2012年7月31日火曜日

八朔(はっさく)


毎日暑い、暑いと連発していますが、さらに暑く感じるだけですね。
今日で7月は最後で、明日は8月1日ですね。

ハルコは特に趣味というものが、ほとんどありませんが、しいて言えば時代劇小説を読むことです。
時代劇小説と一口に言っても幅広いのですが、その中心はやはり江戸時代です。
江戸時代の始めはどこからかというと、天正18年(1590年)の8月1日からなのです。
実際には旧暦の8月1日で、その当時のグレゴリオ歴だと8月30日に相当します。
この8月1日を「八朔(はっさく/八月朔日)と呼ぶのですが、今の人は知りませんよね。 これが時代劇小説を読んでいると、よく出てくるのです。例えば、『みをつし料理帖(高田郁)』シリーズにも『八朔の雪』なんてのもあります。

元々は、旧暦の早稲の稲が実り、初穂を贈る風習が古くからあり、このことを「田の実の節句」ともいいます。
この「たのみ」を「頼み」にかけて、武家や公家の間で日頃お世話になっている(頼みあっている)人に、恩を感謝する贈り物をするようになったのです。現在の「お中元」の源ですね。
最近は6月くらいから、百貨店ではお中元を取り扱ってますが、やはり、田の実が実る頃が本来の時期なので、今では早過ぎますね。

そして、冒頭の天正18年8月1日に、徳川家康が初めて江戸城に入った日を「八朔の祝い」と呼ぶのです。
江戸幕府はこの八朔の日を、正月に次ぐ祝日にしていたのです。大名や旗本などは白帷子(しろかたびら)の姿で江戸城に登城し、吉原では遊女達が白無垢の小袖で八朔を祝い、町人達も小豆飯を炊いて祝う風習になっていたのです。

どうですか? 明日1日はお赤飯でもいただいては。
この日に恵方巻のように赤飯協会(そんなもの無いか)がキャンペーンすれば、消費拡大になると思うのですが。

2012年7月30日月曜日

明治から100年

今日、7月30日は100年前明治天皇が崩御した日です。
1912年・明治45年7月20日に、宮内省が「尿毒症で天皇重態」と発表し、30日に明治天皇が崩御されたのでした。
嘉仁皇太子(大正天皇)が即位し、元号が大正になりました。

もう100年前のことですが、現在100歳以上の人はおおよそ4万人いるそうです。
これは、明治生まれが4万人しかいないということでもありますね。
昭和だって段々歴史になっているのに、明治なんて時代劇の世界よ、ということも出来ますね。

ハルコが2〜3歳の時まで、曾祖母が生きていたそうです。記憶は当然ありません。長命だったので文久元年の生まれだったとか。文久は江戸時代です。それから6年経て、明治になるのです。
と、いう事はハルコは江戸時代生まれの人と会っていたのです!
平成になって来年で四半世紀、19世紀に生まれていて現存している方はまだいらっしゃいますね。
それでも最高齢で1890~1899年くらいで、明治31〜32年で、日露戦争の前です。段々歴史は遠くへ去って行くのですね。

余談ですが、銭湯によくある富士山なんかを描いている絵があります。
この銭湯の絵は、明治天皇の崩御の年に神田猿楽町の「キカイ湯」という銭湯で、画家の川越広四郎という人が描いたタイル絵が大評判になり、これが銭湯の壁絵の始まりだそうです。
100年前にご先祖様は何をしていたか調べてみるのも一興ですね(※写真は2〜3歳頃のハルコ。何も覚えていませんが、江戸時代生まれの曾祖母が健在の頃だと思います)。

2012年7月27日金曜日

料理屋で大声で話す客


昔、アメリカの学者の説で「ある空間の中で、一定以上の声でしゃべる人間は頭が悪い」というのを読んだことがあります。
大きな球場で大声で声援を送るのは場所柄問題はないのですが、狭い店で大声で話す客くらい神経に障ることはありませんね。

とある場所にとある鮨屋があり、ちょいと繁華街から離れていて、佇まいも料理も程がよく通っておりました。
通いはじめたのは店が開店して1年程の頃でしょうか。清潔な店内で、カウンター自体に直接お造りや鮨を置く静かな店でした。
ある晩予約して店に行った時のことです。L字型のカウンタ-にハルコとオクサマは入口側の短い方に、長い方には角から3人の男性が座っていました。
全員スーツ姿で、話からすると中央にいる男性が上司らしく、部下を連れて食べに来ていたようです。
この上司さん、やたら声がでかい! でかいだけではなく、声が通り振動するようなしゃべり方をするのです。
部下は部下でお追従の笑い声が二重唱で、ハウリングしてしまう。
 二組が先客でいて静かに鮨を食べているのですが、自分たちの話し声も聞き取りにくいくらいうるさい情況なのです。

どうもバカ声上司は、ここの鮨屋に連れて来たのが自慢なのか、鮨が出てくるたびに、ウンチクを話して、主人の腕前を褒めちぎる。
頭の中で、小学生が自分ちに友達を連れて来て、持ち物を自慢している姿を想像してしまいました。
いつか静かになるかと待っていても、さらにお酒が入って声が一段と高くなる。
ハルコのL字の角側にいる部下に至っては、左手で鮨を掴んだまま、お追従笑いをして、鮨を空中でくるくり3分も廻している。視界に回転して一向に食べれない鮨が入ってきて不愉快!
オクサマはもう店を出たいとまで言いはじめ、他の客も随分迷惑そうな顔。
ハルコは調理場の暖簾の奥にいる女将さんに、「静かにさせてもらえませんか?」と、掛け合いましたが、困った顔をするのみ。
席に戻ったハルコ、ついに堪忍袋の尾が切れて、空中でまだ鮨を回転している部下の椅子を蹴って「うるさい!静かにしろ!」
 店は一瞬のうちに静寂に……。

昔の鮨屋さんでは、大将が上手に客をあしらったり、叱ったりしていたもんです。
目黒で通っていた鮨屋のオヤジさんの口癖は、「失礼だが旦那、鮨が乾いてしまいやすぜ」と低い声で鮨を放置している客を戒めていました。
何も言わずにニコニコして鮨を握っている若いご主人は、その時にどう思っていたのでしょうか?

