2014年2月28日金曜日

本日も撮影中!


本日は貝印で撮影の立会をしております。
ブログは短信でお送りします。
皆様よい週末をお過ごしくださいね。

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2014年2月27日木曜日

中仙道、本庄へ。


本当に今週は事務所に腰を落ち着けて仕事(ほぼ居眠り)しているのは昨日だけでした。
 今日は朝から雨模様ですが、今日は埼玉県の本庄市で打ち合わせがあります。
表参道の事務所から渋谷栄経由で新宿湘南ライン特別快速で1時間34分。往復を考えると1日仕事ですね。
これが江戸時代で、日本橋から本庄まで中仙道を徒歩で行こうと思ったら、1時間4里と計算して、全く休まず寝ないで丸2日かかる計算です。流石にそれは無理なので、1日8時間歩いて行こうとすると、大体5日の距離になります。
本庄は中仙道最大の宿場町だったのですね。

そう考えると、往復3時間なんてあっと言う間ですね。
こんな事を書くという事は、やはり遠いと思っているからでしょうか。
まぁ、往路本でも読んで行きますか。
と、今日のブログは短信でした。

2014年2月26日水曜日

忙中「寒」あり!

日曜日の午前中から伊勢丹キッチンステージの立会があり、その後に岩手県へ出張で火曜日の夜に帰ってきました。この3日間、さすがにくたびれてしました。


昨夜東京駅へ帰ってきたら結構暖かでしたが、岩手は寒かったですね。
夜は氷点下3~4℃でしたが、最初の1泊は実家の暖房を入れていない部屋で寝ていたので、あまりの寒さに夜中に眼が醒めてしまいました(一応暖房用のストーブもありますが)。
夜空は街の灯りが少ないせいか、綺麗に見えて感動しました。
元々地元の釜石は製鉄所があるため、24時間寝ない街と言われ、高炉から出る製鉄の“のろ”を海岸で埋め立てにしていた時期があり、ぼんやりと東の海の方は明るかったのを思い出しました。

釜石から盛岡へ移動して、途中「道の駅」に立ち寄ったのですが、さすがのハルコも初めて見る食材に遭遇しました。
寒干し大根は寒い地域ならではの食材で、完全に水分が抜けた保存食ですが、この大根の葉っぱのみを干して売っていたのです(写真)。

場所は盛岡から秋田方面の雫石という場所で、まだ寒く雪も残るため、その寒さを利用した食材が豊富です。
それで、大根の寒干しの葉の食べ方を聞いてみたら、「一度お湯で茹でてから、料理に使う」のだそうで、調理方法は和えたり、炒めたり、混ぜたり……。
それも細かく刻んで、小麦粉などで練って団子状にして食べるそうです。
素朴と言えば素朴ですが、現代ではどのくらいの方が買って食べるのでしょうか。

ハルコなら、これをどう開発して商品化出来るかと考えてしまったのですが、やはり本体の寒干し大根と葉をある程度刻んで、直ぐに食べられるように加工したいですね。
大根の葉っぱ好きのハルコとしては、赤唐辛子も加えて、「ふりかけ状」なんかも良いと思うのです。
名付けて「岩手雫石 寒干し大根と葉のご飯のお供」(うむ、イマイチか?)

今週は今日のみしか事務所におりません。木金もお外で仕事です。
忙中「閑(寒)」ありの水曜日でした。

2014年2月25日火曜日

クラブ・デ・トラントの時代(再録) 3


2回続けてクラブ・デ・トラントの諸単を書いてみましたが、当然これは当事者が記録(あるいは記憶)したものが前提です。
それに関しては、以前お二人の方から当時の活動状況をお聞きしたことがあります。
一人は北岡尚信さん(プティポアン)です。ハルコ取材の途中で会の話しを聞きながら、当時の生資料も見せていただきました。
もう一人は酒井一之さんです。ここからは、いささか話の筋(かなりクラブ・デ・トラントからはずれて個人的なお話になります)が変わります。
クラブ・デ・トラントの時代、と大げさなタイトルを付けてしまいましたが、ストーリーは3方向あります。

