむ、たぶん君の学校は「給食の管理化」に反対していたのだろう!

とここまで書いて、この話は「カレー」なのか「給食」なのか迷ってしまいました。
S&Bの調査によると、日本人は1年間に平均84回カレーを食べているそうな。
これが多いのか少ないのかは分かりませんが、確かに自宅で1食分のカレーを作るのではなく、多めに作ると何回かはカレーになってしまいますね。
でも、カレー商品(ルーやレトルトパック)の売り上げは減少している、というデータもあるのです。
カレーはある程度量を多く作り家族で食べる、というイメージがありますが、個食が進んでバラバラになると、皆でカレーを食べるというのではなくなるやもしれませんね。
それでも、カレーは日本人の国民食であることは確かですね。
あぁ、段々カレーが食べたくなってきたー!

2013年1月21日月曜日

料理番組の日

インフルエンザの件では、皆様に大変励ましのメールを沢山いただきました。
この場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございました。
先々週の土曜日から昨日の日曜日まで9日間も休んでいるような感じですが、実際には土日も仕事をしていたので、実質(休日を除くと)4日間休んだだけです。
つまり、平日は休んで休日に仕事をしていたことで、結局プラスマイナスゼロですね。
というわけで、通常のブログも再開です。


久しぶりに“今日は何の日”ですが、調べてみました。
おっと、今日は「料理番組の日」だそうです。
最初はNHKの「今日の料理」の始まりかなぁと思っていましたが、「今日の料理」は11月4日(1957年)なので違いました。意外な事にイギリスが発祥だったんですね。
1937年1月21日にBBC放送で始まった『夕べの料理』という番組が、テレビを通して初めての料理番組だそうです。
1937年!? この頃にテレビ番組が有ったんだ!
さらに調べて見ると、BBCが試験放送を経て、本格的にテレビ放送を始めたのが前年の1936年11月2日で、ほぼテレビの創世記から料理番組はあったようですね。
そして、しばらくしてから第二次世界大戦が勃発して中断され、戦後の1947年6月7日に再開されたのです。

最初の「料理番組」の料理って何だと思いますか?
答えは「オムレツ」です。
確かに「料理は卵に始まり、卵に終わる」という格言?があるように、相性は良いと思いますが……。
その時の番組の料理人はマルセル・ブルースタン(Marcel Boulstin)で(ハルコも知りませんでした)、フランス料理の料理人でした。
このマルセルさんは1878年生まれで、番組に出た時は59歳、1911年にロンドンのコヴェント・ガーデンでレストランを開店させ、大変人気の店だったようです。
戦争中の1943年に65歳で亡くなっております。
マルセルさんのモットーは「シンプルフレンチ」だそうで、現在にも繋がるフランス料理の先駆者ですね。
ちなみに1963年の今日は、日テレの『3分クッキング』が開始された日です。
さらに古くは1954年に宝酒造が『タカラお料理帖』という番組を提供しており、これが日本での最初の料理番組だそうです。

今ではテレビをつけると、どのチャンネルでも料理番組を見ない日はありませんね。
いかにテレビと料理は相性が良いか、ということなのでしょうか。
ネットも含めると、料理情報は溢れんばかりですが、これからどうなってゆくのでしょうか。

2013年1月19日土曜日

ティス先生の料理科学

昨年末の給湯管からの漏水で階下が水浸しで、わが家はでも検査工事から復旧工事まで
3週間かかり、取り敢えず工事は終了しましたが、あちこち床に穴を開けたので、今年はリフォームしなくてはならず、頭の痛い問題です。
それと、この3週間シャワーだけは使えるようにしてもらったのですが、お湯が使えず大変でした。
復旧して、蛇口をひねるとお湯が出てくるのは、本当にすごいことだと思いました。

さて、料理も現在の形になるまでは、テクノロジーの進化と調理科学の発達も当然ありますね。
昨年公開のフランス映画『シェフ』では笑いの対象でしたが、まだ再考の余地のあるエルヴェ・ティス先生の一連の本のご紹介の再録です。