店と客は単に料理を提供し、その対価を支払うという関係ばかりではなく、客に客としてのあり方を教えたり、教わったりする関係だと思っています。
単に旨いものが安く喰えれば良いのではなく(そのことを否定はしません)、客が客として成長する場でもあるのです。
事実ハルコは色々な店の料理人や女将、マダムから勉強させていただきました。

暫くして、その鮨屋のご主人から詫びの手紙をいただきましたが、それ以来暖簾はくぐっておりません。
その店を紹介してくれた友人によると、店は静かになったそうです。

2012年7月26日木曜日

立ち食いレストラン


今、東京のフレンチが凄い事になっています。「俺のフレンチ」が多店舗展開をし、安くて本格的なフランス料理を提供していますね。

この40年近く、東京のフランス料理を観察してきたハルコとしては、ビックリしております。
バブルが弾けた頃に、安価なビストロ風の料理を提供したり、プリフィクスを売り物にした店が増えて、フレンチのカジュアル化が進みました。
そして立ち食いフレンチ、ここに極まれりですね。
背の高いテーブルに椅子無しで、1日のひとテーブルの回転率が2回転以上。これが安価でもフレンチレストランをやっていける理由だそうです(その他に居抜きで内装にお金をかけない)。
 海外、特にスペインに行くと、夕食は下手するとバルのハシゴで、数時間で4~5軒廻って立ち飲み、立ち食いしてますが、相当体力が必要です。
平均2時間程度が立ち食いフレンチの滞在時間らしいですが、通常のレストランなら倍の時間は居ますね。

この現象を見ていて思う事があります。
何を期待して、料理屋さんへ行くのだろうか?
確かに、美味しい物が安価で食べられる事は重要です。
バブルの頃に内容の無い、コピーしたような料理をバカ高い値段で出していた多くの店は淘汰されました。
立ち飲みの居酒屋さんやバルは、その雰囲気自体を楽しむ場です。
それなりの作法があるのですが、個人的には安くてもキャビアやフォアグラを立ったまま食べたいとは思いません。皆さん、そんなに旨い物を食べたいのでしょうか。
まぁ、ひとつの流行なので一度は、という方も(実はハルコもそうなのです)多いのではないでしょうか。

この20年くらいの日本人の食スタイルは、「部分の切り取り」のような感じがします。作法や型は破壊されて、切り取られた部分の寄せ集めになってしまっているのではないでしょうか。
和洋中が混在している日本では、ひとつの食事の中で不思議な混在が普通にあますね。
学校給食でもへんてこな献立だったり、家庭の食卓にも居酒屋現象が起きたりと、バラバラに切り取られて、自分の好みの物だけを集めて並べる。
まぁ、昨日今日に始まったのではなく、バイキングスタイルがその最初のような気がしますが、レストランは作法を理解してこそ楽しめるような気がします。
単に楽しければ、旨ければいいという風潮には、食文化は育たないような気がするハルコでした。

2012年7月25日水曜日

味覚の嗜好が変わる時

先日、大変辛い料理を食べる会に参加しましたが、ほとんど食べることが出来ませんでした。ハルコ、自慢じゃありませんが昔は“辛いもの敵無し!”でした。
人から見ると、バッカじゃないの!?と思われるくらい、辛い物を食べられることを誇りに(?)思ってました。

人生で何度となく、コップの水が溢れる様に、それまで大好物だった物が突然ダメになる瞬間があるのです。
30代の半ば頃から、段階的に変化してゆきました。その頃はタイに辛い物ばかりを求めて行っており、前日まで平気だった料理がそれこそ、「あっ、コップの水が溢れた!」と感じるくらいに食べられなくなり、思わず辛さ、痛さに涙が出てきました。
それでも、オクサマ曰く「普通の人並みになったのよ、今までが異常だったのよ」
それが、先日の辛い物の会で、コップから溢れたのではなく、完全に辛い物コップが壊れてしまいました。
そうなると、ちょっとした辛さでも敏感に味蕾が反応するのですね。

次に甘い物ですが、これは元から甘い味に強くないのです。
甘すぎる物を食べるとからだがプルプル震えます。と、いうより受け付けないので最初から味覚の幅は狭いのです。
苦い物(大人の味と言われていますが)はもとより嫌いなので、受け付けません。未だにゴーやチャンプルーは苦手です。

さらに苦手な物、それは酸味です。
ハルコが色々な料理人の元で修行する、という趣旨で雑誌連載をしておりましたが、その中のテーマのひとつは「酢の克服」だったのです。
しかし、酸味に関しては以前から低いレベルだったので、この数十年間変動しておりませんね。
さて、五味の最後は塩味ですが、これも以前よりはしょっぱい物を好まなくなりました。血圧が高めなので、本当は塩分は注意しなくてはならないのですが。

あぁ、五味に追加で「うまみ」を忘れる所でした。
このうまみに関しては若い頃より、「味が判る」ようになったような気がします。味覚の中で一番、齢と共に広がったような気がします。

そして最大の味覚の広がりは、素材そのものの持つ味です。
何も味付けしない味が旨い、と思うことが最大の変化でしょうか。
味覚の年齢別の曲線では、幼少期と老年期は甘い物に一番反応します。甘い物が一番判りやすい味だからですね。

