ロブションが亡くなり、
フランス料理の
大きな灯りが消えた。
ロブションの「魂の父」と
いわれたジャン・ドラヴェーヌに
まつわる3つの物語。
ジャン・ドラヴェーヌ(Jean Delavene)は1957年にパリ郊外にブージバルに
「カメリア(Cameiia)」を構え、「シンプルな料理」の提唱をし、
元祖ヌーヴェル・キュィジーヌとも呼ばれていた料理人。
1963年ミシュラン1つ星、1972年には2つ星で「ゴーミヨ(GAULTMILLAU)」でも
高く評価されていた。
そして、1985年に現役を引退したが、1991年にパリのアンヴァリットの近くに
「Regin(レガン)」オープンしたが、半年で閉店し4年後(1996年)、77歳で亡くなった。
ドラヴェーヌはジョエル・ロブションを導き魂の父とも呼ばれた。
1992年の1月にアルザスの「Auberge de L'ill」で食事をするためにパリから
ストラスブールに向かった。
コールマールで、アルザスワインを代表するのジョス・マイヤーのシャトーオーナ、ジャン・メイヤー氏に迎えてもらい、シャトー(ヴェンセントハイム村)を案内してもらった。
その晩は地元の居酒屋レストラン「Au pont du Corbeau(オー・ポン・デュ・コルボー)」に。
隣の客同士の肩がぶつかるくらいの狭い店で、ハルコはメインに”Tête de Bouf(牛の頭肉)"をオーダー。
これは地元の人気料理で、厚さが1cmもある”トクホン大判サイズ”が4枚分もあり、
付け合わせのジャガイモはタマネギや香草のたっぷり入った酸っぱいソースで食するも、
量が多すぎてギブアップした。
「Auberge de L' ill」訪問も終わり、アルザスからパリに戻り、友人のフランス料理シェフ(坂田幹靖氏)と左岸アンヴァリット近くで待ち合わせて「Regin(レガン)」に。
昼時なのに客は老人二人とハルコ達のテーブルのみで、ちょっと寂しい感じ。
オードブルは“温かなジャガイモとタラのエストラゴン和え”で、
アントレはアルザスでも食べた牛の頭の肉をまたまた見つけ、“Tête de Veau"(こちらは仔牛)をオーダーした。
アルザスの料理に比すると繊細な味わいで、旨く満足(が、この時ある事に気が付いていなかった)。
坂田氏がメートル・ド・テールにドラヴェーヌさんはいないのかと聞くと、なんと、二人の老人の一人が本人だった。
ドラヴェーヌさん一緒に記念撮影をして、当日のカルトにサインまでしてもらったが、レガンはわずか半年に閉店。
今,思うと本当に歴史的なシェフとの奇跡的な出合いだった。
フランスから帰ってきた最初の日曜日に、横浜中華街でランチを食べに。
選んだ料理の一つが“冬瓜と蛙の炒め物”で、一口、口に入れた瞬間あっ、と思った。
「この食感、味…。うむ、最近どこかで食べたような気がする」
はた、と思い出したのは、1週間前にパリの「レガン」で食べた“Tête de Veau(仔牛の頭肉)"で、確かにどちらもゼラチン質が多く、似たような感じだった。
が、どうも腑に落ちない。なんだろう、この不思議な胸騒ぎは……。
判らない思いを抱きつつ、ドラヴェーヌさんのことも味のことも忘れてしまった。
だいぶ経ったある日に、『食の味、人生の味 辻嘉一 小野正吉』(柴田書店)という
対談集を読んでいた。
ご両人とも故人だが、辻嘉一(1988年没)は京都の懐石料理店「辻留」のご主人。小野正吉さ(1997年没)は、ホテルオークラの名総料理長。非常に面白く含蓄のある本だった。
その中の項目に、ジャン・ドラヴェーヌが登場していた。
小野正吉がジャン・ドラヴェーヌさんををオークラに招いた時の話で、
NHKの「今月の顔」という番組にジャン・ドラヴェーヌが“味の大使”というキャッチフレーズで来日しており、オークラでドラヴェーヌファエを開催。
さて、その対談に小野正吉が「ドラヴェーヌさんが、オークラに来たときにね、中国料理の「桃花林」で、二日でも三日でも働かせてくれって、白い服持って来て調理場に入ったんですよ。彼らは香港・中国にも行っているようですしね」
この部分で、何だか判らなかった輪が完結したのだ。
アルザスの“牛の頭肉”から始まり、ドラヴェーヌの“仔牛の頭肉”に行き、そして、横浜で食べた“冬瓜と蛙”がフランス料理から中国料理へとヌーヴェル・キュイジーヌで融合したのだった。
この『食の味 食の人生』に巡り会えなければこの謎は解決出来なかったという話。