小さい頃ハルコは虚弱で(本当です)食が偏った子どもでした。
産まれた時に非常に強い黄疸になり、毎月自家中毒で発熱と嘔吐で2、3日寝込む症状が10歳まで続きました。
そして食は細く、ガリガリに痩せていました(今のハルコを見るとその話をしても誰も信じてくれませんが)。
食事の時間は苦痛の時間でもありました。嫌いな物が多くいつも食べ残しては怒られていたのです。
そんなハルコは、その頃の子ども向け雑誌に掲載されていた「未来の食事」という巻頭グラビアに強く惹かれました。
“1日の食事は朝は少しのカプセルを飲みだけで充分”というような内容で、一家が食卓で皿の上のカプセルを飲む(食べる)挿絵付です。
ハルコは、これなら食べる苦痛が無くて良い!と、真剣に思ったのでした。
それから長い月日が流れ(きみまろ風に)、今やDEBUと言われようと食に意地汚いハルコになりました。
何だかカプセルの未来の食事を思い出すと「分子調理法」を連想してしましまいした。
はたして、「分子調理法」『随園食単」『美味礼賛』と繋がるかと問われれば、自信はありませんが、何らかの“解”を含んでいるような気がします。

『フランス料理の「なぜ」に答える』エルヴェ・ティス(柴田書店)
『フランス料理の「なぞ」を解く』エルヴェティス(柴田書店)

「分子調理法(Gastronomie Moleculaire)」「分子ガストロノミー(Molecular Gastronomy)仏英での言葉の違いや“調理法”“料理法”色々とありますが、調理の過程で食材の変化を化学的に分析して、料理に対しての新しい仮説を“科学的に創造証明する”と、ハルコ的には解釈しています。
この考え方に賛同し、協力をしている科学者や料理人は未来の料理を開拓するパイオニア的な存在です。
その中で中心的な役割をはたしているのが、フランスの物理学者エルヴェ・ティスなのです。
あらゆる料理は物理化学の“式”で表せると、二つの要素から考察したのです。
1の要素……食材の状態
G(ガス)気体 W(ウォーター)液体 O(オイル)油脂 S(ソリッド)個体
2の要素……G W O Sの4つの要素がどういう分子運動でつながっているか
/分散 +併存 ⊃包含 結合 σ重層
この2つの要素の組合わせで、あらゆる料理の成り立ちが証明出来るとティス先生は考えているのです。
うむ。何だか難しいですね。
そこから、素材を過去に考えられない形状にすることよって、味覚を変えてしまうのです。
「液体のようで、液体じゃない。気体のようで気体じゃない……」
「甘いと思ったら、辛い。辛いと思ったら、苦い……」
この方程式で、すでに私たちが知らない間に味覚を違う方向へと誘導されているかもしれませんね。この「分子調理法」はまだ、歴史的な視点での評価はされてません。
はたして、『随園食単』『美味礼賛(味覚の生理学)』の後嗣となるかは時間を要しますね。
ハルコは調理器具の開発もしておりますが、その際にティス先生の2冊の本を、非常に参考にさせてもらっています。この2冊は調理科学という視点ではわかり易いテキストだと思います。

写真の雑誌はティス先生の分子料理法が掲載された『BRUTUS』570号と朝日新聞GLOBE「料理と科学が出会う時」の掲載号です。

2013年1月18日金曜日

必読!『随園食譚』と『美味礼讃』

インフルエンザはほぼ完治しているのですが、この仕事を始めてから、ほぼ無為に休んだことは記憶にありませんね。先週土曜日から1週間、事務所に出かけておりません。
心配症のハルコとしては、年初からこんなに休んでどうする?
とまぁ、考えても仕方がないのですが、来週にしわ寄せが来ますね。

またまた、昔の再録ですが、ブログをしようと思った動機は、是非読んで欲しい食文化関係の図書の紹介をしたかったからです。
2回に分けて古典と新しい──と言っても、もう一つは2年以上前ですが、大きな流れとしては必読かと思います。

