2011年9月30日金曜日

食の本とエスプリ…4 古川緑波(後編)


『ロッパ昭和日記』は膨大な日記です。
古川ロッパは昭和期の日本を代表する大コメディアンですが、それ以上に1日も休むことなく日記を書きつづけた類い稀な日記作家でもあるのです。
古川ロッパの『ロッパ昭和日記』の中で、最後に紹介したいのは“戦中編”です。この時代は、また別な機会に紹介したい徳川夢声内田百閒の日記や随筆を、合わせて読むと面白いのです。
それでは、戦中篇のなかからいくつか抜粋してみます。

昭和16年12月8日(月曜日/大東亜戦争の始まった日ですね。)
「日米開戦 米英両軍と戦闘 宣戦布告」から始まっています。ロッパは大分高揚して、撮影所の砧へ行きますが、撮影は中止。帰りに銀杏などを買って自宅へ。
「家でアドミラルを抜き、僕はブラック・ホワイトを抜いて、色々食ふ。ラジオは叫び続けてゐる。我軍の勝利を盛んに告げる。十時頃皆帰り、床へもぐりこむ。」
かくして、ロッパの開戦の1日は終わったのでした。

昭和17年12月8日(火曜日) 
ロッパは朝から書評を18枚書いています。この日は開戦1周年の“大奉載日の式”の日。撮影所には行きますが、「まことにすみませんが、今日は撮影所に割当の電力を使い果たしたので中止です」と連絡が入ります。その後、ロッパは友人の家で「昨日、肉が入ったからと誘われてゐるので。~肉とウィスキーのご馳走。」まだ物資はあるようですね。

昭和18年12月8日(水曜日)
前日の日記では、牛肉のすき焼きと素麺とすしのご馳走で、ガブリ、ガブリと醜態に近いくらい酔って朝から宿酔気分。東映のボーナス日で、午後3カット撮影で中止。ロッパは勝ち祝い(開戦3年)で皆に奢るとと言って品川のキン坊(レストラン)へ繰り出します。「コンソメを一気に吸ふ。ハンバーグステーキにライスカレー。7年持参(ウイスキー)、」その後徴用令の話題になり、「こんな大飯喰ひは、工場で一ぺんにことわらるだらうと、笑った。」まだ、大丈夫の様ですね。

昭和19年12月8日(金曜日)
ロッパは2日から須賀川町(現福島県須賀川市)へ斎藤寅次郎監督の映画のために来ていた。東京では頻繁に空襲警報が出ているが、当地は心配なく撮影の合間に『我が輩は猫である』を読んでいる。「精進揚げや大根の油煮などが出て、~大いに飲む。そこで又、白米の飯を食って、何と田舎は住みいいではないか」と。

開戦した同日を時系列に並べてみましたが、ロッパは一般庶民に比べて食生活は恵まれていますね。
知人友人色々な人脈を駆使して食料を調達しようと涙ぐましい努力をしているのは大食いしん坊ロッパ先生んの面目躍如。昭和19年4月3日(月曜日)より、「~演舞場へは、毎日家から弁当持参。白米の日は、実にたのしみ。今日は白米なので、つい早く食ってしまって、又腹が減る。」

食事のことで一喜一憂するロッパの日記は個人の私的な日記を超えた歴史的な価値があります。
現在多くの人が日々の食の記録を電子上に残しています。これが、未来の人類が見た時に過去の時代はいかに豊かな食生活に恵まれていたか、それとも、愚かな食生活をしていたのか。と、考えて見るのも楽しいと思いませんか。
『ロッパ昭和日記』は監修の滝大作さんの労作でもあります。この本は日本の食の遺産だとハルコは思っております。

●日々是ハルコ的食生活
ハルコは普段、平日は仕事の関係やらで、外食が多いでのです。30代の頃は年平均外食日数は320日以上でした。ほぼ毎日外食ですね。多大な金額を外食に投じていたのですが、今思えばそれがバブル!?
お手伝いハルコを名乗るようになり、家での食事が多くなりました。段々と外で食べるよりも、家で食べる方が美味しいと思えるようになってきたのです。
それは、ハルコとして色々な料理人の取材を通して、料理する技術(まだダメですが)の向上?も有るのでは、と思っております。
家での基本は和食ですが、たまにプッタネスカや羊の香草焼なんかも食べるのです。
3つめの写真は、自宅マンションの1階にある榮太郎のきんつばと栗まんじゅうです(ここのきんつば以上に旨いのはない!と思っているハルコの大好物です)。

2011年9月29日木曜日

食の本とエスプリ…3 古川緑波(中編)

ロッパは華族の家に生まれましたが、父親の加藤照麿男爵の「嫡男以外は養子に出す」という方針で養子に出されました。やはり一般庶民とは違う食生活をしていたようです。
随筆の中に、ロッパが早稲田大学1年の時菊池寛に誘われて、銀座の“エーワン”というレストランで食事をする話があります。1922~3年の頃でしょうか。この頃は大正デモクラシーの最後の時代で、日本はおだやかな時期でした。「一粒300m」のグリコが発売、週刊朝日が創刊され、丸ビルが完成した頃でした。
その時代の三大洋食は、ライスカレー・コロッケ・トンカツでした。