人類にとって「味」は、自然界に存在する「毒」をどう見分けるかという味覚の歴史です。苦い物、酸っぱい物は最初から毒物の危険性の味覚でもあったのです。
齢と共に味覚は変化し、段々幅が狭くなってきますが、それも楽しみのひとつだと思う事にしております。
ハルコの師匠の野崎洋光さんは、よく「その料理は食べ物の素材の味なのか、調味料の味なのか、よく理解するように」とおっしゃっていました。自戒いたします。

2012年7月24日火曜日

好きなすしネタ、嫌いなすしネタ。

冒頭に不謹慎な話ですが、昔「スシアンルーレット」なる遊びをしてました。
食べ物で遊ぶのか!とお叱りの方も多々いらっしゃるでしょう。

まず情況を説明すると、何人かですしの出前を大きなすし桶で頼み、もう食べられないくらいお腹が一杯で、すし桶ににはまだそこそこすしが残っています。
まぁ、こんなシチュエーションでジャンケンを始めるのです。
負けた人は残っているすしを1個づつ食べるのですが、さすがに残っているのはさほど人気の無いものか、それぞれ苦手なネタです。
ばかばかしいけど、残して捨てるなら食べ尽くそうというゲームです。


すしの1人前は、戦後の食糧難の時代にすし屋は委託加工制で、客が1合の米を持参してすしにしてもらったのがルーツで、1合で握りが8個、巻き物が2切れというのが現在まで続いているのです。
1人前頼むと、その中には好きなネタ・嫌いなネタが混在していますよね。
すしなら何でも美味しいし、嫌いなものなんかない!と、おっしゃる方も多いと思いますが、ハルコは存外に好き嫌いがあるのです。
食べられないというのではなく、1個食べれば良い、という程度なのですが。

まず、光り物はコハダ以外の物は好まず、アジやサバはパスします。
白身はたいていは大丈夫ですが、エンガワを軍艦にしてくれるのも嫌い。
すしの王様マグロは、大トロ、中トロは嫌いで、もっぱら赤身の漬け専門ですね。
海老は本来は嫌いではないのですが、すしになるとイマイチですね。海老は天麩羅で食べたい!
貝類は微妙で、アワビは大好物ですが、アオヤギ・トリガイ・赤ガイはパス。でもハマグリは好き。
イカ、タコは普通(好きでも嫌いでもない)。
軍艦系ではウニは大好きですがイクラは好まず、海苔巻きはおおよそ大好きでカンピョウ巻は別格(別腹)。
おっと、アナゴを忘れていました。アナゴは「乃池」に通うくらいのなので大好き。
ハルコがすしを頼むなら、まずカンピョウ巻、コハダ、白身の何か、マグロの漬け、カンピョウ巻。一呼吸おいてタマゴを切って、あればアワビ、ウニ、そして、アナゴ、ウメシソ巻き。余力があれば、さらにカンピョウ巻!

何だか精彩にかけますね。
本当はお稲荷さんとカンピョウ巻が最大の好物なのです。トホホ。

2012年7月23日月曜日

イギリスのパイ課税


ロンドンオリンピックも直前ですね。
今朝の朝日新聞の記事に、イギリスで日本の消費税にあたる付加価値税(VAT)「パスティ」という半円形のパイに課税する、という内容が目に止まりました。
元々、イギリスの付加価値税の線引きが曖昧なのが原因のようですが、物を買ったりサービスを受ける際に20%の税金がかかるのです。
それが食料品の場合は外食では20%かかるのですが、持ち帰るものでもパン屋の冷たいサンドイッチは0%、ファストフードのハンバーガーは20%と、日本でいう中食が曖昧なのです。

原則温かいものは20%で温かくないものは0%だそうですが、なんだか変ですね。
作られた時には熱いものでも、どうしても冷めてしまいます。
もし、日本にも消費税に関係なくこの課税があったら、さらに混乱してしまいますね。
コンビニで冷たいお弁当を買ったらその場でチンすれば20%、そのまま持ち帰れば0%。こちらは逆に納得しますね。店頭で温めるのはお金を取るべきかもしれない、とハルコは思うのです。
中華饅頭やおでん、チキンなども大変ですね。

昔、まだ缶ビールが無かった時代は、酒屋さんで冷えたビールを買うと「冷やし賃」として1本5円くらい取られた記憶があります。ビール瓶を返すとお金が戻ってきました。
冷たくしたり熱くしたりと、当たり前になっているサービスは本当に良いのかどうか、節電の夏で考えてしまいました。

2012年7月20日金曜日

アジフライ


昨夜は広尾の有機和食「山藤」で、たいへん大きくて衣もサクサク、中は脂がほどよく保たれているアジフライをいただきました。
アジフライって非常にポピュラーで、定食屋さんの定番だし安い上に旨いですよね。
そういえば、最後にアジフライをいつ食べたか、思い出せないくらい食べておりませんでした。嫌いかというと、むしろ相当好きなのですが……。

食べながら、走馬灯の様に高校生の時の修学旅行を思い出しました。
10日間程の長い修学旅行での一番の思い出がアジフライ、というのも情けないのですが、長年の記憶の中で忘れていても、修学旅行=アジフライなのです。
まず、最初の昼食でアジフライが出てきて、夕ご飯でまたアジフライが出ました。次の日の昼もアジフライ、夜もアジフライ……。
何回アジフライを食べたことか!
おそらくアジフライは経費的に安かったんでしょうが、こうも毎日アジフライとなると、食欲旺盛の高校生といえどもさすがに飽きてしまい、不満爆発でした。

長じて仕事を始めてから、独立をして事務所を構えた頃の思いでです。
現在はありませんが、南青山に昼には定食屋さんで夜は居酒屋さんになる店がありました。
そこでは、いつも行くたびにアジフライ定食に納豆を付けて食べておりました。
しかし、ある時にアジフライに残っていた小骨を、喉奥に刺してしまいました。
直ぐに耳鼻咽喉科へ行き、看てもらうと、
「あぁ、刺さってますね。
 月に一人は喉に骨を刺した患者さんが来ますよ」
うむ、思えばその時以来、アジフライを食べていないはず!
わぉ、昨晩のアジフライは20数年ぶりだったんだ!