『随園食単』を知ったのはもう大分前のことでした。
とある雑誌の編集者と、雑誌で中国料理の特集を組むための打ち合わせの最中のことです。
雑談の折に、『随園食単』の中ではという話が出たのです。しかし、『随園食単』はその当時は絶版状態でした。
古書店で単行本を見つけたのですが、とても高い値段で買えませんでした。
ハルコがよく利用する古書店は神田神保町の「悠久堂書店」です。
相当数の料理や食関係の本が多数有るので、まず悠久堂、その次に三省堂と廻ります。
その悠久堂で捜していた『随園食単』があったのです。
ただ、やはり、文庫本でも元値の10倍くらい高かったことを覚えてます。
帯には「西のサヴァラン、東の随園、中国は清代のこの食通詩人がものにした“垂涎の書”……」と、コピーが入っております。

この『随園食単』は中国料理のバイブルとまで言われている本なのです。
作者は中国清王朝の初期、康煕54年(1715年)杭州に産まれた袁枚(えんばい)
82歳で没したので、日本では徳川家継、吉宗、家重、家治、家斎の時代を生きた人です。
清王朝の康煕帝(1722年まで)と次の皇帝の時代は非常に平和で安定した時代でした。
皇帝の康煕帝は清国を作った満州族の皇帝の中でも傑出した人物なのです。
康煕帝の父は満州族ですが、母は漢軍八旗の出身、祖母はモンゴル人で、康煕帝には満、漢、蒙の3つの血が流れている上に、満州語、漢語、蒙古語が自由自在に操れたのです。
そんな時代の中で、袁枚は官吏を辞めて南京の土地(地方官時代に購入)で「随園」という庭園を営み、詩人・流行作家として名声を高め、晩年70歳を超えてから著した本が『随園食単』なのです。
やはり、読んでいていてもゆとりの無い時代には書けない本だと思います。

『随園食単』の内容は、当然中国料理が中心ですが、食材の特性やレシピに該当するものの他に、料理と食材の取り合わせの可否から料理人たるものの心得まで、幅広く書かれております。
『随園食単』ブリア・サヴァランの『美味礼賛(味覚の生理学)』とよく比較されます。
袁枚が70歳で『随園食単』を著した時に、ブリア・サヴァランは31歳。この二人は東西を隔てて同時代に生きた人達でですね。そして、『美味礼賛』はブリア・サヴァランの没する前年、1825年の刊行です。
文明の中で、同時代人が別の場所で同様なことを考えてシンクロするというのは、偶然ではなく必然なのでしょうか。
文明のシンクロに関しては『南蛮幻想ーユリシーズ伝説と安土城』(文藝春秋1998年)を著した井上章一教授の説があります。非常に想像をかき立てられる面白い著作です(食の本ではないのですがご興味ある方はご一読を)。
袁枚とブリア・サヴァランから約200年後にこの二つの偉大な書物を継ぐ現代版『随園食単・美味礼賛』が、エルヴェ・ティスによって新たな時代の食のバイブルになるのです。
(次回につづく)

2013年1月16日水曜日

食の本とエスプリ…古川緑波(後編)

今年は事の他寒いですね。
わが家はついにハルコ&オクサマともに、仲良くインフルエンザになりました。
お医者さんから外出しないようにと厳しく言われました。
困ったもんですが、みなさまにご迷惑かけるので仕方がないですね。
本日中は昨日からの古川緑波続きです。

ロッパは華族の家に生まれましたが、父親の加藤照麿男爵の「嫡男以外は養子に出す」という方針で養子に出されました。やはり一般庶民とは違う食生活をしていたようです。
随筆の中に、ロッパが早稲田大学1年の時菊池寛に誘われて、銀座の“エーワン”というレストランで食事をする話があります。1922~3年の頃でしょうか。この頃は大正デモクラシーの最後の時代で、日本はおだやかな時期でした。「一粒300m」のグリコが発売、週刊朝日が創刊され、丸ビルが完成した頃でした。
その時代の三大洋食は、ライスカレー・コロッケ・トンカツでした。