菊池寛が“エーワン”で選んだメニューは「スープ、カツレツ、ライスカレー」 ロッパもそれにならって同じ物を食べていました。
まさに、当時の人気メニューを食していたのですね。ロッパはその後に、ババロワとソーダ水を飲み、「ああ何と美味というもの、ここにつきるのではないか!」と書き記し、「その後数日間、何を食っても不味かった。」とまで言い切っています。よほど、美味しかったのですね(想像していたらお腹が空いてきました)。
ただ、“エーワン”の料理は1人前五円以上。現在の価値観と比較するには非常に難しいですね。
当時の1円を5000~10000円で計算して、一人当たり4~5万円弱相当でしょうか。
ロッパは到底自前では食べに行く事が出来ない、月に1000円の月収が無いとダメだと考えました。現在だと月収500~1000万円の高給取りですね。

その後、ロッパは菊池寛の元を離れて役者になり、月収が1000円になり、再び文芸春秋社に菊池寛を尋ねて来たのが10数年後のこと。戦争も始まり、段々大変な時代に突入しました。
ロッパ曰く「僕は、ああいう美味いものを毎日食いたいと思って。努力を続け、暫く、それ位のことが出来るような身分になりました。ところが、何でしょう先生(菊池寛)、食うものが世の中から消えてしまいました」……。
ロッパの飽食の後の哀しくも面白い『悲食記』ですね。

あらためて『ロッパの昭和日記』にパラパラ目を通してみました。なんせ、全部で3500ページ以上の大作です。ロッパはかなりハルコと食の嗜好が似ているような気がします。
特に肉が好き、カツレツ、シチュー、叉焼、角煮、ローストビーフ、ステーキ、すき焼き、串揚げ……。
こってりした味が好き、ウィスキーが好き(ただしロッパは蕎麦が嫌い、ハルコは蕎麦好き)、人の倍は食べる!あぁ、どんどんお腹が空いてきました(こんなブログを書いている場合ではありません)。
では、ご飯を食べに行くので話は明日へ続く。

●ノリピーさんの写真
この写真はノリピーさんこと、武田倫子さんから送られてきたものです。ノリピーさんはウィーン在住で、取材などのアテンドをしております。ウィーンに行くたびに、ノリピーさんには大変お世話になっております。
多趣味な方で山登りと写真もそのひとつです。写真はダッハシュタイン連峰(標高2985m。撮影は8月だそうです。
この山の向こう側は、世界遺産で有名な、美しい湖のあるハルシュタットです。

『王妃マリーアントワネット 美の肖像』(家庭画報篇・世界文化社)
ノリピーさんが編集協力と執筆された本です。書店でお見かけの際はお手にとってください。

2011年9月28日水曜日

食の本とエスプリ…2 古川緑波(前編)

古川緑波。いや、カタカナで“ロッパ”の方が良いでしょうか。
コメディアンにして、稀代の“大食いしん坊”ロッパの日記が『古川ロッパ昭和日記』として、晶文社から全集の刊行が決まった時は心が踊りました。
『ロッパの非食記』古川緑波(六興社版からちくま文庫版)では『非食記』として昭和19年の抜粋を読んでいたのですが、それが何と戦前から戦中、戦後、晩年編の4冊で堪能できるのです。
しかし、古川緑波と言っても……峯岸嬢に聞いて見ると「誰ですか、噺家!?」との返答。


まず古川ロッパ(緑波)の来歴をご紹介します(一部BOOK著者紹介情報より引用してまます)。
1903年(明治36年)8月13日(おっ、オクサマと同じ誕生日だ! なるほどそれでオクサマも食いしん坊なんだ)。東京麹町に、元貴族院議員加藤照麿男爵の六男として誕生(本名は郁郎)しました。
古川家の養子となり、早稲田第一高等学院在学中から「古川緑波」の筆名(尋常小学三年の時に自分付けた筆名)で、映画雑誌に評論を投稿。大正13年早稲田大学英文科入学(中退しました)。同年、菊池寛に招かれて、文藝春秋の「映画時代」の編集にあたりました(しかし自ら経営に乗り出し、多額の負債を負う)。
そして1926年(大正15年、昭和元年でもあります)徳川夢声(夢声さんもそのうち登場!)が活動弁士を糾合して催した「ナヤマシ会」にアマチュアとして出演、声帯模写で絶讃を浴びたのです。徳川夢声の『戦争日記』の中には夢声が銀座四丁目からのラジオの生中継の際に具合が悪くなり、ロッパが代役で夢声の声色で40分中継をしたのを自宅で聞いてびっくりした、というエピソードがあります。
1931年(昭和6年)、東京日日新聞(毎日新聞の前身ですね)の嘱託となり、レビュー・映画評を執筆しました。
1933年(昭和8年)、徳川夢声らと浅草で劇団「笑の王国」(笑の王国は、映画の時代がサイレントからトーキーに移り変り、職を失った活動弁士達を救済するために出来た背景があります)を旗揚げ。興行は大当たりし、エノケンと並ぶ喜劇界のトップスターに躍り出ました。メンバーはその他に大辻司郎(もくせい号で墜落)、三益愛子、清川虹子、渡辺篤などがおり、文芸部には菊田一夫もおりました。
1935年(昭和10年)「笑の王国」を脱退。東宝に入り、有楽座・日劇を中心に活躍。「ガラマサどん」「歌ふ弥次喜多・東海道小唄道中」などに出演、一気に日本喜劇界の頂点へと飛翔しました。12月から「東宝ヴァラエティ・古川ロッパ一座」の座長となります。「エノケン・ロッパ」と一時代を築いたのです。ロイド眼鏡に丸顔で品のある知的な芸風で人気者になりました。
戦後も数々の演劇、映画のほか、NHK放送劇「さくらんぼ大将」に出演。読書家・健啖家として知られ、『劇書ノート』『悲食記』等の著作を残し、1961年(昭和36年)1月16日に没しました。判りましたか? 峯岸嬢。
「ところで肝心の食の話は……?」
はい、明日に続くのだ~~。