2012年7月19日木曜日

再録 クラブ・デ・トラント

暑い毎日ですね。
夏らしい夏ですが、節電もしなくては……。

昨年の8月8日からブログを始めました。書きたいことは沢山あるのですが、それは結構調べたり、取材が必要で時間が取れません。
昨日、過去のハルコブログの大まかなアクセス数を調べてみました。ブログを開始して359日のうち、 263日はブログを書いている計算になります。
ハルコブログは大して読まれていないだろう、とデータを見たのですが、意外にアクセスの多いのもありあました。
一番多かったのが、日本のフランス料理に貢献した「クラブ・デ・トラント」の回でした。これは、3回に渡って書いたうちの第1回で、冒頭でも言いましたが、関係者への取材が必要です。どこかで一度まとめてみたいものです。
ちなみに、この第1回のアクセスは、延べ569件もありました。
再録ですが、加筆訂正しております。

●クラブ・デ・トラントの時代


机の上に1981年発行の雑誌があります。
雑誌の誌名は『饗宴』で、これを発行した出版社も倒産してもうありません。
かつて、バブル期に空前のグルメブームがありましたが、この雑誌はその当時の先端を行ったものでした。書き手も、その後の日本の料理批評をリードする人材の宝庫でした。佐原秋生、山本益博、見田盛夫……その他豪華執筆陣です。

さて、その第4号・1981年秋号(季刊で五冊しか出ていない)の後半に、四谷の迎賓館を背景に12人のトックコートに身を包んだ30過ぎのオジサン(いや、失礼)…シェフの方々が腕を組んで映っています。
そこに書かれているのは、
「ホテルから街場のレストランへ、
最近のフランス料理の流れはしだいにこのようになりつつある。
本国でのヌーヴェル・キュイジーヌに呼応するかのように、
日本でもフランス料理を若返らせた街場の料理人たちがいる。
30歳以上のシェフ(たち)が集まったオーバー・サーティのメンバー16人。
かれらの目指すところは、たんなる同業の連帯だけではない。
高品質の魚、肉などの共同仕入れから、
ゆくゆくはフランスワインの買い付けまで広がる。
フランス料理の未来にとって、かれらに寄せる期待は限りない。」

「クラブ・デ・トラント(Club des Trente)と呼ばれるグループの始まりでした。
もう30年以上前の話でいまさら何だ、と思う方も多いかと思いますが(えぃ、年寄りの昔話しじゃ)、ハルコの敬愛するフランスの歴史家アラン・コルバン先生(Alain Corbin)のお言葉にこんなのがあります。
「歴史を知らない社会は知的に貧しい社会になりかねないことだ。
 少しも新しくないのに、たまたま目の前にある現象を
 新しいことだと勘違いする無邪気な心理が生まれてしまう。
 過去の体験や知識を正しく受け継いでいれば避けられるのに、
 それを知らないために社会全体が幼稚な錯覚にとらわれることになりかねない」
 (朝日新聞インタヴューより)

クラブ・デ・トラントは、海外(主にフランス)で修行した料理人たちが1970年代後半から帰国し始まりました。皆さん30代でしたが、30年の月日が経つと現役引退したり、会長の高橋徳男さん(2009年)も亡くなってしまい、ハルコは段々その当時の証言者がいなくなる危機感を抱いています。

クラブ・デ・トラントの存在は日本にフランス料理の定着を果たすとともに、全体の食文化を引き上げ、スターシェフを排出し、後に続く若手シェフたちの道標にもなったのです。ハルコはその黎明期からの歴史の検証を、“客”の立場から試みたいと思います。

季刊『饗宴』第4号(婦人生活社)1980年 9月30日発行
写真右から(カッコは当時のレストラン名
吉野好宏(ジャンドマルス) 石神和人(ベル・フランス) 酒井一之(ヴァンセーヌ)
井上旭(ドゥ・ロアンヌ)  秋山茂夫(サンマルタン)  高橋徳男(ラ.マレ)
鎌田昭男(オー・シュアヴァル・ブラン) 青木亨(イゾルデ) 坂井宏行(ラ・ロッシェル)
熊谷喜八(ラ・マレー・ド・チャヤ) 城悦男(レカン) 寺島雄三(楠亭)
※写真にはいないメンバー/石鍋裕(ビストロ・ロテュース) 扇谷正太郎(エヴァンタイユ) 佐藤健二郎(シャトー・リヨン) 勝又登(ビストロ・ラ・シテ/オー・シザブル)

2012年7月18日水曜日

「旬」再考

梅雨が明けて、思い切り暑いですね。余りの暑さに、また冷たいもの(主としてビール)を飲み過ぎ、クーラーの効き過ぎた部屋でうたた寝をしたら(すみません節電します)、案の定喉が痛くなり少し風邪気味です。 6月の喉風邪がまだ完治していないようです。


ハルコが料理関係の販促のお手伝いをしていて、頻繁に企画書に登場するのは「旬」という言葉です。
これは、1年を通した企画提案には重宝な言葉です。
百貨店やスーパーマーケットにしても、通年・通常ある物ばかりでは、売場が変わり映えしません。
そこに「旬」というキーワードを入れると、色々な季節の色彩溢れる売場になるのです(はずです)。
またこの「旬」と前後して、「走り」「名残り」というキーワードを増やすと、それまでソロだったものが、トリオに変身します。
日本(の)料理の素材の基本は、「走り」「旬」「名残り」の3つの組み合わせから成り、それを好しとする食文化が形成されてきました。
ただ、それを即家庭に応用というのは大変ですが、懐石や会席料理ではその組み合わせもまた楽しみです。