菊池寛が“エーワン”で選んだメニューは「スープ、カツレツ、ライスカレー」 ロッパもそれにならって同じ物を食べていました。
まさに、当時の人気メニューを食していたのですね。ロッパはその後に、ババロワとソーダ水を飲み、「ああ何と美味というもの、ここにつきるのではないか!」と書き記し、「その後数日間、何を食っても不味かった。」とまで言い切っています。よほど、美味しかったのですね(想像していたらお腹が空いてきました)。
ただ、“エーワン”の料理は1人前五円以上。現在の価値観と比較するには非常に難しいですね。
当時の1円を5000~10000円で計算して、一人当たり4~5万円弱相当でしょうか。
ロッパは到底自前では食べに行く事が出来ない、月に1000円の月収が無いとダメだと考えました。現在だと月収500~1000万円の高給取りですね。

その後、ロッパは菊池寛の元を離れて役者になり、月収が1000円になり、再び文芸春秋社に菊池寛を尋ねて来たのが10数年後のこと。戦争も始まり、段々大変な時代に突入しました。
ロッパ曰く「僕は、ああいう美味いものを毎日食いたいと思って。努力を続け、暫く、それ位のことが出来るような身分になりました。ところが、何でしょう先生(菊池寛)、食うものが世の中から消えてしまいました」……。
ロッパの飽食の後の哀しくも面白い『悲食記』ですね。

あらためて『ロッパの昭和日記』にパラパラ目を通してみました。なんせ、全部で3500ページ以上の大作です。ロッパはかなりハルコと食の嗜好が似ているような気がします。
特に肉が好き、カツレツ、シチュー、叉焼、角煮、ローストビーフ、ステーキ、すき焼き、串揚げ……。
こってりした味が好き、ウィスキーが好き(ただしロッパは蕎麦が嫌い、ハルコは蕎麦好き)、人の倍は食べる!あぁ、どんどんお腹が空いてきました(こんなブログを書いている場合ではありません)。
では、ご飯を食べに行くので話は明日へ続く。

2013年1月15日火曜日

食の本とエスプリ…古川緑波(前編)

日曜日に、料理研究家馬場香織先生のお宅で、放送作家にして語源ハンターのわぐりたかしさん主催のブックカフェが開催されました。
大変素晴らしいおもてなし料理を堪能して、皆さんで持ち寄りの本を紹介しあう、という趣旨で、ハルコは古川緑波の日記を取り上げたのですが、これは2011年の9月にブログで3回発信したものです。
古川緑波はコメディアン・俳優にして大の食いしん坊です。彼の日記は現在の私達の食にもつながるテーマです。再録ですが、ご一読ください。


古川緑波。いや、カタカナで“ロッパ”の方が良いでしょうか。
コメディアンにして、稀代の“大食いしん坊”ロッパの日記が『古川ロッパ昭和日記』として、晶文社から全集の刊行が決まった時は心が踊りました。
『ロッパの非食記』古川緑波(六興社版からちくま文庫版)では『非食記』として昭和19年の抜粋を読んでいたのですが、それが何と戦前から戦中、戦後、晩年編の4冊で堪能できるのです。しかし、古川緑波と言っても……峯岸嬢に聞いて見ると「誰ですか、噺家!?」との返答。