●Ganvino
岩手の食材とワインのお店ガンヴィーノです。「岩(岩手)+ヴィーノ(ワイン)」という店名で、場所は青山学院大学高等部西門の通りです。この通りと言えば「ドンチッチョ」ですね。
そうなんです「ガンヴィーノ」はドンチッチョ2号店なのです。
ドンチッチョの石川勉さんは岩手県一関生まれ。店主の遠藤悟さんは、ドンチッチョの前身「トンマジーノ」時代に料理を担当しておりました。
店は6月からのオープンでしたが、すみません、ハルコ最近ドンチッチョに行ってませんです(ハルコはドンチッチョ公認誕生日合唱団の一員?)。
岩手の食材、ワイン、ビール、お酒に、〆は盛岡冷麺と盛り沢山。ハルコも県人会として通います。
皆さん。ガンヴィーノに来てけろ!
渋谷区渋谷2-2-2青山ルカビル2F 03-6427-9880
深夜26時ラストオーダーです。

2011年9月27日火曜日

食の本とエスプリ…1 面白くも哀しい作家と本たち

最近ブログの感想をメールで幾人かの方々からいただきました。
ありがとうございます。皆様一様に“仕事に差し障りはないの?”という意見です。
はい。差し障りの無い様に…と思いつつ、記憶だけで書いている分には良いのですが、事実関係を調べようとすると、もう仕事どころでは……。
最大の犠牲者は、事務所でブログ管理している峯岸嬢ですね。彼女自身の担当の仕事をそっちのけで「まだブログアップ出来ないの」とハルコは催促するでだけですが、写真の解像度の調整から、ハルコの誤字脱字の修正や「これ、意味が判りません!」と、鋭い突っ込みまで、てんやわんやですがなぁ。
峯岸譲は『日経おとなのOFF』でのハルコ連載の時も毎月原稿と写真整理デザインを担当してくれました。
今度それを編集し直し電子書籍で発信する予定ですが、峯岸嬢よろしくね(今度愛猫の写真を載せて上げるから)。
さて気を取り直して、どのくらい続けられるかはハルコにも不明ですが、今日は「食のエスプリ本」をテーマにしてみたいと思います。
インターネットの発達により誰でもカンタンに“メッセージの発信”が可能になりました。が、何だか即物的過ぎてつまらない、と思っているにのはハルコだけでしょうか。facebookやTwitterで(Blogも)氾濫する情報は……と思うのでございます。
“いいね”と、どんどん投稿されて「どこがいいんじゃ!責任者出てこい!」あっ、ハルコは“人生幸朗”師匠ですか? …どうも逆上気味ですね(反省)。

食を書いた本の中からハルコが厳選(あくまでも個人の感想です)する、時代を経ても変わらないエスプリがたっぷり詰まったものをご紹介したいと思います。順不同ですが、こんな人あんな人考えてます。
古川緑波、徳川夢声、獅子文六、吉田健一、辻嘉一、内田百閒、辻静雄、そして東海林さだお……。

何せ思いつきのハルコゆえ、どうなるかの保証はございません。ハハハ。
その他沢山立派な方々がおりますが、あくまでもハルコ基準でございます。池波正太郎、開高健、山口瞳、谷崎潤一郎、池田弥三郎、辺見庸、玉村豊男、嵐山光三郎、石毛直道、本間千枝子、立原正秋……はまたの機会に。

●渡辺七奈さんから唐辛子
料理写真家の渡辺七奈さんから、自家製の韓国唐辛子いただきました。七奈さんは、ハルコがブログでそろそろ青唐辛子の醤油漬けを…と書いたので、摘みたてを送ってくださいました。ありがとうございます。
韓国唐辛子はどの位辛いのでしょうか。辛さの単位は“スコヴィル”です。が現在は検査器具で計りますが、昔は“スコビル”単位の提唱者アメリカのスコヴィル博士辛み成分のカプサイシンを水で希釈して、人的な感応試験で計りました。
ハルコの知人には、そのスコヴィルを“スコビル辛い!”と駄洒落で覚えさせられた方々も多いのではないでしょうか(笑)。
また、ハルコは青唐辛子のパスタが大好きです。少しパスタにして、残りは醤油漬けにしましょう。