一つは当事者のクラブ・デ・トラントの会員中心のお話
二つ目はそれを取り巻いたフランス料理の動向のお話<
そして、三つ目はレストランの客としてのお話

この3つが折り重なって綴られることが、1970年後半(もっと遡ればそれ以前にシェフたちのヨーロッパでの修行時代、これがまた面白いのです)から、空前のグルメブームが起きる原動力となり、レストランや食が一般性を持ち、それにより料理人がスター化し、その姿を見て多くの若者たちが料理の世界を目指す…という現様が起きました。
美食文化はかつては一部の人々の世界でしたが、その底辺を押し広げ、食産業自体の発展にも少なからず貢献したと思います。
それは80年代をピークにした日本自体の高揚感、と言うと大げさかもしれませんが、あるのです。この30年で食に関して何が起きたのかを、未来のための検証すべきだとハルコは考えています。

ハルコが語るのは当然客としての立場です。その道筋を付けてくれたのが、前出の酒井一之さんなのです。もし、酒井さんと出会わなかったら、食への関心や、ましてやハルコの活動も無かったのでは…と思うのです。

時間を30年ほど巻き戻してみましょう。1980年の渋谷「ヴァンセーヌ」に移ります。
酒井一之さんが14年に渡りヨーロッパで修行を終えて(最後はホテル・メリディアン・パリのスーシェフ)帰国してヴァンセーヌのシェフになった直後に、初めてお店にお伺いしたのです。
それから相当通い続けました。酒井さんからは、フランスの地方料理のことから食材、ワイン、調理法、フランスのシェフたち、修行中のエピソード、旅、カルヴァドスの飲み方、そして食文化……たくさんの話を聞きました。ハルコにとって、“食のマスター”なのです。
酒井さんはまた、クラブ・デ・トラントの事務局を設立当時から、一貫して担当してきたのでした。是非酒井さんにはクラブ・デ・トラントの内情を知る立場から歴史的な記録を残していただきたいものです。


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2014年2月24日月曜日

クラブ・デ・トラントの時代(再録) 2

「フランス料理の探求」(クラブ・デ・トラント著/柴田書店)口絵より。

クラブ・デ・トラントが結成されたのは1980年のことです。
少しその前の東京を中心としたレストラン事情を見てみましょう。あまり遡るのも考えものですね。洋食屋さんは明治期からありますが、戦後からにしましょうか。

ホテルや会館系統には、進駐軍によって接収された(すみません古い話で)丸の内ホテルや帝国ホテルなどがあり、接収解除になるのは1952年以降です。
街場のレストランは、イタリアンの方が早く広まってますね(イタリアレストラン興亡物語もその内書きます)。本牧に「イタリアンガーデン」(1950年)、フレンチでは同年銀座「エスコフィエ」が開店しています。
やはり進駐軍相手のレストランとしてですね。1953年は「グリル満天星」、1955年イタリアン「シシリアン」フレンチでは日比谷に「南部亭」翌年は「ニコラス」が出来ています。
1957年には帝国ホテルでバイキングが始まり、1958年には六本木の「アントニオ」が開店。アントニオは戦時中イタリアから日本へ向った軍艦が、イタリアが連合軍に降伏したので、神戸で抑留されたアントニオさんが戦後マッカーサー元帥の料理人になり、その後レストランを作ったのです。
ハルコが昔勤めていた事務所の並び(西麻布から六本木)にあり、いつかアントニオで食事をする“身分”になりたいと思ってましたね。確かその並びには「西洋膳所ジョン・カナヤ」(1971年)もありました(ハルコ青春時代を思い出す)。
そして、60年安保の時に開店したのがその後の六本木カルチャーの発信地になった「キャンティ」がオープンします。

1970年代はホテルでは、帝国ホテルが「フォンテンブロー」、ホテルオークラが「ラ・ベル・エポック」を開業し、いよいよ日本のフランス料理の幅も奥行きも出始めました。
そして、1960年代から海外に修行に行っていた料理人が帰国して、各地のホテルなどで活躍をはじめたのです。
銀座「レカン」などを経て恵比寿に「ドゥ・ロアンヌ」を開業した井上旭、六本木「オー・シュヴァル・ブラン」の料理長に鎌田昭男、六本木「ロテュウス」石鍋裕「ラ・マーレ・ド・チャヤ」熊谷喜八「ビストロ・ラ・シテ」勝又登「アピシウス」高橋徳男銀座「レカン」城悦男「ヴァンセーヌ」酒井一之とキラ星のごとくスターシェフが出てきたのです。
この時期は石油ショックで日本は不況に見舞われていました。
ホテルから街場へのレストランが増えてきた理由の一つは今思えば不況で、店舗が比較的に安く出せる背景があったのでは、とハルコは考えます。

