2014年2月28日金曜日

本日も撮影中!


本日は貝印で撮影の立会をしております。
ブログは短信でお送りします。
皆様よい週末をお過ごしくださいね。

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2014年2月27日木曜日

中仙道、本庄へ。


本当に今週は事務所に腰を落ち着けて仕事(ほぼ居眠り)しているのは昨日だけでした。
 今日は朝から雨模様ですが、今日は埼玉県の本庄市で打ち合わせがあります。
表参道の事務所から渋谷栄経由で新宿湘南ライン特別快速で1時間34分。往復を考えると1日仕事ですね。
これが江戸時代で、日本橋から本庄まで中仙道を徒歩で行こうと思ったら、1時間4里と計算して、全く休まず寝ないで丸2日かかる計算です。流石にそれは無理なので、1日8時間歩いて行こうとすると、大体5日の距離になります。
本庄は中仙道最大の宿場町だったのですね。

そう考えると、往復3時間なんてあっと言う間ですね。
こんな事を書くという事は、やはり遠いと思っているからでしょうか。
まぁ、往路本でも読んで行きますか。
と、今日のブログは短信でした。

2014年2月26日水曜日

忙中「寒」あり!

日曜日の午前中から伊勢丹キッチンステージの立会があり、その後に岩手県へ出張で火曜日の夜に帰ってきました。この3日間、さすがにくたびれてしました。


昨夜東京駅へ帰ってきたら結構暖かでしたが、岩手は寒かったですね。
夜は氷点下3~4℃でしたが、最初の1泊は実家の暖房を入れていない部屋で寝ていたので、あまりの寒さに夜中に眼が醒めてしまいました(一応暖房用のストーブもありますが)。
夜空は街の灯りが少ないせいか、綺麗に見えて感動しました。
元々地元の釜石は製鉄所があるため、24時間寝ない街と言われ、高炉から出る製鉄の“のろ”を海岸で埋め立てにしていた時期があり、ぼんやりと東の海の方は明るかったのを思い出しました。

釜石から盛岡へ移動して、途中「道の駅」に立ち寄ったのですが、さすがのハルコも初めて見る食材に遭遇しました。
寒干し大根は寒い地域ならではの食材で、完全に水分が抜けた保存食ですが、この大根の葉っぱのみを干して売っていたのです(写真)。

場所は盛岡から秋田方面の雫石という場所で、まだ寒く雪も残るため、その寒さを利用した食材が豊富です。
それで、大根の寒干しの葉の食べ方を聞いてみたら、「一度お湯で茹でてから、料理に使う」のだそうで、調理方法は和えたり、炒めたり、混ぜたり……。
それも細かく刻んで、小麦粉などで練って団子状にして食べるそうです。
素朴と言えば素朴ですが、現代ではどのくらいの方が買って食べるのでしょうか。

ハルコなら、これをどう開発して商品化出来るかと考えてしまったのですが、やはり本体の寒干し大根と葉をある程度刻んで、直ぐに食べられるように加工したいですね。
大根の葉っぱ好きのハルコとしては、赤唐辛子も加えて、「ふりかけ状」なんかも良いと思うのです。
名付けて「岩手雫石 寒干し大根と葉のご飯のお供」(うむ、イマイチか?)

今週は今日のみしか事務所におりません。木金もお外で仕事です。
忙中「閑(寒)」ありの水曜日でした。

2014年2月25日火曜日

クラブ・デ・トラントの時代(再録) 3


2回続けてクラブ・デ・トラントの諸単を書いてみましたが、当然これは当事者が記録(あるいは記憶)したものが前提です。
それに関しては、以前お二人の方から当時の活動状況をお聞きしたことがあります。
一人は北岡尚信さん(プティポアン)です。ハルコ取材の途中で会の話しを聞きながら、当時の生資料も見せていただきました。
もう一人は酒井一之さんです。ここからは、いささか話の筋(かなりクラブ・デ・トラントからはずれて個人的なお話になります)が変わります。
クラブ・デ・トラントの時代、と大げさなタイトルを付けてしまいましたが、ストーリーは3方向あります。

一つは当事者のクラブ・デ・トラントの会員中心のお話
二つ目はそれを取り巻いたフランス料理の動向のお話<
そして、三つ目はレストランの客としてのお話

この3つが折り重なって綴られることが、1970年後半(もっと遡ればそれ以前にシェフたちのヨーロッパでの修行時代、これがまた面白いのです)から、空前のグルメブームが起きる原動力となり、レストランや食が一般性を持ち、それにより料理人がスター化し、その姿を見て多くの若者たちが料理の世界を目指す…という現様が起きました。
美食文化はかつては一部の人々の世界でしたが、その底辺を押し広げ、食産業自体の発展にも少なからず貢献したと思います。
それは80年代をピークにした日本自体の高揚感、と言うと大げさかもしれませんが、あるのです。この30年で食に関して何が起きたのかを、未来のための検証すべきだとハルコは考えています。