2011年9月26日月曜日

『随園食単』から…その2 ティス先生の料理科学

小さい頃ハルコは虚弱で(本当です)食が偏った子どもでした。
産まれた時に非常に強い黄疸になり、毎月自家中毒で発熱と嘔吐で2、3日寝込む症状が10歳まで続きました。
そして食は細く、ガリガリに痩せていました(今のハルコを見るとその話をしても誰も信じてくれませんが)。
食事の時間は苦痛の時間でもありました。嫌いな物が多くいつも食べ残しては怒られていたのです。
そんなハルコは、その頃の子ども向け雑誌に掲載されていた「未来の食事」という巻頭グラビアに強く惹かれました。
“1日の食事は朝は少しのカプセルを飲みだけで充分”というような内容で、一家が食卓で皿の上のカプセルを飲む(食べる)挿絵付です。
ハルコは、これなら食べる苦痛が無くて良い!と、真剣に思ったのでした。
それから長い月日が流れ(きみまろ風に)、今やDEBUと言われようと食に意地汚いハルコになりました。
何だかカプセルの未来の食事を思い出すと「分子調理法」を連想してしましまいした。
はたして、「分子調理法」『随園食単」『美味礼賛』と繋がるかと問われれば、自信はありませんが、何らかの“解”を含んでいるような気がします。


『フランス料理の「なぜ」に答える』エルヴェ・ティス(柴田書店)
『フランス料理の「なぞ」を解く』エルヴェティス(柴田書店)

「分子調理法(Gastronomie Moleculaire)」「分子ガストロノミー(Molecular Gastronomy)仏英での言葉の違いや“調理法”“料理法”色々とありますが、調理の過程で食材の変化を化学的に分析して、料理に対しての新しい仮説を“科学的に創造証明する”と、ハルコ的には解釈しています。
この考え方に賛同し、協力をしている科学者や料理人は未来の料理を開拓するパイオニア的な存在です。
その中で中心的な役割をはたしているのが、フランスの物理学者エルヴェ・ティスなのです。
あらゆる料理は物理化学の“式”で表せると、二つの要素から考察したのです。
1の要素……食材の状態
G(ガス)気体 W(ウォーター)液体 O(オイル)油脂 S(ソリッド)個体
2の要素……G W O Sの4つの要素がどういう分子運動でつながっているか
/分散 +併存 ⊃包含 結合 σ重層
この2つの要素の組合わせで、あらゆる料理の成り立ちが証明出来るとティス先生は考えているのです。
うむ。何だか難しいですね。
そこから、素材を過去に考えられない形状にすることよって、味覚を変えてしまうのです。
「液体のようで、液体じゃない。気体のようで気体じゃない……」
「甘いと思ったら、辛い。辛いと思ったら、苦い……」
この方程式で、すでに私たちが知らない間に味覚を違う方向へと誘導されているかもしれませんね。この「分子調理法」はまだ、歴史的な視点での評価はされてません。
はたして、『随園食単』『美味礼賛(味覚の生理学)』の後嗣となるかは時間を要しますね。
ハルコは調理器具の開発もしておりますが、その際にティス先生の2冊の本を、非常に参考にさせてもらっています。この2冊は調理科学という視点ではわかり易いテキストだと思います。

写真の雑誌はティス先生の分子料理法が掲載された『BRUTUS』570号と朝日新聞GLOBE「料理と科学が出会う時」の掲載号です。

●台風一過秋満開

9月のシルバーウィークなんて関係のないハルコです。早朝のウォーキングで今回は護国寺方面へ。自宅から約30分のコースです。
護国寺は、時代劇ではお馴染み“犬公方”こと五代徳川綱吉の生母桂昌院の発願で、天和元年(1648年)に建立されました。
先々週は駒込“六義園”へのウォーキングでしたが、こちらも綱吉の側用人柳沢吉保の下屋敷。結構周辺は“江戸が生きて”いますね。
護国寺の本道と月光院は重要文化財ですが、山門登り門の後ろで、沢山のネコに餌を上げていたオバさんに会いました。さすがに“生類哀れみの令”の大もとですね(イヌじゃなくてネコですが)。そして、先日の台風15号のためか途中の木が折れてました(写真下段中央)。近所には、都内に1本しかない都電が走ってます。飛鳥山公園にも都電電車が置いてありますね。

今日は栗が沢山あるので、栗ごはんでも作りましょうか。
あぁ、鬼皮、渋皮、オニオク~。プルプルいや、オクサマのためにさぁ、作ろう!