まず古川ロッパ(緑波)の来歴をご紹介します(一部BOOK著者紹介情報より引用してまます)。
1903年(明治36年)8月13日(おっ、オクサマと同じ誕生日だ! なるほどそれでオクサマも食いしん坊なんだ)。東京麹町に、元貴族院議員加藤照麿男爵の六男として誕生(本名は郁郎)しました。
古川家の養子となり、早稲田第一高等学院在学中から「古川緑波」の筆名(尋常小学三年の時に自分付けた筆名)で、映画雑誌に評論を投稿。大正13年早稲田大学英文科入学(中退しました)。同年、菊池寛に招かれて、文藝春秋の「映画時代」の編集にあたりました(しかし自ら経営に乗り出し、多額の負債を負う)。
そして1926年(大正15年、昭和元年でもあります)徳川夢声(夢声さんもそのうち登場!)が活動弁士を糾合して催した「ナヤマシ会」にアマチュアとして出演、声帯模写で絶讃を浴びたのです。徳川夢声の『戦争日記』の中には夢声が銀座四丁目からのラジオの生中継の際に具合が悪くなり、ロッパが代役で夢声の声色で40分中継をしたのを自宅で聞いてびっくりした、というエピソードがあります。
1931年(昭和6年)、東京日日新聞(毎日新聞の前身ですね)の嘱託となり、レビュー・映画評を執筆しました。
1933年(昭和8年)、徳川夢声らと浅草で劇団「笑の王国」(笑の王国は、映画の時代がサイレントからトーキーに移り変り、職を失った活動弁士達を救済するために出来た背景があります)を旗揚げ。興行は大当たりし、エノケンと並ぶ喜劇界のトップスターに躍り出ました。メンバーはその他に大辻司郎(もくせい号で墜落)、三益愛子、清川虹子、渡辺篤などがおり、文芸部には菊田一夫もおりました。
1935年(昭和10年)「笑の王国」を脱退。東宝に入り、有楽座・日劇を中心に活躍。「ガラマサどん」「歌ふ弥次喜多・東海道小唄道中」などに出演、一気に日本喜劇界の頂点へと飛翔しました。12月から「東宝ヴァラエティ・古川ロッパ一座」の座長となります。「エノケン・ロッパ」と一時代を築いたのです。ロイド眼鏡に丸顔で品のある知的な芸風で人気者になりました。
戦後も数々の演劇、映画のほか、NHK放送劇「さくらんぼ大将」に出演。読書家・健啖家として知られ、『劇書ノート』『悲食記』等の著作を残し、1961年(昭和36年)1月16日に没しました。判りましたか? 峯岸嬢。
「ところで肝心の食の話は……?」
はい、明日に続くのだ~~。

食の本とエスプリ…古川緑波(後編)

今年は絶対風邪は引かないつもりでしたが、インフルエンザとは。
まぁ、昔と違い今は寝ていてもメールやFBも出来るし、
情報からの隔絶はないにですが、さすがにリアルにお会いすることが出来ずに、スケジュールの変更ばかりしています。
さぁ、古川緑波の最終回です。


『ロッパ昭和日記』は膨大な日記です。
古川ロッパは昭和期の日本を代表する大コメディアンですが、それ以上に1日も休むことなく日記を書きつづけた類い稀な日記作家でもあるのです。
古川ロッパの『ロッパ昭和日記』の中で、最後に紹介したいのは“戦中編”です。この時代は、また別な機会に紹介したい徳川夢声内田百閒の日記や随筆を、合わせて読むと面白いのです。
それでは、戦中篇のなかからいくつか抜粋してみます。

昭和16年12月8日(月曜日/大東亜戦争の始まった日ですね。)
「日米開戦 米英両軍と戦闘 宣戦布告」から始まっています。ロッパは大分高揚して、撮影所の砧へ行きますが、撮影は中止。帰りに銀杏などを買って自宅へ。
「家でアドミラルを抜き、僕はブラック・ホワイトを抜いて、色々食ふ。ラジオは叫び続けてゐる。我軍の勝利を盛んに告げる。十時頃皆帰り、床へもぐりこむ。」
かくして、ロッパの開戦の1日は終わったのでした。

昭和17年12月8日(火曜日) 
ロッパは朝から書評を18枚書いています。この日は開戦1周年の“大奉載日の式”の日。撮影所には行きますが、「まことにすみませんが、今日は撮影所に割当の電力を使い果たしたので中止です」と連絡が入ります。その後、ロッパは友人の家で「昨日、肉が入ったからと誘われてゐるので。~肉とウィスキーのご馳走。」まだ物資はあるようですね。

昭和18年12月8日(水曜日)
前日の日記では、牛肉のすき焼きと素麺とすしのご馳走で、ガブリ、ガブリと醜態に近いくらい酔って朝から宿酔気分。東映のボーナス日で、午後3カット撮影で中止。ロッパは勝ち祝い(開戦3年)で皆に奢るとと言って品川のキン坊(レストラン)へ繰り出します。「コンソメを一気に吸ふ。ハンバーグステーキにライスカレー。7年持参(ウイスキー)、」その後徴用令の話題になり、「こんな大飯喰ひは、工場で一ぺんにことわらるだらうと、笑った。」まだ、大丈夫の様ですね。