それは10数年経てバブルが崩壊した後に、ワインバーとイタリアンレストランが林立した状況と酷似しているのです。
話は戻して、いよいよ「クラブ・デ・トラント」の結成で、東京のフレンチは開花するのです。


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2014年2月21日金曜日

クラブ・デ・トラントの時代(再録) 1

短い2月ももう終盤ですね。明後日から岩手へ出張いたします。火曜日までブログを書けないので、過去アーカイブです。
この記事は2011年の10月の「ホテルから街場へ……クラブ・デ・トラントの時代」と題し、3回に分けて書いたものです。何故かこの「クラブ・デ・トラント」は今だに閲覧してくださる方が多く、ハルコブログでは閲覧数が第2位です。
日本のグルメブームの功労者の方々ですが、鬼籍に入られたり、引退されたりする中で、その歴史を引き継ぐ必要があります。


机の上に1981年発行の雑誌があります。
雑誌の誌名は『饗宴』で、これを発行した出版社も倒産してもうありません。
かつて、バブル期に空前のグルメブームがありましたが、この雑誌はその当時の先端を行ったものでした。書き手も、その後の日本の料理批評をリードする人材の宝庫でした。佐原秋生、山本益博、見田盛夫……その他豪華執筆陣です。

さて、その第4号・1981年秋号(季刊で五冊しか出ていない)の後半に、四谷の迎賓館を背景に12人のトックコートに身を包んだ30過ぎのオジサン(いゃ、失礼)…シェフの方々が腕を組んで映っています。
そこに書かれているのは、
「ホテルから街場のレストランへ、
最近のフランス料理の流れはしだいにこのようになりつつある。
本国でのヌーヴェル・キュイジーヌに呼応するかのように、
日本でもフランス料理を若返らせた街場の料理人たちがいる。
30歳以上のシェフ(たち)が集まったオーバー・サーティのメンバー16人。
かれらの目指すところは、たんなる同業の連帯だけではない。
高品質の魚、肉などの共同仕入れから、
ゆくゆくはフランスワインの買い付けまで広がる。
フランス料理の未来にとって、かれらに寄せる期待は限りない。」

「クラブ・デ・トラント(Club des Trente)と呼ばれるグループの始まりでした。
もう30年以上前の話でいまさら何だ、と思う方も多いかと思いますが(えぃ、年寄りの昔話しじゃ)、ハルコの敬愛するフランスの歴史家アラン・コルバン先生(Alain Corbin)のお言葉にこんなのがあります。
「歴史を知らない社会は知的に貧しい社会になりかねないことだ。少しも新しくないのに、たまたま目の前にある現象を新しいことだと勘違いする無邪気な心理が生まれてしまう。過去の体験や知識を正しく受け継いでいれば避けられるのに、それを知らないために社会全体が幼稚な錯覚にとらわれることになりかねない」(朝日新聞インタヴューより)

クラブ・デ・トラントは、海外(主にフランス)で修行した料理人たちが1970年代後半から帰国し始まりました。皆さん30代でしたが、30年の月日が経つと現役引退したり、会長の高橋徳男さん(2009年)も亡くなってしまい、ハルコは段々その当時の証言者がいなくなる危機感を抱いています。

クラブ・デ・トラントの存在は日本にフランス料理の定着を果たすとともに、全体の食文化を引き上げ、スターシェフを排出し、後に続く若手シェフたちの道標にもなったのです。ハルコはその黎明期からの歴史の検証を、“客”の立場から試みたいと思います。

季刊『饗宴』第4号(婦人生活社)1980年 9月30日発行
写真右から(カッコは当時のレストラン名)
吉野好宏(ジャンドマルス) 石神和人(ベル・フランス) 酒井一之(ヴァンセーヌ)
井上旭(ドゥ・ロアンヌ)  秋山茂夫(サンマルタン)  高橋徳男(ラ.マレ)
鎌田昭男(オー・シュアヴァル・ブラン) 青木亨(イゾルデ) 坂井宏行(ラ・ロッシェル)
熊谷喜八(ラ・マレー・ド・チャヤ) 城悦男(レカン) 寺島雄三(楠亭)
※写真にはいないメンバー/石鍋裕(ビストロ・ロテュース) 扇谷正太郎(エヴァンタイユ) 佐藤健二郎(シャトー・リヨン) 勝又登(ビストロ・ラ.シテ/オー・シザブル)