2011年9月24日土曜日

『随園食単』から…その1 袁枚とブリア・サヴァラン

『随園食単』を知ったのはもう大分前のことでした。
とある雑誌の編集者と、雑誌で中国料理の特集を組むための打ち合わせの最中のことです。
雑談の折に、『随園食単』の中ではという話が出たのです。しかし、『随園食単』はその当時は絶版状態でした。
古書店で単行本を見つけたのですが、とても高い値段で買えませんでした。
ハルコがよく利用する古書店は神田神保町の「悠久堂書店」です。
相当数の料理や食関係の本が多数有るので、まず悠久堂、その次に三省堂と廻ります。
その悠久堂で捜していた『随園食単』があったのです。
ただ、やはり、文庫本でも元値の10倍くらい高かったことを覚えてます。
帯には「西のサヴァラン、東の随園、中国は清代のこの食通詩人がものにした“垂涎の書”……」と、コピーが入っております。

この『随園食単』は中国料理のバイブルとまで言われている本なのです。
作者は中国清王朝の初期、康煕54年(1715年)杭州に産まれた袁枚(えんばい)
82歳で没したので、日本では徳川家継、吉宗、家重、家治、家斎の時代を生きた人です。
清王朝の康煕帝(1722年まで)と次の皇帝の時代は非常に平和で安定した時代でした。
皇帝の康煕帝は清国を作った満州族の皇帝の中でも傑出した人物なのです。
康煕帝の父は満州族ですが、母は漢軍八旗の出身、祖母はモンゴル人で、康煕帝には満、漢、蒙の3つの血が流れている上に、満州語、漢語、蒙古語が自由自在に操れたのです。
そんな時代の中で、袁枚は官吏を辞めて南京の土地(地方官時代に購入)で「随園」という庭園を営み、詩人・流行作家として名声を高め、晩年70歳を超えてから著した本が『随園食単』なのです。
やはり、読んでいていてもゆとりの無い時代には書けない本だと思います。

『随園食単』の内容は、当然中国料理が中心ですが、食材の特性やレシピに該当するものの他に、料理と食材の取り合わせの可否から料理人たるものの心得まで、幅広く書かれております。
『随園食単』ブリア・サヴァランの『美味礼賛(味覚の生理学)』とよく比較されます。
袁枚が70歳で『随園食単』を著した時に、ブリア・サヴァランは31歳。この二人は東西を隔てて同時代に生きた人達でですね。そして、『美味礼賛』はブリア・サヴァランの没する前年、1825年の刊行です。
文明の中で、同時代人が別の場所で同様なことを考えてシンクロするというのは、偶然ではなく必然なのでしょうか。
文明のシンクロに関しては『南蛮幻想ーユリシーズ伝説と安土城』(文藝春秋1998年)を著した井上章一教授の説があります。非常に想像をかき立てられる面白い著作です(食の本ではないのですがご興味ある方はご一読を)。
袁枚とブリア・サヴァランから約200年後にこの二つの偉大な書物を継ぐ現代版『随園食単・美味礼賛』が、エルヴェ・ティスによって新たな時代の食のバイブルになるのです。
(次回につづく)

●面白い恋人
このゴーフルはハルコブログ担当(管理者)の峯岸嬢のお土産です。ありがとう!
オクサマも笑っておりました。昨年から有名な商品だったそうですが、ハルコは知りませんでした。販売元は吉本ですが、本家北海道の「白い恋人」九州土産の「赤い恋人」…もう、商魂逞しいですね。大阪じゃないと出来ない商品ですね。
ゴーフルの中のクリームはみたらし味!! いや、脱帽でございます。

●今週も「乃池」
またまた、乃池さんにお邪魔してます。気温が下がって来た方が、すし飯は断然よくなるようですね。

2011年9月23日金曜日

みをつくし料理帖から…江戸のグルメ文化 その4

『みをつくし料理帖』は料理人です。えっ、なぜ当たり前のことを書くのかって?
普段普通に使っている“料理”が問題なのです。
料理を分解すると、「料」「米」「斗」を合わせた「計る」という意味になります。
また、「理」「おさめる」という意味で、「物事を適切に処置する」「きりもりをする」といった意味の漢語です。転じて「手をかけて食物をつくる=料理」になりました(たぶん)。
普通に夕食を作ろうとする時に「ご飯を作る」「晩ご飯の用意をする」とは言いますが「料理を作る、用意する」は何か微妙なニュアンスがありますね。
字源の「料」の「米を斗=計る」が米を主食とした(しようとした)中国や日本のアジア食文化の現れのような気がします。

江戸の初期には、一般的な「料理屋」は存在していませんでした。明暦の大火(1657年)以降、浅草に「奈良茶飯屋(やはり飯屋です)」が出来たのが最初と言われており、その後次第に芝神明や両国などの盛り場に「腰かけの小料理屋」が出来たのです。
江戸の料理は「本膳料理」「腰かけ料理」「会席料理」の3つに分類出来ます。
「本膳料理」は大名屋敷を中心に武家の間で行われ、大名の御留守役が緒藩の交渉の場として(まぁ、接待ですね)高級料亭ができ、「会席料理」となったのです。
会席料理自体のルーツは、室町中期に始まった京都の「有職(ゆうそく)料理」「茶懐石」に、江戸で発達した「本膳料理」が融合して誕生したのです(これが現在の日本料理の大もと)。
そして、料理人澪がもっと格式の高い料理屋への誘いを受けますが、庶民に味を楽しんでもらうために「つる屋」に残る決心をしたのです(6巻までですよ)。

さてさて、ここから本題で、「料理人」「庖丁人」の話です。
澪は「料理人」ですが、「庖丁人」って……?
『生間流式法秘書』の包丁由来之項から引用(大雑把に意訳)しますと、「包丁人を料理人という人がいて、昔の人も庖丁人と料理人の階級があることを知らない」つまり、料理人は庖丁人の下なのです。
「元々、包丁人は包丁式や礼法等(面倒なので省略)の“板元”で料理人を教育したもんだ!」庖丁人は偉いんだ!「料理人は“板元”に学び庖丁人のまねをすること」そして「料理人は庖丁人との階級を乱してはならぬ」てなことが書かれております。
まぁ、今も昔も規律のある場所での修行でなくては、料理の世界は成り立ちませんね。
かく言うお手伝いハルコも涙の修行歴10余年ですが、未だに「精進足らず」でございます。
ハルコも澪を見習い、自分の「器」を大きくしてお手伝い界の星となるのだ!