と、前置きが長くなりましたが、ここから本題です。
随分「旬」のことを仕事のネタにして来ましたが、ハルコは大いに疑問に思っていることがあります。
それは、「旬」の標準化です。
しかし、それはどだい無理な話ですね。
日本列島は南北に縦長で、筍ひとつ取り上げても、11月末の鹿児島かから7月の東北の筍(種類は違いますが)まで、半年以上の差があります。
ここでいう筍の「走り、旬、名残り」は京都、大阪と東京での標準で、料理屋さんで出すタイミングと、家庭で消費できるタイミングは1~2ヶ月の時差があります。

話は海外に飛びます。
ヨーロッパの地方都市の市場で見かけた、一番美味しそうな「旬」の素材を楽しみにして夜のレストランへ行くと、盛りの素材はどこにも無いのです。
安くなって出回ると、レストランではお金を取れないので、まだ市場に出回ってない高価な素材を出しているのです。それを旬の時期に食べたければ家庭でどうぞ、ということですね。
ただ、通りがかりの旅行者としては大変残念なことです。

英語では
「旬=season, best season」「走り=first」「名残り=remains」
「たけのこは今が旬だ=This is the best season bumboo shoots」
となりますが、日本語の様な微妙なニュアンスとは違いますね。
個人的な解釈ですが、「走り、旬、名残り」一番難しい立場は「名残り」ではないかと、考えています。
「旬」が最大勢力を誇っているのでわかりやすく、「走り」は若さ、希少性ですぐに話題になりますが、「名残り」は判りにくい。
かつて勢いがあり一大勢力を持っていたのが、数が少なくなり、「まだいたの!有ったの!」と言われる「名残り」こそが、侘び寂びの、滅びの文化の本質ではないかと思うのです。

そしてまた、新しい季節が始まれば、走りといわれ、旬となり、名残りに至る。
「名残りおしけれ」人の世の、人生と似ていますね。

2012年7月17日火曜日

夏の食中毒

今日7月17日は、明治時代の旧刑法で食品衛生に関する規定が定められた日なのです。
1880年(明治13年)に「不熟ノ果物又ハ腐敗シタル飲食物ヲ販売シタル者」を処罰の対象にしましたが、不備が多く20年後の1900年(明治33年)2月23日に、現在の食品衛生法の前身である「飲食物その他の物販取締に関する法律」が公布されました。

7月から生レバーの提供が禁止になりましたが、現在は一年中を通して室内温度の調整が効くので夏に食中毒が特に多いということはなく、逆に冬場にノロウィルス系で寒い時の食中毒が増えています。
イメージとしては、夏場は物が腐りやすい季節だからだと思いますが、暑さのために体力が落ちていたり、冷たいものばかり食べている所に、腸炎ビブリオ菌(サルモネラ、大腸菌0157、黄色ブドウ球菌)等に負けてしまいやすいのですね。
しかし、梅雨になる6月から夏の終わりの9月までの4ヶ月も、食中毒が多く発生しているのも事実です。

中国料理は基本的にはすべて加熱した料理です(現在は生食もありますが)。
大昔、中国料理でも生食の時代があり、ある時に食中毒でたくさんの人が亡くなり、その後加熱調理が定着したというのが文献にありました。
生の食材を食べるリスクを、現代人はともすると忘れがちですね。

自然、天然、オーガニックの野菜は素晴らしいですが、そこには本来色々な雑菌や寄生虫がいる事を知らずに、若い女性達が生食のサラダを食べて、身体の中に寄生虫を飼っていたりします。
農薬が悪の権化の様に否定されるなら、なぜ、農薬が必要だったかの歴史を学ぶ必要があります。餓えないための食料生産と、高品質の食材は別なものです。
もし、無農薬で自然に近い状態で最高の食材を毎日入手するなら(金額的どんなに高くても)、日本では数万人の人しか恩恵に預かれないですね。

テレビのグルメ番組で、料理人が畑の中で野菜にいきなりかぶりつくシーンをよく目にしますが、以前から約束事とはいえいかがなものかと思います。おそらくその畑は管理されて寄生虫などいないと思いますが。
そして、野菜でも本来は虫食いのあるものは良いものなので、「キャー、イモムシ!」と、嫌わないでください。お互いに共生しましょう。

ともかく、ちゃんとアク抜き等の下ごしらえをして加熱をするか、抗菌作用の高い薬味などを使いましょう。
また、冷蔵庫の過信は要注意です(あぁ、何だか厚生労働省のパンフのようなブログになってしましった)。

2012年7月13日金曜日

アンビグラム・そしてイタリアンの現在

明日7月14日は、フランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃事件のあった日です。日本では「巴里祭」と言ってますが「Quatorze Juille」のことですね。


と、前振りとはまったく関係なく、昨日は7月12日は天現寺・南麻布に新規オープンした「AMBIGRAM アンビグラム」に出かけました。
アンビグラムを始めた米津さんは、現在の「ドンチッチョ」の石川勉さんが星条旗通りにあった「ベンズィーナ」時代からの長いパートナーで、「トンマジーノ」「ドンチッチョ」と石川さんを支えていたのですが、ドンチッチョから独立して1年で新たなスタイルのイタリアンをオープンさせたのでした。
 話を伺うと、当初は石川勉さん流のシチリア的な料理を提供したかったようですが、双子の料理人伊沢浩久さんがフリウリ、ピエモンテ、パティシエの伊沢和明さんがパリ、ブルターニュでの修行を積んでいるので、相当北イタリアやフランス的なテイストになっていました。