2014年2月20日木曜日

知る権利、知らせない権利。

今週中の雪は避けられるようでほっとしていますが、まだ雪の中で大変な思いをされている方も多いようですね。

昨日のニュースで大変気になったものがありました。
「秘密の隠れ家」を売りにしている大阪のバーが、グルメサイト「食べログ」に掲載された情報の削除を拒否されたとして、サイトを運営する「カカクコム」に対し、情報の削除と損害賠償を求める訴訟を起したというものです。
これは、今週ブログで書いた「フードポルノ」とも繋がる話です。


事の是非は裁判なのでどちらの立場に立つ訳ではありませんが、「カカクコム」は表現の自由を理由に削除を拒否しているのです。
投稿を前提としている食べログの立場としては、この判決が拡大されて他の事例に移る危険と存在自体の真価が問われるのだと思います。
逆に、店の立場としては「一般には知られたくない、教えたくない限定の店」といった、現在の顧客の求める「秘密の隠れ家」というにスタイルに対し、食べログへの掲載は「全然"秘密”ではなくなり、存在価値が失われてしまう」ために営業妨害となる、というものではないでしょうか。

世の中、予約が困難といえば何としてもその店へ行こうとする人々や、会員や特別顧客限定と聞けば、またそこへ行きたいと思う人達も沢山おります。
このような方々が沢山いるからこそ、外食産業への経済波及があるのですが、難しい問題ですね。

かつて「HANAKO」が全盛の頃、ある地域に限定して飲食店の特集を組み、雑誌が発行されてから瞬く間に情報を見た客が多数訪れ、常連客が入れない状態になりました。そして一過性のブームが過ぎた後には常連客も戻らない、という店が多く出現しました。
この時代「あぁ、HANAKOに紹介されたからこの店もお仕舞いだな」とささやかれ、その後絶対「HANAKO」の取材は拒否するという店も増えたのでした。

HANAKOの場合は雑誌を専門とするプロが取材するわけですが、件の大阪のバーに関しては、問題はその店の客が情報を投稿したという点にあります。
今や、日々情報がネットで飛び交う時代ですが、何でもいいというのではなく、節度が必要です。
一応ハルコも食関係の仕事をしていますが、個人的には公に教えたくない、誰にも邪魔されたくない店もあります。
ですから、この裁判の行方は大変気になるのです。

2014年2月19日水曜日

ハルコ、お好み焼きを食する

昨夜はお誘いを受けて、西麻布に昨年オープンしたお好み焼き「Nagasaka Sakumoto」へお伺いしました。
場所は、東京(日本)イタリアンの草分け「カピトリーノ」だったのです。
神戸でも人気の店だったそうで、随所に神戸の名物の「そばめし」もあったりと、大満足な一夜でした。しかし、ハルコは普段はそんなにお好み焼きは食べていないのです。


前にいつ食べたかと考えてみると、2年も前ですね。
関西と違い「粉モン文化圏」ではないので、嫌いではありませんが、ほとんど食べないという感じです。
長岡作茂さんの店は、野菜、魚介、肉を焼いてくれて、グリル鉄板焼で〆にお好み焼き、というスタイルです。

小さい頃自宅の直ぐ側に貸本屋さんがあり、ここでは貸本の他に、壷に入った小麦粉の液体を鉄板で薄く焼き、黒ごまをふりかけて、紅生姜を散らしたものを売っていました。
母親は食べてはいけない、と言っていたのですが、こっそりと買い食いしていたのを思い出しました。
「粒食文化に対しての粉食文化」というテーマは、再度勉強し直す必要がありますね。

2014年2月18日火曜日

フードポルノ

ソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)をハルコも利用していますが、レストランで料理の写真を撮りたい時にみなさんどうしてますか?
このように、料理の写真を撮影してSNSに投稿する行為は「フードポルノ」と呼ばれているのだそうです。はじめて知りました。

この行為に、フランスのミシュランガイドに名を連ねる店のシェフたちは、いい加減うんざりしているのだそうです。

ネットニュースからの引用です。
…………「何にでも時と場所というものがある」と苦言を呈するのは、仏北部の町ラ・マドレーヌ・ス・モントルイユにあるラ・グルヌイエールのシェフ、アレクサンドル・ゴーチエさんは「私たちは、客に安らげるひと時を提供しているのだ。そのためには携帯電話の電源を切ってもらう必要がある」