●飛鳥山公園
この所お気に入りの週末散歩コースです。八代将軍吉宗が亨保年間に桜の苗木を1000本植えて、花の名所になり「江戸名所」「殊にきさらぎやよいの頃は桜花爛漫として尋常の観にあらず」と紹介され、明治6年に日本最初の公園の一つとして開園されました。ハルコの大好きな場所でもあります。
落語の「王子のきつね」の王子権現も近所にあるし、池波正太郎の『鬼平犯科帳』にも巣鴨村(長谷川平蔵の生母の住んでいた場所)から音無川(石神井川の上流)の渓谷を通っていく場面があります。
桜の季節になると飛鳥山公園から川伝いに整理された遊歩道をお弁当とお酒を持って花見に行きます。

2011年9月22日木曜日

みをつくし料理帖から…江戸のグルメ文化 その3

元飯田町「つる家」の側に、澪がお参りに行く“化け物稲荷”があります。
油揚げを供えて、慕っている小松原の息災を祈る…というお話は、どうぞ小説でご堪能ください。

今回は“稲荷”と言ったら“きつね”そして、油揚げ!! 稲荷鮨です。
非常に個人的ですが(今までも個人的なことしか書いてないだろうって)ハルコは油揚げが大好きでございます。
その油揚げで一番好きな食べ方は、“きつねそば”“おいなりさん”を同時に食べながら、最後はおいなりさんを蕎麦つゆに沈めて“混ぜて”いただく(前に混ぜるを書きましたが)という、非常にハイリスク(?)な食事法なのです。食べているハルコもこれだけは他の人には勧められませんね。禁断の食べ方です。

油揚げは豆腐が無いと存在しない食べ物です。いや、豆腐に感謝です。
油揚げ自体は、室町時代初期に寺院で作られた精進料理を端にしてます。その油揚げがどこできつねと結びついたのでしょうか。
ハルコの食関連の資料を何冊も調べてみました…ありました。
鈴木晋一著の『たべもの史話』(平凡社)にある、狂言『釣狐』の中のお話です。身内が猟師に罠で捕まってしまい、自分自身も危険にさらされた古狐がいました。古狐は猟師の叔父の老僧白蔵王に化けて、猟師に狐の恐ろしい執念を説き、罠を捨てさせることに成功した帰り道、捨てさせたはずの罠に旨そうな餌が……。
これが何と若鼠の油揚げ!! これは、日本各地の伝承にもあるそうで、さすがに鼠を油で揚げたものはお供えに向いておらず、代用品として油揚げになったらしいのです。

日本で一番多い神社NO.1は“稲荷”ですが、明治四年に神仏混淆の儀は廃止になり、稲荷神社はその地位を明らかにする必要があったのです。伏見稲荷をはじめ、大きい稲荷は稲荷神社として残り、真言宗系(お大師さまと稲荷は深い関係)の稲荷は稲荷本地仏として十一面観音で寺院へ祀られ、そして引き取り手の無い稲荷は、私有祠として全国に残りました。
澪も祈っていた稲荷は明治期に大転換しましたが、今でも日本人に深く愛されていますね。

さて、肝心の稲荷鮨ですが、天保年間(1830-43年)に名古屋で考察され、江戸で治郎右衛門が売り出し1日で1万個も売ったという記録があります(すごい!)。
稲荷鮨は天保の飢饉の頃から始まり、現在まで続いていますが、その後「狸鮨」というものも売り出されたという記録があるらしいのですが、それはどういう鮨なのかという記述はないそうです。
麺に“きつね”“たぬき”。鮨にも有れば…とハルコは思うのですが、考案しようかしらん。

●タンドリーキッチンマラティ
台風15号は大変でした。本当は東京ミッドタウン「ビルボード」でオクサマのお供で「COBA」さんのライブに行く予定でしたが、地下鉄は動かないわタクシーは捕まらないわで、大騒ぎでございました。
で、何とか自宅へ辿り着くことができました。
マンションの2階にあるインド風レストランです(最初はネパール料理でした)。
自宅周辺ではあまり食べに行きませんが、それなりに満足いたしました。