昭和19年12月8日(金曜日)
ロッパは2日から須賀川町(現福島県須賀川市)へ斎藤寅次郎監督の映画のために来ていた。東京では頻繁に空襲警報が出ているが、当地は心配なく撮影の合間に『我が輩は猫である』を読んでいる。「精進揚げや大根の油煮などが出て、~大いに飲む。そこで又、白米の飯を食って、何と田舎は住みいいではないか」と。

開戦した同日を時系列に並べてみましたが、ロッパは一般庶民に比べて食生活は恵まれていますね。
知人友人色々な人脈を駆使して食料を調達しようと涙ぐましい努力をしているのは大食いしん坊ロッパ先生んの面目躍如。昭和19年4月3日(月曜日)より、「~演舞場へは、毎日家から弁当持参。白米の日は、実にたのしみ。今日は白米なので、つい早く食ってしまって、又腹が減る。」

食事のことで一喜一憂するロッパの日記は個人の私的な日記を超えた歴史的な価値があります。
現在多くの人が日々の食の記録を電子上に残しています。これが、未来の人類が見た時に過去の時代はいかに豊かな食生活に恵まれていたか、それとも、愚かな食生活をしていたのか。と、考えて見るのも楽しいと思いませんか。
『ロッパ昭和日記』は監修の滝大作さんの労作でもあります。この本は日本の食の遺産だとハルコは思っております。

2013年1月11日金曜日

常温の常識?

愚痴を言うわけではありませんが、ついこの間初詣に行ったかと思えば、今日は“鏡開き”です。
零細事務所の経営者としては、今月31日の中の13日も休みのため、通常の半分の日数しかスタッフは出てこないので(ハルコは休まずに仕事してますが)、1月は大変なのです。
という理由もあり、このブログも1月は発信日数は少ないのですよ。

さて、毎日寒い日が続いておりますが、昨夜はフランス大使館で「ガレット・デ・ロワ」の会があり、その後に小腹を満たすために中華料理を食べに行きました。
ビールを飲んだ後に紹興酒を頼んだら、お店の方に「飲み方はどうしますか?」と聞かれ、「常温でお願いします」と言いました。ハルコは紹興酒はいつも常温でいただいているのです。


紹興酒をグビっと飲みながら、以前真冬に中国の蘇州へ出かけたことを思い出しました。その時は現地の人もびっくりするくらいの寒波で、普段は温暖な地域ですが、雪は降るわ道路は凍るわと、非常に寒かったのです。
上海蟹を食べに行くツアーに参加したのですが、昼食に必ず紹興酒を1本飲んでいました。いつも常温でお願いしていましたが、この常温がとんでもない。キリキリに冷えたビール以下の温度だったのです!
あと少し頑張れば凍った紹興酒になっていましたね。

室内が寒過ぎるため、外より少し暖かいという程度の室温で、食事中にも防寒着は着たままです。
それでも常温にこだわったのは、温めてもらうと、料理が無くなった頃にようやく紹興酒が登場するからなのです。
これじゃダメじゃん!

調理用語でも「常温にもどし」とか、「室温にして」という表記をよく見かけますが、通常は摂氏15℃が大体の目安なのですが、寒い日は室内は暖房を入れないと10℃以下になってしまうし、逆に暖房を入れると20℃以上になるし……難しいですね。
当然、料理のプロ達は冬と夏の常温の違いも分かっていますが、ビギナーの方だと「常温って?」と考えてしまうはずです。
何でもかんでも冷蔵庫の中に入れておく習慣もあるのですが、季節の温度の変化で、食材の適温を知る、ということも重要だと思うのです。
やはり、温度はすべからく難しいテーマですね。