食事をしながら思ったのは、味が優しい、懐かしいという思いを持ちました。
これは、日本・東京でのイタリアンのあるひとつの進化形だと思うのです。
以前から日本のイタリアンの歴史を調べておりますが、第二次大戦(太平洋戦争)敗戦後の「カンチェミリ・アントニオ」や「キャンティ」の前身の「光輪閣」から始まり、昭和30年代の「シシリア」「ニコラス」「アントニオ」「キャンティ」を黎明期とすれば、東京のイタリアンは、1970年代の大阪の万博を挟んでイタリアで修行に行った第1世代から始まります。
その当時のイタリアンは、読んで字の如く「イタリア料理」という大きなジャンルでした。日本人に馴染みやすいローマから南にかけての料理が主で、パスタも乾麺が中心でした。

イタリアでの修行を終えて帰国した料理人達が、それぞれ街場でレストランを開店した1980年前後にイタリアブーム(イタメシ)を成し遂げて、空前のグルメブームになったのが第2世代で、北から南までカバーしてイタリアの食文化を提供することになり、パスタも乾麺からフレスカへと生パスタが認知されてきました。

その後の続く第3世代は、より狭い地域の特長のあるイタリア地方料理を提供し、日本に居ながらイタリアよりイタリア本場の料理が楽しめる様になったのです。
また、輸入食材も規制緩和され、ダイレクトにレストランに出てくるようになり、客自体もイタリアへ行き、本物のイタリアンを理解出来る層も増えました。

しかしそれ以後はバブルも弾け、店舗自体は増えて来ましたが、特に特色の見い出せない第4世代の店が増え過ぎて、イタリアン自体の希少性は無くなり、何だか美味しいんだけれど、ぼんやりした印象でした。

そしてこの所「小さな台所ひらた」で、「イタリアのイタリアンでもなく、日本のイタリアンでもなく、別に進化したイタリアン」を感じました。
これはアンビグラムにも通じる世界で、「エマルジョン(乳化)された料理」の世界ではないかと思うのです。
イタリア、フランス、日本が一皿にエマルジョンされていて、しかし、以前一部でもてはやされた先端の科学的な調理法でもなく、優しい料理の進化だと思うのです。
これからも注目していきたいです。

2012年7月12日木曜日

海胆、雲丹、海栗、ウニ……。

ご飯を食べている時に、「罰当たり!」と思うことが多々あります。
昨日「銀座とよだ」で〆の炊き込みご飯をいただいた時に、思わず「罰当たり!」という言葉が口をついたのです。


「あぁ~、なんというウニの量。この香り、この味。もう罰当たりもんです」
昨年は、大震災のために三陸のウニは入手出来なかったそうですが、今年はちゃんと出回ったのです。

元々「ウニご飯」は山口の郷土料理ですが、三陸の八戸、久慈地方にもあります。
「ウニご飯」とカタカナで書きましたが、「銀座とよだ」のウニは生ウニで、漢字では「海胆ご飯」と表記するのが正しいのでしょう。
塩蔵加工されると「雲丹」となります。
三陸海岸ではウニを“ガゼ”と呼称することもあり、牡蠣の殻にウニをぎっしり詰め込んで浜焼きにした“ガゼ”は、ハルコも幼少の頃からよく食べたものです。
今考えると、子ども心には普通の食べ物で、ウニを特に好んでいたわけではないのですが「罰当たり」ですね(ガゼは縄文時代からの保存に適した食べ方でもあります)。

また、帰郷した際に一番高級な料理屋さんでウニを頼んだら、当然生の「海胆」で、形状は「海栗(これもウニの当て字)でスプーンを入れてすくうと、まだ、ぷるぷると動いているではありませんか!
まさに、海から上がったそのままをの「海胆」を食べていたのですが、ここまで書いていて、ある夏の日の事を思い出しました。

小学校の頃、近所の人達と海水浴に行った時のことです。
同級生の潜りの得意な友達が、軍手にドライバーを持って素潜りして海胆を採ってきました。その場でドライバーでそれをこじ開けて、海胆を生卵をすする様に食べていた光景です。
おそらく、海胆を食する最高の食べ方だったのでは? と思い出しました。
海胆の流通と三陸の復興の繋がりを感じる「罰当たり」な一夜でした。

2012年7月11日水曜日

肉、肉、肉、そして野菜


facebookを始めて、ネット上のバーチャルな繋がりから実際にお会いして、リアルなお友達になることが増えてきました。一緒に食事をする機会も随分ありますが、その中身というのが極端に幅広いのです。
 完璧なベジタリアンの方から、肉!肉!肉!と肉に命をかけている方まで左右に分かれているのです。

先日も甲府のお肉屋さんが、A5の肉をとあるお店に持ち込んで、貸し切りで食べる会に行ってきました。
いや、お肉も素晴らしいのですが、それ以上に皆さまの食欲の旺盛なことと言ったら、凄いの一言!
健啖家集団で、肉喰う、酒飲む、肉、肉、肉、酒飲む……。
ハルコ、呆然としてしましいました。

元々ハルコも肉は大好きですが、歳と共に量がいけませんね。
普段、わが家で夕ご飯に食べる肉の平均の5倍ほどいただきましたが、最後はギブアップでした。
その晩は気絶するように寝てしまい、普段から早起きのハルコが朝も起きられず、オクサマから「どうしたの?」と聞かれる有様でした。
1日中具合が悪いというよりも、身体が食べ物を欲していないのでした。
身体が凄く酸性に偏り、修正を必要としている感じです。
これが、麻痺してくると、肉、肉、肉、肉……と連続してへ平気になるのかもしれませんね。

わが家の普段の食卓は、ご飯を中心に豆類(大豆製品の豆腐や納豆など)、芋類、野菜が中心です。これに卵、魚や肉を少し取る程度です。
特に、野菜が無いとわが家の食卓は成立しません。が、野菜ばかりでもダメですね。
やはり、自分で作って食べるご飯が一番という結論です。
それにしても、あんなに肉を食べている皆さんは身体は大丈夫なのかしら?