スマートフォン以前の、ハルコの手書きノート。

また、逆に宣伝になるからと容認しているシェフ達もいて、店の対応もそれぞれです。


昔、スマートフォンどころかデジタルカメラすら無い時代には、フランスのレストランで料理の写真を撮る事は、とても難易度が高かったのです。
まず高級レストランで写真を撮るという、雰囲気を壊す品のない行為ですが、お店によっては記念撮影に応じてくれる店もありました。
暗い室内でフラッシュで撮影するなんて、他のお客さんからすれば大迷惑ですね。

写真を撮れる、撮れないというのは、基本的に店のルールだと思います。
一応写真を撮る時は、お店の方に「写真撮ってもいいですか?」と断りを入れます。
FBに投稿する際は、不味い場合は投稿しません。あくまで美味しいという前提もしくは、自分の食べたものの記録行為です。

レストランばかりではありませんが、国外の美術館や博物館ではフラッシュを発光させない、三脚を立てなければ写真撮影可の場所が多いと思うのですが、日本国内だとほとんど不可ですね。
著作権などの複写の権利などがあるのでしょうが、その流れで行くとレストランの料理の権利はどこにあるのでしょうか?
写真を撮ることによって周囲が不快感を感じたり、他の客のプライバシーに触れることを除けば、基本的に写真の記録は録っておきたいのです。

客が店(作品)へ対価を支払うことにより、所有権が店から客へ移行すると考えると、その際の記録は誰のものなのでしょう?
客にはあくまで、嗅覚、味覚と見たという記憶のみだけど、それを第三者に見せるときに「フードポルノ」と化すのでしょうか。

あと100年も経って食糧難の時代が来たら、現在のSNSの膨大な写真は無形遺産となる日がくるような気がします。

2014年2月17日月曜日

災害と非常食


先週金曜日からの大雪で、幾人もの知人も大変な目にあったそうです。
甲府方面はまだ大変な状態が続いていますが、天気予報ではまた今週半ばにも雪になるらしいので心配です。

そんな雪の土曜日に、新宿の割烹中嶋で3月4日発売の『日経トレンディ』4月号の「おいしい非常食」のページに登場する非常食品の試食撮影があり、中嶋貞治さんと一緒に評価しました。内容にご興味ある方はぜひご覧ください。
最近の非常食はずいぶん進化していて、缶詰入りのパンなども人気のようですが、中には25年も保存出来る食品もありました。

東日本大震災も来月の11日で3年目を迎えますが、非常食品を試食しなががらその頃のことを思い出しました。
東京でも食料品は不足していましたが、宅配便が復活して、釜石の実家に食料品を集めて頻繁に送りました。
当時は電気やガスのインフラの復旧がまだ不完全で、暗い中灯油ストーブで簡単な調理をしていたそうです。
毎週、事務所のある青山のスーパーを中心に、缶詰、レトルト食品、保存の効く食品などを買っていましたが、紀伊國屋でも安い缶詰類はすぐに売り切れ、1個5000円もする蟹缶くらいしか残っておりませんでした。
さすがにそんな高価な物は買えないので、何とか集めていたのを思い出します。

理想の非常食は温かで水分が多く、スープ状のものが良いと思いますが、さすがに飽きただの違う物が良いだのとリクエストがありました。
人間はどんな状況でも、食べる・食べたいという強い欲求があれば、生きながらえますが、本当に非常時には、ガスや電気も無い中で食を取るサバイバル術も必要です。
空き缶があればそれを調理器具にして、米があれば粥やご飯を炊くことも出来るのですが、現代人にはなかなか難しいですね。

大雪で避難する人々をニュースで見ながら、311に重ね合わせておりました。

2014年2月14日金曜日

非常食を食べる!

今日2月14日はヴァレンタインデー。
ですが、まったく関係ない(なくもないか?)話です。

明日15日の土曜日は、雑誌の依頼でハルコが「非常用保存食」を試食してコメントせよ、と仰せつかりました。
偶然なのですが、明治10年(1877年)2月15日は、西郷隆盛が政府に「尋問の筋あり」として兵を率いて鹿児島を出発し、「西南の役」が始まった日なのです。
これだけでは単なる歴史の話なのですが、実はこの西南の役で発達した食べ物があるのです。何だと思いますか?

