『ロッパ昭和日記』は膨大な日記です。
古川ロッパは昭和期の日本を代表する大コメディアンですが、それ以上に1日も休むことなく日記を書きつづけた類い稀な日記作家でもあるのです。
古川ロッパの『ロッパ昭和日記』の中で、最後に紹介したいのは“戦中編”です。この時代は、また別な機会に紹介したい徳川夢声や内田百閒の日記や随筆を、合わせて読むと面白いのです。
それでは、戦中篇のなかからいくつか抜粋してみます。
昭和16年12月8日(月曜日/大東亜戦争の始まった日ですね。)
「日米開戦 米英両軍と戦闘 宣戦布告」から始まっています。ロッパは大分高揚して、撮影所の砧へ行きますが、撮影は中止。帰りに銀杏などを買って自宅へ。
「家でアドミラルを抜き、僕はブラック・ホワイトを抜いて、色々食ふ。ラジオは叫び続けてゐる。我軍の勝利を盛んに告げる。十時頃皆帰り、床へもぐりこむ。」
かくして、ロッパの開戦の1日は終わったのでした。
昭和17年12月8日(火曜日)
ロッパは朝から書評を18枚書いています。この日は開戦1周年の“大奉載日の式”の日。撮影所には行きますが、「まことにすみませんが、今日は撮影所に割当の電力を使い果たしたので中止です」と連絡が入ります。その後、ロッパは友人の家で「昨日、肉が入ったからと誘われてゐるので。~肉とウィスキーのご馳走。」まだ物資はあるようですね。
昭和18年12月8日(水曜日)
前日の日記では、牛肉のすき焼きと素麺とすしのご馳走で、ガブリ、ガブリと醜態に近いくらい酔って朝から宿酔気分。東映のボーナス日で、午後3カット撮影で中止。ロッパは勝ち祝い(開戦3年)で皆に奢るとと言って品川のキン坊(レストラン)へ繰り出します。「コンソメを一気に吸ふ。ハンバーグステーキにライスカレー。7年持参(ウイスキー)、」その後徴用令の話題になり、「こんな大飯喰ひは、工場で一ぺんにことわらるだらうと、笑った。」まだ、大丈夫の様ですね。
昭和19年12月8日(金曜日)
ロッパは2日から須賀川町(現福島県須賀川市)へ斎藤寅次郎監督の映画のために来ていた。東京では頻繁に空襲警報が出ているが、当地は心配なく撮影の合間に『我が輩は猫である』を読んでいる。「精進揚げや大根の油煮などが出て、~大いに飲む。そこで又、白米の飯を食って、何と田舎は住みいいではないか」と。
開戦した同日を時系列に並べてみましたが、ロッパは一般庶民に比べて食生活は恵まれていますね。
知人友人色々な人脈を駆使して食料を調達しようと涙ぐましい努力をしているのは大食いしん坊ロッパ先生んの面目躍如。昭和19年4月3日(月曜日)より、「~演舞場へは、毎日家から弁当持参。白米の日は、実にたのしみ。今日は白米なので、つい早く食ってしまって、又腹が減る。」
食事のことで一喜一憂するロッパの日記は個人の私的な日記を超えた歴史的な価値があります。
現在多くの人が日々の食の記録を電子上に残しています。これが、未来の人類が見た時に過去の時代はいかに豊かな食生活に恵まれていたか、それとも、愚かな食生活をしていたのか。と、考えて見るのも楽しいと思いませんか。
『ロッパ昭和日記』は監修の滝大作さんの労作でもあります。この本は日本の食の遺産だとハルコは思っております。
●日々是ハルコ的食生活
ハルコは普段、平日は仕事の関係やらで、外食が多いでのです。30代の頃は年平均外食日数は320日以上でした。ほぼ毎日外食ですね。多大な金額を外食に投じていたのですが、今思えばそれがバブル!?お手伝いハルコを名乗るようになり、家での食事が多くなりました。段々と外で食べるよりも、家で食べる方が美味しいと思えるようになってきたのです。
それは、ハルコとして色々な料理人の取材を通して、料理する技術(まだダメですが)の向上?も有るのでは、と思っております。
家での基本は和食ですが、たまにプッタネスカや羊の香草焼なんかも食べるのです。
3つめの写真は、自宅マンションの1階にある榮太郎のきんつばと栗まんじゅうです(ここのきんつば以上に旨いのはない!と思っているハルコの大好物です)。