2012年7月10日火曜日

納豆の日

今日7月10日は納豆の日です。
まぁ語呂合わせなので、納豆が発明された日だとかではないのです。
納豆くらい、地域で好き嫌いの差がある食品はありませんね。

有田の福泉窯の商品開発をしていた時に、有田焼で「納豆鉢」を作ろうと企画しました。
ところが(当然というべきか)、皆さん納豆が嫌いなんです。
地域のスーパーでも売ってはいますが、ごくごく少ない販売量でした。
納豆をかき混ぜるのに丁度良い、機能的で便利な納豆専用鉢を開発するために、色々なサイズで、手の大きさににも関係なく安定して持てるものをテストしました。
問題は、皆さんが嫌いな食べ物ゆえ「くさかばい」「ねばねばして気持ちわるか」「こげなもの人の喰うもんじゃなかとね」……散々な言い草ですね。
それでも、何とか商品開発をして売り出しましたが、ちょっと価格が高くてさほど売れませんでした。

その当時、東京農業大学の小泉文夫先生にネーミングを依頼して断られてしまったりと、色々なことを納豆の日に思い出しました。
ハルコは毎日食べているわけではありませんが、定食屋さんで別に小鉢が有る場合は必ず頼みます。胃が不調の時などは小泉先生を見習って、納豆のみを薬替わりに食べたりもします。

大きい声では言えませんがオクサマを昔、居酒屋さんに誘ってデートした時(キャー! 恥ずかしい)に、オクサマ(その当時はそんな呼び方はしていませんが)が、「イカ納豆ください」と頼んだのを見て、食での違和感はないなぁ、と感じました。食への関心の共通性って大事ですね。
あぁ、今日は納豆買って帰ろう。

2012年7月9日月曜日

ウディ・アレンのパリ

土日は久しぶりに2日間完全OFFでした。
溜まっている家事をこなし、土曜日は雨の中三菱一号館美術館『バーン=ジョーンズ展』を観に行き、日曜日は間もなく上映が終了する『ミッドナイト・イン・パリ』を観に参りました。


写真は「ミッドナイト・イン・パリ」にも出てくるクリニャンクールで。
ハルコ、ヤクザと言われてしまった!

『ミッドナイト・イン・パリ』はご存知ウディ・アレンの監督作品で、ともかく観に行きたかったのですが、6月にわが家を襲ったオクサマの骨折ハルコの入院騒ぎや土日に撮影が続き、なかなか行くチャンスがありませんでした。
やっとギリギリに間に合いましたが、個人的にこれはもう、文句無しに最高に面白い作品でした。
一番最初にウディ・アレンを観たのは「007カジノ・ロワイヤル」で、最後の悪の親玉がウディ・アレン! ピータ・セラーズの怪優ぶりには負けてましたが、とても印象深かったのです。
その後に1972年に脚本・主演した『ボギー! 俺も男だ』で大ファンになりました。
 ニューヨークを拠点にしながらバルセロナ(『それでも恋するバルセロナ』でバルセロナを舞台に映画化)や今回のパリを舞台に、自分の好きな場所で映画を撮影しています。

ハルコもパリが大好きでございます。
1986年に初めてパリに行った時から、かなりの回数出かけております。
映画の主人公が、1920年代にタイムスリップしてその当時の文化人達に会うのですが、それが凄い!
コール・ポーター、スコット・フィッツジェラルド、ジョセフィン・ベーカー、ヘミングウエィ、ピカソ、ダリ、ブニュエル、マティス、ゴーギャン、ドガ、T.S.エリオット、マン・レイ……。
凄すぎる! 文学、美術、演劇、映画のスター達がてんこ盛り。
ウディ・アレンが非常にリスペクトしているのがスクリーンから伝わってきます。

どの場面を見ても「あぁ、あそこは○○、ここは○○」と行ったことのある場所ばかり。
冒頭で「ジョイスがよく行っていたリップ」のセリフにはにんまりとしてしまいました。だって、ハルコもかつて同じ様に、その当時の文化人の足跡を求めてパリ中を歩いていたんだもん。
「ミッドナイト・イン・パリ」を観て、最近ご無沙汰のパリに行きたくなりました。

2012年7月6日金曜日

ヤキトリ


昨夜は千駄木の「今井」焼鳥を堪能しました。
この所よく焼鳥屋さんを探訪しています。以前は馴染みで通っていた店もありましたが、引越で行かなくなったりして定期的に行く店がないのです。
人によっては、新しい店ばかり行きたくなる方もいらっしゃいますが、ハルコとしてはお気に入りの店に通うのが好きなんです。

焼鳥を食べながら考えたのは、ひと昔に比べて焼鳥屋さんのイメージが随分変わったということでしょうか。
赤提灯に縄のれんの昔ながらの焼鳥屋さんから、フランス料理のテイストのあるワインにも合う店まで幅広いですね。

ここから時代は23年前のパリに遡ります。
若き日のハルコとオクサマは年末年始をパリで過ごしておりました。
その当時、フランスへ頻繁に出かけては、3つだ2つだ(ミシュランですよ)と元気に食べ歩きをしていたのです。
さて、連日フランス料理を食べ続け、和食が欲しくなって左岸で見つけたのが「YAKIJAPO」
前日まで贅沢して“CRILLON"に泊まっていたのですが、同系列の“LUTÉTIA"に移動してホテルに荷物を置き、昼ご飯を食べに行ったサンジェルマン・ディ・プレで焼鳥屋さんを発見しました。

店内は地元の人で満員で、パリに住んでいるロシア人親子隣合わせになりました。
日本人が珍しいのか、やたらとフランス語で話しかけてきます。
えっ、ハルコはフランス語が出来るのかって? ウィでございます(ウソです。オクサマ通訳です)。
そのロシア人親子の食べ方の下手さは目も当てられない情況で、焼鳥の串は小さなテーブルに散乱し、どんぶりご飯には大量の醤油をかけてボロボロこぼしながら……。