答えは“ビスケット”なのです。
明治政府は、炊飯の必要のない簡便に食べられる携行食として、大量のビスケットを東京で製造している凮月堂や木村屋など、10社に生産を依頼しました。
ここから急激に、戦争のために日本の工業が発達したのです。
現在、日常にあるインスタント食品の多くは、戦争で発達した物が多いのです。
食べ物ではありませんが、普段日常に使用している“ボールペン”も、戦時中に戦闘機や爆撃機が高度を飛行する際万年筆がインク漏れをするので、漏れない筆器具としてボールペンが発明されました。

手元に、昭和8年に発行された陸軍糧秣本厰の『日本兵食史』という本があります(復刻版です)。日本の戦の時にはどんなものを食べていたかが、克明に記されているのです。
例えば、“焼味噌は餓えず”という項目には、
「石田三成大久保加賀守へ語り教えたるは、焼味噌を湯に立呑候へば終日食物不仕候ても少しも不餓物に候」とあります。
これは、まさに現代のインスタント味噌汁の先祖ですね。
また非常用保存食のことは別途ブログで書きたいですね。

2014年2月13日木曜日

菜の花忌

先週から寒い日が続いていますね。また今週末も雪になるとか……。
もうじき春の足音も聞こえてくる頃ですが、春らしい風景と言うと、ハルコは菜の花畑を連想します。昨日、2月12日は司馬遼太郎の命日で「菜の花忌」だったのです。
昨日のブログは、高校生の野菜でしたが、本当は書きかけのブログを忘れていました。


司馬遼太郎は野に咲く花、とりわけタンポポや菜の花といった黄色い花が好きで、『菜の花の沖』という長編小説があることにも由来しています。
ちなみに小説『菜の花の沖』は、淡路島に生まれた嘉兵衛の波瀾万丈の生涯を描いた物語です。
嘉兵衛は水主(かこ)から沖船頭(船の責任者)となって、独立して蝦夷地への海路を開きます。嘉兵衛は幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、その功により苗字帯刀を許され、その頃南下政策を取ってきた帝政ロシアとの騒動に巻き込まれるのです。

20代の頃から司馬遼太郎を読み始め、いわゆる「司馬史観」に随分と影響を受けました。司馬遼太郎は現代に繋がる昭和は意図して書いていませんが、『坂の上の雲』でも戦争に突入した根っこの部分に太平洋戦争への批判を読み取りました。

ハルコが一番好きな作品は、村田蔵六こと大村益次郎を主人公にした『花神』です。
大村益次郎は、靖国神社の大鳥居をくぐった場所に巨大な像があるのはご存知だと思います。
彼は医師(蘭学者)を志して大阪の適塾で蘭語を学び、洋書を翻訳する際に一度も見た事のない蒸気機関の仕組みを、文字から読み取って図解で起こし、さらに海外の軍事システムを翻案し、具体的な組織に活かす能力を持っていたのです。
これを司馬遼太郎は、白地のカンバスに想像だけで正確な絵が描ける……と、表現したのです。

この『花神』を読んで数十年。
ハルコの仕事の根底の、「いかに想像力を働かせて仕事をするか」という考え方の一番重要なきっかけになったこともあり、この本に感謝した「菜の花忌」でした。

写真:イメージスタイル様 http://www.imgstyle.info/index.php

2014年2月12日水曜日

高校生の野菜

本日は終日、岩手の食材商談会に立会のために短信です。
六本木のヌッフ・デュ・パプで「サロン・デュ・イーハトーヴェ」が開催され、多くの生産者の方が集まっております。
料理人さんからバイヤーさんと熱気が溢れております。
その中でも、遠野の高校生が作っている野菜に注目!
遠野早池峰菜(とおのはやちねな)というブランドです。
岩手県立遠野緑峰高等学校の生徒達、がんばれ!

2014年2月10日月曜日

テーブルウエア2014を観に

東京は金曜から土曜にかけての大雪で、みなさん大変な思いをしましたね。
東京から帰りの飛行機が飛ばず、金曜日に一緒に打ち合わせした有田の窯元さんは、2日間も帰れなくなり、大変だったそうです。お疲れ様でした。


その窯元さんから東京ドームで開催の「テーブルウェア・フェスティバル2014」のチケットいただき、昨日はまだ雪の残る会場に出かけました。
東日本大震災の前は毎年行っていたのですが、このところご無沙汰していたのです。
いつもの事ですが会場は女性客が多く、熱気でムンムンしており、テーブルウェアにかける情熱は凄いですね。
写真撮影は自由なので、皆さんお目当ての場所で、盛んに高そうな一眼レフで写真を撮っていました。