2011年9月21日水曜日

みをつくし料理帖から…江戸のグルメ文化 その2

「みをつくし料理帳」の第6冊目、『心星ひとつ』の第3話「時ならぬ花ーお手軽割籠」では、主人公澪の働いている「つる家」の町(元飯田町)でぼや騒ぎがあり、町年寄りから火の取り扱いを朝五つから四つまでに限るとお達しが出ました。
飲食業で午前8時から10時までで何が出来るか。
昼も夜も温かな料理を供せなくなるのです。寒い季節が始まり“熱さもご馳走”が不可能になってしまいます。まぁ、澪の知恵でお弁当を売り出して解決するのですが、それは小説をお読みください。
話はそれますが、「弁当を食べる」という方が結構多いですが、間違いでございます。本来は「弁当を使う」が正しい言葉です。

それはさておき、江戸は圧倒的に男社会です。とは言っても、これは男女の人口比の話で、男3に対して女1の割合です。お手伝いハルコでさえ、毎日ご飯作りは面倒です。そうなるとお惣菜を買ってきて簡単に……。
そうなんです。江戸は現在でいうところのファーストフードが盛んだったのです。
外食のレストランに該当する料理屋さんも、ヨーロッパより100年も早く(明暦3年=1657年)発達していたのですね。
武家階級であろうとも職人であろうとも、圧倒的に女性が少ないということは、世帯を持てない男性がうじゃうじゃいて、食べる所や食べ物屋さんを探していたのですね。
最初は寺社仏閣前で茶飯なんかを食べさせていたのが、段々高級化して料亭に発達するのです。

では庶民はというと、屋台振り売り(ファーストフードの原型)で買って食べていたのです。屋台は今でもラーメン屋さんやおでん屋さんなどがおなじみですね。
振り売りとは、簡単にいうと食べ物を担いで売り歩く行商人です。納豆、豆腐、しじみなどの他に寿司なんかも売っていました。その中でも「煮売り屋」と呼ばれるお惣菜屋さんが大繁盛していました。
米は自分の家で炊き、煮売り屋からお惣菜を買ってくる。現在の中食(なかしょく)の原型はすでに江戸時代に出来ていたのです。
煮売り屋ではどんなものが売られていたのでしょうか?
まず「菜屋(ざいや)」では焼豆腐、スルメ、コンニャク、アワビ、レンコンなどを醤油で煮染め、大皿に盛って並べて売っていました。
さらに、「刺身屋」というのがあって、当時は下魚として高級店では出さないマグロの大トロや鰹、鰯を売っておりました。
時代が下がると煮売り屋もどんどん増えて、内容もバラエティに富み、旨いものが安く売られるようになりました。何だか今と変りのない時代ですね。
その辺が書かれている本は沢山出ています。今日は手元の2冊をご紹介します。


『巨大都市江戸が和食をつくった』渡辺善次郎(農文協)と
『再現江戸総菜事典』川口はるみ(東京堂出版)

●池の端 薮蕎麦
場所は湯島ですが、ほぼ上野広小路の方が場所としては感じかなぁ。上野で展覧会を観た後は“薮蕎麦”“伊豆栄”によく行きますね。
鴨焼を食べて、ハルコもオクサマも一番好きなのは“天ぬき”です。
天ぷら蕎麦から蕎麦を抜いたもので、これを“あて”にぬる燗で一杯。別名天ぷらの吸い物で”天吸い”とも言います。ズル~~。グビ。

オクサマ作、朝のオープンサンド(オクサマ得意技です)に、津田沼の叔父さんからいただいた船橋梨と、家庭画報のFさんより甲州葡萄の到来もの。ありがとうございます。

2011年9月20日火曜日

みをつくし料理帖から…江戸のグルメ文化 その1

時代小説の大ファンのハルコでございます。
その中でも特に料理に関しての小説を幾つか取り上げたいと思います。

 第1弾は高田 郁さんの『みをつくし料理帖』です。
現在ハルコ文庫、いや、ハルキ文庫で6冊目が出ています。作者のあとがきによると年2冊の刊行がやっとのこと。
何でも、小説に出てくる料理は全てご自身でレシピを書いて調理するというくらい徹底してます。凄いことですね。当然小説の中の料理は、ストーリーと絡んできます。
ひとつの問題が生じ、それを主人公(澪/みお)のひらめきや、まわりにいる人々のアドバイスで解決していく様は、まるで方程式を解くような快感がありますね。
高田郁の他の作品でも『銀二貫』は、食材としての寒天開発を表面から描いている感動的な小説ですが、これもお薦めの本です。

話は戻して『みをつくし料理帖』です。話の内容は読んでのお楽しみなので、ストーリなどは書きません。
江戸時代、武家階級から商人を中心とした階級が、経済的に力を持ってくるという背景があります。
お話の中で「料理番付」で料理店のランキングが出てきます。そこでは“通”という言葉が時代を反映しているのでした。

現在でも“通”という言葉は、よく“通だね”などのように使われますが、明和6年(1769年徳川家治の時代)頃に使われるようになった流行語なのです。
世態人情、色事の機微に通じていることを指し、反対の状態は“野暮(やぼ)で、判ったふりをするのが“半可通(はんかつう、ハルコもよく言われます)そして、“通の中の通”のことを“大通(だいつう)と言います。
その大通札差(ふださし)が中心になり“十八大通”というのが生まれ江戸文化を爛熟させるのです。
札差というのは蔵前を中心にした商人達です。江戸時代は武家階級の基本の俸給は米ですが、これを現金化してくれる商売のことですね。
札差の「札」というのは米の支給手形のことで、米が支給される時に竹串に挟んで御蔵役所の藁束に差して順番を待った所から、札差と呼ばれるようになったそうです。
その札差は、米の販売・運搬の他に高利貸し(俸給の前借り)もして、大変裕福な層(集団)になりました。
時代劇では当然悪役で登場する回数は多いのですが、この層が江戸の経済活性と文化の発展に寄与したのは事実ですね。