※クリックで画像拡大します。

「今井」で鳥レバのリエットをバゲットに塗りながら赤ワインを飲んでいた時に、23年前のパリの焼鳥屋さんの風景が目に浮かんだのでした。

2012年7月5日木曜日

枝豆

バタバタしている内に……と言うより、ブログを書けなかったので、あっと言う間に7月も5日に!6月はオクサマの骨折、ハルコ危うく入院騒ぎと、変な月でした。
その合間にやたら撮影が多く、昨日まで14回あり、2日に1回はどこかで撮影立会しておりました。


さて、毎年6月から9月にかけて、わが家では頻繁に枝豆をいただきます。
と言うより、枝豆がある所ではどこでも必ず注文します。
先日も神楽坂の居酒屋さんで、ビールと同時に注文したのですが(写真)、中々出てこず、ビールが無くなった後に出てきて「遅い!」と心の中で思いましたが、注文が入ってから茹でてくれたので、まぁ仕方がないかと。

しかし、茹でたての枝豆は旨いですね。
枝豆を食べる時に、枝豆のちょっと青臭く甘味のある味もなのですが、ハルコは塩の旨味が一番好きなのかもしれない、と思っています。
世の中には、枝豆のようなシンプルな調理法でもこだわりがあって、茹でる前に塩で揉んでおけ、とか色々ありますが、茹でた後の塩振りこそ肝心で、その塩自体が美味しくないといけないのです。

以前上野で入った店で、枝豆を頼んだら全然塩気が無いではありませんか!
そこで、塩を頼んで振ってもらったのですが、塩辛くなっただで旨くも何ともない。
その店は大きい居酒屋さんで、おそらく大量に茹で上げた枝豆に塩をしたので塩が廻ってない部分が出来たのだろうと推測しました。
一度、赤坂の「よしはし」(絶対一切マスコミに出ないすき焼きの店)で、枝豆を一人がザルに塩をして振って、もう一人がそれを団扇で扇いでいました。
確かにその枝豆は旨かった記憶があります。
今度は色々な塩違いで枝豆を試してみよう。

2012年7月4日水曜日

黒ハルコ、乱入!


いつもハルコを応援してくださる皆様、ありがとうございます。

本日もハルコは撮影のため、ブログをお休みします。
今日は黒ハルコが乱入してきたようです。
今後ともハルコをよろしくお願いいたします。

近況はFBにて随時発信しております。
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2012年7月3日火曜日

青唐パスタ元祖「ひらた」

この所連日の撮影の嵐で、ブログを書く時間がありません。
今日は何とか午後に時間が取れておりますが、明日の撮影は午前4時半からスタートですが、ロケなので雨が心配です。
午後はそのまま、スタジオ撮影で、夜は伊勢丹キッチンステージで料理の撮影が閉店後にあります(こりゃ、明日もブログ無理ですね)。


先日、ついに伝説のイタリアンへ行きました。元クッチーナヒラタの平田ご夫妻が、一度引退して再度開店した店です。
ハルコとしては、ヒラタが開店した直後の1年間ほぼ毎週通っておりました。ハルコのイタリア料理開眼のルーツです。しかし、ある事情があり行かなくなりました。
そして、やっとまた会う事が出来て、昔の懐かしい味に遭遇です。
得てして、過去の味は自分の中で美化され、現実になると幻滅するものですが、味は前にも増して進化しておりました。
その中でも「青唐パスタ」が大好きなのですが、ネット検索で調べたらなんの事はない、ハルコのブログが出てきました。
4月5日(木曜日)「青唐パスタの快楽!」です。
嫌ですね。自分で書いたブログをもう忘れていました。
以下は一部書き直しの話です。

ハルコは麺類なら何でも大好きで週1度はパスタを食べますが、個人的三大パスタがあります。
1. ダノイ(今は無き西麻布本店)の“キャベツとアンチョビのスパゲッティ”
2. 甚六のスペシャルナポリタン(材料持ち込み限定)
3. 青唐辛子のスパゲッティ

青唐辛子のスパゲッティをどのくらいの方が召し合ったことがあるかわかりませんが、ものすごくシンプルです。
基本のスパゲッティの“アーリオ・オーリオ・エ・ペパロンチーノ”の赤唐辛子が青唐辛子になっただけです。
パスタは細いスパゲッティーニを茹でて抑え目のニンニクと青唐辛子を切ってオリーブオイルと混ぜるだけ。


その後ブログでは、

昨夜は久しぶりに麻布十番の「トラットリア・ケ・パッキア」へ出かけました。
フリッタータにカラマレス(イカの輪切りに似たショートパスタ)のギアラのラグーと、コートレットで大満足の後に、
「青唐パスタ、出来ますか?」
〆にまた、パスタを注文しました(いや、ハルコって強欲!)。
ケ・パッキアには青唐パスタがあるのです。
元々青唐パスタは20数年前に麻布の「クッチーナ・ヒラタ」で食べたのが最初だと記憶してます。
その頃もパスタは青唐と別のパスタを2皿頼んでました。
今、ヒラタ本店は平田夫妻が後進に店を託し、その系統は「ケ・パッキア」「ピァツト・スズキ」「ヴィーノ・デ・ヒラタ」「ドン・チッチョ」に引継がれてます。


と書いた後です。「小さな台所ひらた」のオープンを聞いたのは。でも、「ひらた」さんはそっとして置くべき店ですね(ここまで書いて何を言わんやですが)。
紹介者が無いと予約も出来ないという話もあります。
本当の隠れ家レストランですね。

2012年7月2日月曜日

ハルコは今日も……


いつもハルコを応援してくださる皆様、ありがとうございます。

本日もハルコは撮影のため、ブログをお休みします。
今後ともハルコをよろしくお願いいたします。

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