2013年1月10日木曜日

ガレット・デ・ロワ

世の中には、「一日駅長」とか「一日警察署長」なんていう催しが沢山ありますね。
今日のブログは「一日王様」です。


12月のクリスマス(キリストの生誕)の後に、キリスト教では1月6日「公現節(フランスではエピファニー)」に「ガレット・デ・ロワ」を食べる習慣があります。
えっ「公現節」って何かって?
あぁ、ご存じない方のためにハルコ目が解説を(エヘン)。
簡単に言うと、救世主が誕生する兆候として、東方の三人の博士が空に大きな赤い星を見て、その星の後を12日間追い続け、たどり着いたのがエルサレムのベツレヘム。
ここで三人の博士は、産まれたキリストに宝物を捧げたのです(これが、クリスマスプレゼントの由来とか)。
これにより救世主(キリスト)が「公」に「現」われたことが知られるようになった、という意味で「公現節(祭)」といいます。
その三博士(賢人)は、後に「王」という風に解釈されそこから「ガレット・デ・ロワ」という名称のお菓子を食べる風習が生まれました。
三博士はいつのまにか「王(ロワ)」となり、お菓子の中のひとつに「フェーヴ」という王様の形をした陶器製の人形が隠れていて、当たった人は紙の王冠を冠り、王様として人々から祝福を受けるのです。

で、「フェーヴ」って何?(今日はこなんことばかりですね)
フェーヴは元々“空豆”という意味で、形状が胎児に似ていたために、古来より生命の復活・再生を意味したのです。
古代ローマの収穫祭では、パンの中に入っていた空豆を当てたものは「一日王様」になれるという習慣があったのです。

今夜はフランス大使館でこの「ガレット・デ・ロワ」のイベントがあるのです。
「クラブ・ラ・ガレット・デ・ロワ」主宰だそうで、もちろんオクサマのお供でございます。
あぁ、フランス語の壁が……!

2013年1月9日水曜日

ボトルキープ

ハルコのブログは、間違っても“天下国家”を論ずるようなことはなく、重箱の隅を突くようなことばかりで……。
で、今回のテーマはボトルキープ!
現時点でハルコがボトルキープしているお店は3軒ですが、最近ご無沙汰で時限が切れてしまったのもあります。
それも全て焼酎なのですよ。畏友の小旦那様はホテルのバーにプレミア物のスコッチを何本もボトルキープしており、たまにご相伴に預かるのですが、こっちの方が様子が良いですね。


「ボトルキープって不思議な文化だ」と、ふと思ったのです。
確かに一杯づつオーダーするより、1本取って残りはキープしてもらう方がお得ですね。
そこで調べてみました、ボトルキープの歴史を。これはちゃんとあるんですね。

1957年に大阪・梅田の洋酒喫茶「BEBE」という店が、世界初のボトルキープ制を導入したそうです。
しかし、現在と違うのは客が、客ですよ。
客が自分でウィスキーのボトルを持ち込み、店でキープして好きな時に来て飲む、というシステムだったそうです。これって、持ち込みですよね。
そういえば昔、オーストラリアに取材で行った時に、現地ではレストランで酒を提供できる店が区別されていて(法律上)、酒を提供する店の方が少なかったんです。
そこで、客は自分でアルコール類を買い込んで、店に持ち込み飲む、と言う「BYO(Bring Your One)制度」があり、取材撮影そっちのけで酒屋さんばかり捜していたのを思い出しました。

話は戻って、サントリーがトリスバーを展開してウイスキー人気が高まり、ボトルキープが定着したそうです。
お酒年齢絶好調の時代には、随分方々にボトルキープしていました。また、1軒の店には種類の違う酒を6本キープしていたこともあります。
気分でお酒を変えるのですが、モルトウィスキー、ジン、アップルブランデー、ウォツカ……、あと2本は何だったんだろう?
もうチャンポン、チャンポン、ヘベレケ、グデングデン時代ですね。

飲み残しを持って帰るのは、わりとワインなんかに多いですが、調べてみたら、あらびっくり!
飲食店内で飲む分には良いのですが、飲食店内で買って未開封のまま、店の外に持って出るのは、酒類販売免許がない店だと「酒類小売酒税法」違反だそうです。
知らないで酒を買って、海外のお土産にしていた事もあったなぁ……。
皆さんはどんなボトルキープしてますか?