金が余れば当然旨いものを食べたくなる、そうすると、富裕層を対象にした店舗も増える。そして、どの店が旨いかという情報を元に、ランキングされグルメマーケットが形成される。江戸時代には現在のグルメ文化の原型が誕生していたんですね。
(つづく)

●「皇帝の愛したガラス」展

東京庭園美術館「皇帝の愛したガラス」展を観に行きました。
ハルコは以前、この近所に住んでおりました。良い場所です。暑くなければ隣の白金自然教育園もお薦めです。夏になると教育園からカブトムシがよく飛んできました。

帰りは久しぶりに麻布十番の「登龍」で叉焼麺と餃子。登龍の青唐辛子の醤油付けは旨いです。そろそろわが家でも青唐辛子醤油漬けを仕込まねば!


2011年9月19日月曜日

物語の中の究極の晩餐…その4 バベットの晩餐会

美味しそうな料理の出てくる映画を観ていて、その後に何を食べに行こうかと考えている時は幸福な時間です。が、美味しそうな料理が沢山出てくるのに食欲が減退する映画もありますね。

例えば1974年に封切られた『最後の晩餐』という映画があります。今回改めて当時のパンフレットを見て気が付いたのですが、『最後の晩餐』の原題名は「La Grande Boffe」なのでした、簡単に訳すと“暴食”確かに、4人の男が人生の終焉を企てて、大食いをしてセックスにふけり、暴食の果てに死んでいく。
大量に食べて大量に排泄し、ついにトイレが大破壊して、糞尿が上の階から階下へ大量に降り注ぐシーンは圧巻でした。確かに凄い料理も出て来ますが、それ以上にスカトロジーな印象が強く食欲は減退しますね…。キリスト教の7つの大罪の中の“暴食”“色欲”をコテンコテンに敵視してますね。
それに、“Boff”には暴食や大量消費の他に、オペラ・ブッファの喜劇的な道化役、という二重のメタファーもあるのです。
監督はマルコ・フェレーリで、マルチェロ・マストロヤンニミシェル・ピッコリフィリップ・ノワレが出ておりました。

では、観ているだけで食欲が沸いてくる傑作と言えば、やはり『バベットの晩餐会』ではないかとハルコは思っております(今回は映画に片寄ってますが、小説や絵画など物語の中の究極の晩餐も取り上げたいですね)。
確かこの映画が封切れた時には都内の幾つかのフランス料理店で同名の晩餐コースがあったと記憶してます。

パリの有名なレストランの女料理長バベットが、フランス革命の混乱から身を寄せたのはデンマークの寂れた村で、彼女は老姉妹の家政婦になりました(おぉ、お手伝いハルコのお友達!)。
バベットが宝くじ1万フラン当てて、牧師の誕生会に12人の客を呼んで、考えられる最高の食材を手配して晩餐会を開くのでした。
ちなみにメニューは、海亀のスープ、ロシア産キャビアのドゥミドフ風(Domididofはロシア貴族の名前で、映画ではブリニスとサワークリームとキャビアの組合せをドゥミドフ風と呼んでいますが、本来は鶏をローストしてアーティチョークやトリュフを添えて濃厚なマディラ酒のソースで食べるはず)、次に鶉のフォアグラ詰めパイケーキ入りソースペリグディーヌ、季節のサラダでチーズ、ババのラム酒風味、新鮮な果物、シャンパンはヴーヴ・クリコ、クロ・ヴージョのワインにハイン・コニャック……。
書いているハルコは味を想像しただけで涎が出てきました(ズル~)。
決局宝くじの1万フランは一番の料理に消えて行くのですが、芸術家である料理人のバベットは満足するのです。

最初の映画『最後の晩餐』は享楽的なカソリックをある意味で否定するスタンス、『バベットの晩餐会』はカソリックからプロテスタントの禁欲的な地方に来た美食の天使。
どちらにしても、キリストの最後の晩餐が根っこにあるのですね。
西洋料理を理解するためには、やはり神との関係(日本やアジアや他の地域でも同様ですが)を深く理解することが大切ですね。
うむ、バベツトの晩餐会を観た後、何を食べに行ったのか思い出せませんね。
まぁいいか。今夜も“暴食の罪”を犯しに出かけよう!

●今晩もブラッスリー・クール
バベットで刺激されました。
やはり、イチボのステーキ赤ワインソース)(写真2段目左)でしょう。それに、ムール貝(写真2段目右。正しい食べ方は最初のムール貝を食べた後の貝をピンセットのようにしてムール貝の中をつまんで食べる→ハルコが挟まれた!)。そして、フォアグラ
いつもご迷惑かけてすみません。