ハルコが語るのは当然客としての立場です。その道筋を付けてくれたのが、前出の酒井一之さんなのです。もし、酒井さんと出会わなかったら、食への関心や、ましてやハルコの活動も無かったのでは…と思うのです。

時間を30年ほど巻き戻してみましょう。1980年の渋谷「ヴァンセーヌ」に移ります。
酒井一之さんが14年に渡りヨーロッパで修行を終えて(最後はホテル・メリディアン・パリのスーシェフ)帰国してヴァンセーヌのシェフになった直後に、初めてお店にお伺いしたのです。
それから相当通い続けました。酒井さんからは、フランスの地方料理のことから食材、ワイン、調理法、フランスのシェフたち、修行中のエピソード、旅、カルヴァドスの飲み方、そして食文化……たくさんの話を聞きました。ハルコにとって、“食のマスター”なのです。
酒井さんはまた、クラブ・デ・トラントの事務局を設立当時から、一貫して担当してきたのでした。是非酒井さんにはクラブ・デ・トラントの内情を知る立場から歴史的な記録を残していただきたいものです。


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2014年2月24日月曜日

クラブ・デ・トラントの時代(再録) 2

「フランス料理の探求」(クラブ・デ・トラント著/柴田書店)口絵より。

クラブ・デ・トラントが結成されたのは1980年のことです。
少しその前の東京を中心としたレストラン事情を見てみましょう。あまり遡るのも考えものですね。洋食屋さんは明治期からありますが、戦後からにしましょうか。

ホテルや会館系統には、進駐軍によって接収された(すみません古い話で)丸の内ホテルや帝国ホテルなどがあり、接収解除になるのは1952年以降です。
街場のレストランは、イタリアンの方が早く広まってますね(イタリアレストラン興亡物語もその内書きます)。本牧に「イタリアンガーデン」(1950年)、フレンチでは同年銀座「エスコフィエ」が開店しています。
やはり進駐軍相手のレストランとしてですね。1953年は「グリル満天星」、1955年イタリアン「シシリアン」フレンチでは日比谷に「南部亭」翌年は「ニコラス」が出来ています。
1957年には帝国ホテルでバイキングが始まり、1958年には六本木の「アントニオ」が開店。アントニオは戦時中イタリアから日本へ向った軍艦が、イタリアが連合軍に降伏したので、神戸で抑留されたアントニオさんが戦後マッカーサー元帥の料理人になり、その後レストランを作ったのです。
ハルコが昔勤めていた事務所の並び(西麻布から六本木)にあり、いつかアントニオで食事をする“身分”になりたいと思ってましたね。確かその並びには「西洋膳所ジョン・カナヤ」(1971年)もありました(ハルコ青春時代を思い出す)。
そして、60年安保の時に開店したのがその後の六本木カルチャーの発信地になった「キャンティ」がオープンします。

1970年代はホテルでは、帝国ホテルが「フォンテンブロー」、ホテルオークラが「ラ・ベル・エポック」を開業し、いよいよ日本のフランス料理の幅も奥行きも出始めました。
そして、1960年代から海外に修行に行っていた料理人が帰国して、各地のホテルなどで活躍をはじめたのです。
銀座「レカン」などを経て恵比寿に「ドゥ・ロアンヌ」を開業した井上旭、六本木「オー・シュヴァル・ブラン」の料理長に鎌田昭男、六本木「ロテュウス」石鍋裕「ラ・マーレ・ド・チャヤ」熊谷喜八「ビストロ・ラ・シテ」勝又登「アピシウス」高橋徳男銀座「レカン」城悦男「ヴァンセーヌ」酒井一之とキラ星のごとくスターシェフが出てきたのです。
この時期は石油ショックで日本は不況に見舞われていました。
ホテルから街場へのレストランが増えてきた理由の一つは今思えば不況で、店舗が比較的に安く出せる背景があったのでは、とハルコは考えます。

それは10数年経てバブルが崩壊した後に、ワインバーとイタリアンレストランが林立した状況と酷似しているのです。
話は戻して、いよいよ「クラブ・デ・トラント」の結成で、東京のフレンチは開花するのです。


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2014年2月21日金曜日

クラブ・デ・トラントの時代(再録) 1

短い2月ももう終盤ですね。明後日から岩手へ出張いたします。火曜日までブログを書けないので、過去アーカイブです。
この記事は2011年の10月の「ホテルから街場へ……クラブ・デ・トラントの時代」と題し、3回に分けて書いたものです。何故かこの「クラブ・デ・トラント」は今だに閲覧してくださる方が多く、ハルコブログでは閲覧数が第2位です。
日本のグルメブームの功労者の方々ですが、鬼籍に入られたり、引退されたりする中で、その歴史を引き継ぐ必要があります。