2013年1月8日火曜日

平成の始めの日


1989年1月7日に昭和天皇が崩御されて、今日1月8日は平成になった最初の日です。早いもので、もう間もなく四半世紀になろうとしていますね。

不謹慎な話ですが、昭和天皇が崩御された晩はパリはシャンゼリゼの「リド」でショーを観ていました。
翌朝、ホテルのテレビのニュースで昭和天皇の崩御を知ったのです。
最初はテレビでは古いニュースフィルムを流していて、フランス語もよくわからなったのですが、「あぁ、昭和が終わったんだ!」と画面を見続けていました。
その頃パリの友人達と少し出資した会社(日本とヨーロッパの食材の輸出入)があり、そこの友人から電話が入り「天皇が崩御して、元号が変わる」
「何になるの?」と、聞くと「FAXなので何と読むか判らないけど、平に成る“ひらなり”?と、まぁ笑い話のようですね。

東京へ戻ってきて、新宿の高層ビルの上から街を眺めた時に、ネオンなどの派手な照明は全て自粛されて、暗く重苦しい夜景だったことを今でも覚えています。

考えれば7日しかなかった昭和64年と、7日足りない平成元年は巳年で丁度二廻り。昔的な言い方だとふた昔前。
毎日のんべんだらりとしている、進歩の無いハルコに喝!

2013年1月7日月曜日

ハルコブログ始め

正月7日。まだ、松の内ですね。
今年の仕事始めは、本日からです。
今年もハルコブログをよろしくご贔屓にお願いいたします。
昨年末は、神戸でギリギリまで撮影をして一旦東京へ戻り、そのまま新潟のダーチャで新年を迎えましたが、今年はことのほか寒いですね。

今年(正確に言うと年末からですが)は、読書の見直しを図ろうと思いました。
物心がついた頃から半世紀以上読書をしてきました。それは、休むことなく続けてきた習慣でもあります。
若い頃、いつか読むであろうと買った本も相当あります。が、中々読んでおりません。特に古典関係は途中で諦めてしまうものが多くあります。
どうしても、読み易い本から読む傾向で、ちゃんとした読書にはなっていません。
仕事にすぐに必要な本は資料として読みますが、そうではなくもう少し自身の思考の一助になるものを読もうと思いました。
それゆえに、ダーチャには読み易い本は持参せず、気持ちを集中させて読もうと思う本を選択しました。
その多くは歴史関連の本ばかりです。
食文化の歴史は普段から仕事でも眼を通しているので、それ以外の歴史本です。
日本の古代、中世の朝鮮半島と中国との関係、アジアの歴史、中世ヨーロッパの歴史……。

その中で、面白かった一冊は『大聖堂・製鉄・水車 中世ヨーロッパのテクノロジー ジョゼフ・ギース/フランシス・ギース著栗原泉訳(講談社学術文書)
暗黒時代と言われている中世ヨーロッパは、実はテクノロジーの進歩した時代だった──という内容です。
この本を読みながら、現在の我々の置かれている時代と重ね合わせてしまいました。
自然を搾取している人類の概念は、中世から綿々と続いている思考の文脈であり、「我々のすぐ前の時代は、古代人が夢にさえ描けなかったことを実現してくれた」……。

半世紀前に誰がこんなにネット社会になると予想したでしょうか。一部ジュール・ベルヌだけは、100年以上前に20世紀後半の世界の予測はしていましたが。
人類は、まだ鉄器時代の延長線上にいながら、別な世界を構築していることを過去から学ぶことができ、さらに未来のことも予見することが可能だと思うのです。

……と、思う心がどこまで持つかが問題の、三日坊主のハルコでした。

2013年1月1日火曜日

明けましておめでとうございます


●日々是ハルコ哉。ブログはは1月7日より再開いたしします。

お正月休みは新潟のセカンドハウスで過ごしております。
ついつい食べ過ぎ、飲み過ぎてしまいます。気をつけねば。
皆様も風邪など引かれませんように。
よいお正月をお過ごし下さい。

※『日々是ハルコ哉。』ご愛読の皆様へ
12月26日から1月6日までは、ハルコのfacebookで発信しております。
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