2014年1月20日月曜日

ララ物資


今日は大寒、さすがに暦通りの寒い1日なりそうですね。
土日も働いていたので、何だか今日は休みたい気分です。

毎日ブログを書いていると、まず手元にある「食の366日話題事典(東京堂出版)」で、今日の項を確認するのが日課となっています。
今日1月20日の項に「ララ物資による学校給食が再開される」とありました。
“ララ物資”?? ほとんどの方はご存知ないでしょうね。
太平洋戦争後に極度の食糧難で日本が困窮してた時の話です。
「ララ」は、「LARA」の呼称で、正確には“License Agency for Relief in Asia(「アジア救済連盟」)”の頭文字です。
太平洋戦争終結直後、日本人の約六人に一人はこの「ララ物資」の恩恵に浴しました。
キリスト教徒により結成された民間組織で、救援を主に活動している団体が物資を送ったのだそうです。

1946年年11月、横浜の港ヘアメリカから援助物資を満載した船が到着し、「ララ物資」は当時の金額にして400億円にものぼりました。この膨大な量の援助物資が、すべて「日本の子供達を救おうではないか」との思いを込められたもので、世界各地から送られたのです。しかも、それがすべて民間のボランティア組織で行われたのです。
この活動の中心になったのが、日系アメリカ人で岩手県盛岡出身の浅野七之助さん(1900~1998年)という方なのです。
浅野七之助さんは、太平洋戦争中に日系人が強制疎開や財産没収された中、アメリカ政府に掛け合って、ようやく日系人の名誉回復させた人物です。
食料品や医薬品、さらには日用品などの膨大な救援物資が、「ララ物資」あるいは「ケア物資」として海外のNGOの手により届けられ、1946年から1952年までの間に、1,400万人以上が恩恵を受けたと言われています。

戦後70年近く過ぎて戦争や戦後の記憶が薄れ、歴史的な相違から多くの問題が溢れています。
ここでは事の是非は言いませんが、どんどん埋没していくように感じています。
先日、いわての銀河プラザへ伺った時に、津波で家が無くなり、現在盛岡在住の釜石のわかめ業者の女性の言葉が忘れられません。
「東京に来て、オリンピックで盛り上がっているのを見ていると、これで被災地は人も(工事の)物(資材)もお金も、東京で止まってしまいますね」

こんなことを考えている大寒の日です。

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