有田のブースでは、以前から大変お世話になっているプロデューサーの方にお会いしました。彼は有田の窯元さんを束ね、中心になって有田焼のラーメン鉢やパスタ皿を企画された方なのですが、一度ちゃんと仕事をしたいと思っております。
毎年開催されるフェスティバルに新商品をぶつけてきますが、少しマンネリ化してきているような気はします。
見落としているのかもしれませんが、新基軸の商品はそうそうありませんね。
ハルコとしても今年は再度、陶磁器の新商品と岩手の漆器の開発を手がけたいと考えております。

今週は色々な商談会やらビッグサイトなどにも出かけるので、ブログは休み休みになるかもしれませんが、FBでは引き続き情報発信していきます。

2014年2月7日金曜日

肉食はダメよ1200年!

新聞の記事では、4年ぶりに牛肉の消費が増えたそうです。
景気が上向いてきたのでしょうか?
一昨日も肉食のタブーのことを書きましたが、今度は日本の肉食のタブー史の話です。


日本でも、江戸時代が一番肉食に対する禁忌があったイメージがありますが、正確には天武天皇による「畜生の殺生禁断令」が、天武3年(674年)に発せられたのが、日本の「肉食のタブー史」の始まりです。
さらにその後、聖武天皇が天平13年(741年)の今日、2月7日に牛馬の屠殺を禁止したのです(資料により年度の違いがあります)。
「畜生の殺生禁断令」の後も、農民の間では密かに屠殺が行われていましたが、牛馬は人に代わって働く家畜ということで、露見した場合は百叩きの刑になったのです。
そして明治5年1月24日に、明治天皇が「自ら膳宰に命じて」牛肉を試食するまで1200年間も、公では肉食を禁止されていたのです。

「肉食はダメ」という仏教的思想の考え方から、やがて日本民族の多くに、「けがれ」という意識が広がり、肉食を否定する国になってしまいました。と言っても、本音と建前の民族性で肉食をしていた人々も結構いたようです。
例えばあの水戸黄門も肉食をしていたとの記録があり、徳川御三家の紀伊藩藩邸跡から大量の獣肉の骨が発掘されています。発見されたのはごみ捨て場から鹿、牛、馬、野兎などの骨でした。
どんな理由で食べていたかと言うと、表向きは薬の一つとして食べていたのですね。
それらを買い付けていたのは、「獣店(けだものだな)」や「ももんじ屋」と言われる種類の店です。ちなみに「ももんじ」とは、バケモノと言うような意味があります。

最も古くから食べられていたのは「猪肉」です。
古代では肉の総呼は「しし」と言っていたのですが、区別が付きにくいので「いのしし」とか「かのしし(鹿肉)」と称したのです。猪肉は別名で「山鯨」とも言います。
鯨は魚の種類と思われていて、猪肉の味が鯨に似ていることから「やまくじら」と隠語で表されています。
また、「牡丹」と植物の名前で呼ばれているのは皆様ご存じだと思います。
馬肉は「桜」、鶏は「柏」、鹿肉は「紅葉」などで現在も名前として残っていますね。

2014年2月6日木曜日

海苔の日

今日2月6日は「海苔の日」です。
ブログを始めて3年ですが、海苔の日だけは必ず書いています。
まぁ、ハルコは相当の海苔好きなのです。


「海苔の日」は、1967年(昭和42年)に全国海苔貝類漁業組合連合会が制定しました。
なぜ、この日かと言うと、701年(大宝1年)に大宝律令が制定施行された日だからなのだそうです(太陽暦換算)。海苔が「調(年貢)」のひとつになったのです。
普段何気なく食べている海苔は、「調」の藻類の中でも貴重なもの(紫菜・むらさきな)でした。庶民の口には入らないくらい高価な、当時の高級食品だったのです。

海苔が庶民の口に入るようになるのは、江戸時代の浅草海苔の登場からです。江戸初期では、海苔は精進料理に親しむ寺院を除けば一般的ではありませんね。
寛永20年(1643年)の『料理物語』には「浅草のり」という名前が見られますが、この当時は醤油ではなく、溜(たまり)で味付けされていたようです。
江戸名物になる「浅草海苔」は、亨保年間(1751年)頃に現在の乾海苔の原型(す)きのり」が発明以降ですね。多くの専門問屋出来て、全国へ浅草海苔が広まったのです。
こうして日本全国で海苔の採取加工が行われ、現在の海苔産地が形成されるようになったのです。

日本人の年間平均の海苔消費量は82枚だそうです。多いか少ないかはわかりませんが。
ハルコは家で海苔を食べる時は、4〜5枚は食べます。その他にも、鮨やさんの巻物、コンビニのお結び、そば屋さんで、焼肉屋さんで韓国海苔……。
数えたことは無いですが、年間200枚以上は食べているはず。
そば屋でぬる燗で海苔を当てにして食べるのが一番好きですね。

2014年2月5日水曜日

菜食主義と人口

先月、ダン・ブラウンの『インフェルノ』を読みました。
ご存知のように『ダ・ヴィンチ・コード』は世界的にベストセラーになり、映画化もされましたね。
『インフェルノ』も謎解きなので内容は書きませんが、地球の人口の増加問題がストーリーのベースになっています。

日本は少子高齢化による人口の減少が懸念されていますが、世界を見ると現在世界の人口は72億人くらいだそうです。これが半世紀前は30億人だったのです。その当時小学生のハルコは、社会科の教科書で覚えた記憶があります。
50年で倍の人口ですが、これが昭和の初めは20億人、19世紀初頭は10億人でした。この50年での増加は異常なほどだと思います。

小説『インフェルノ』は、この人口抑制するために仕掛けられた野望を防ぐストーリーなのですが、悪の側の人口抑制者の立場も理解出来ないわけではありません。
ある人口予想では2100年には109億人になるという説や、いや、地球の人口は80億人で頭打ちだというのもあります。
しかし、まだまだ人口が増加することは間違いないでしょう。
こんなに人口が増加して果たして、地球はその人口を養うだけの物を提供できるのでしょうか? 大気汚染・水不足から始まり、食糧の自給を考えると、ハルコは心配で夜も眠れません。
医療技術の発達で人類は長生きになったのは幸いですが、このままで良いのか考えてしまいますね。


ブログの表題に「菜食主義」としましたが、本当は究極の菜食主義者インドの“ジャイナ教徒”のことを書こうとして、内容が変わってしまいました。
歩く時も口の中に虫が飛んで入らないように白い布で覆い、当然、牛乳も卵も蜂蜜すらも蜂を殺すと禁止しているジャイナ教に、興味を覚えているのです。
その内容は『肉食タブーの世界史(法政大学出版)にありました。食糧危機は、歴史の中でもある物をタブー食にすることで解決している部分もあるのです。
一度、このタブー史と食糧の関係を考えても良いのではないか、と思うハルコでした。

2014年2月4日火曜日

パスタは乾物!?

寒い立春です。が、雪が凄い!
昨日は温暖な静岡で終日撮影をしておりました。
朝から出かけて夜までの間、撮影時間はわずか2時間ほどでしたが、何にそんなに時間がかかったのでしょう。

さて、今朝テレビで情報番組を観ていたのですが、こんなのが流行っていたとは、ハルコ知りませんでした。
パスタの茹で時間がわずか1分!
いや、ウソだろうと思っていたのですが、NHKの「ためしてガッテン!」辺りから出て来たようで、料理人さんの中では知っている人も多いようです。
昔からそば屋さん(多分一部だと思いますが)でしている方法で、乾麺のそばを水に浸水させておいて、充分に水を含ませてから麺を茹でるのです。すると短時間で茹で上がり、食感がモチモチするそうです。


朝の番組(はなまるマーケット)では、アルケッチャーの奥田シェフがその技を使い、パスタ料理を作っていたのですが、水に2時間程度(それ以上でも可)浸けていました。水に浸けたパスタは色が抜けて白くなり、それを茹でると元の色に戻るのです。
水の替わりにコンソメ液に入れても同じ状態になり、さらにパスタにコンソメの味が入るのです。


いや、本当に知りませんでしたが、面白いですね。
そう考えると、乾麺は昆布や干し椎茸、切り干し大根と似ています。
奥田シェフは、この1時間で茹で上がるパスタを、東日本大震災の支援で被災地の炊き出しに活用したそうです。

生と乾麺の中間にある1分早茹でパスタは、第三の味覚かもしれません。
奥田シェフは春にカイハウスに登場します。

2014年2月3日月曜日

節分だけど撮影

今日は節分ですね。本当の意味での年変わりです。
朝からめったに乗らない新幹線こだまに乗り、静岡は富士山の近くのレストランまで来て撮影しております。
暑いくらいの上天気です。

今日のブログは超短信でした。