机の上に1981年発行の雑誌があります。
雑誌の誌名は『饗宴』で、これを発行した出版社も倒産してもうありません。
かつて、バブル期に空前のグルメブームがありましたが、この雑誌はその当時の先端を行ったものでした。書き手も、その後の日本の料理批評をリードする人材の宝庫でした。佐原秋生、山本益博、見田盛夫……その他豪華執筆陣です。

さて、その第4号・1981年秋号(季刊で五冊しか出ていない)の後半に、四谷の迎賓館を背景に12人のトックコートに身を包んだ30過ぎのオジサン(いゃ、失礼)…シェフの方々が腕を組んで映っています。
そこに書かれているのは、
「ホテルから街場のレストランへ、
最近のフランス料理の流れはしだいにこのようになりつつある。
本国でのヌーヴェル・キュイジーヌに呼応するかのように、
日本でもフランス料理を若返らせた街場の料理人たちがいる。
30歳以上のシェフ(たち)が集まったオーバー・サーティのメンバー16人。
かれらの目指すところは、たんなる同業の連帯だけではない。
高品質の魚、肉などの共同仕入れから、
ゆくゆくはフランスワインの買い付けまで広がる。
フランス料理の未来にとって、かれらに寄せる期待は限りない。」

「クラブ・デ・トラント(Club des Trente)と呼ばれるグループの始まりでした。
もう30年以上前の話でいまさら何だ、と思う方も多いかと思いますが(えぃ、年寄りの昔話しじゃ)、ハルコの敬愛するフランスの歴史家アラン・コルバン先生(Alain Corbin)のお言葉にこんなのがあります。
「歴史を知らない社会は知的に貧しい社会になりかねないことだ。少しも新しくないのに、たまたま目の前にある現象を新しいことだと勘違いする無邪気な心理が生まれてしまう。過去の体験や知識を正しく受け継いでいれば避けられるのに、それを知らないために社会全体が幼稚な錯覚にとらわれることになりかねない」(朝日新聞インタヴューより)

クラブ・デ・トラントは、海外(主にフランス)で修行した料理人たちが1970年代後半から帰国し始まりました。皆さん30代でしたが、30年の月日が経つと現役引退したり、会長の高橋徳男さん(2009年)も亡くなってしまい、ハルコは段々その当時の証言者がいなくなる危機感を抱いています。

クラブ・デ・トラントの存在は日本にフランス料理の定着を果たすとともに、全体の食文化を引き上げ、スターシェフを排出し、後に続く若手シェフたちの道標にもなったのです。ハルコはその黎明期からの歴史の検証を、“客”の立場から試みたいと思います。

季刊『饗宴』第4号(婦人生活社)1980年 9月30日発行
写真右から(カッコは当時のレストラン名)
吉野好宏(ジャンドマルス) 石神和人(ベル・フランス) 酒井一之(ヴァンセーヌ)
井上旭(ドゥ・ロアンヌ)  秋山茂夫(サンマルタン)  高橋徳男(ラ.マレ)
鎌田昭男(オー・シュアヴァル・ブラン) 青木亨(イゾルデ) 坂井宏行(ラ・ロッシェル)
熊谷喜八(ラ・マレー・ド・チャヤ) 城悦男(レカン) 寺島雄三(楠亭)
※写真にはいないメンバー/石鍋裕(ビストロ・ロテュース) 扇谷正太郎(エヴァンタイユ) 佐藤健二郎(シャトー・リヨン) 勝又登(ビストロ・ラ.シテ/オー・シザブル)

2014年2月20日木曜日

知る権利、知らせない権利。

今週中の雪は避けられるようでほっとしていますが、まだ雪の中で大変な思いをされている方も多いようですね。

昨日のニュースで大変気になったものがありました。
「秘密の隠れ家」を売りにしている大阪のバーが、グルメサイト「食べログ」に掲載された情報の削除を拒否されたとして、サイトを運営する「カカクコム」に対し、情報の削除と損害賠償を求める訴訟を起したというものです。
これは、今週ブログで書いた「フードポルノ」とも繋がる話です。


事の是非は裁判なのでどちらの立場に立つ訳ではありませんが、「カカクコム」は表現の自由を理由に削除を拒否しているのです。
投稿を前提としている食べログの立場としては、この判決が拡大されて他の事例に移る危険と存在自体の真価が問われるのだと思います。
逆に、店の立場としては「一般には知られたくない、教えたくない限定の店」といった、現在の顧客の求める「秘密の隠れ家」というにスタイルに対し、食べログへの掲載は「全然"秘密”ではなくなり、存在価値が失われてしまう」ために営業妨害となる、というものではないでしょうか。

世の中、予約が困難といえば何としてもその店へ行こうとする人々や、会員や特別顧客限定と聞けば、またそこへ行きたいと思う人達も沢山おります。
このような方々が沢山いるからこそ、外食産業への経済波及があるのですが、難しい問題ですね。

かつて「HANAKO」が全盛の頃、ある地域に限定して飲食店の特集を組み、雑誌が発行されてから瞬く間に情報を見た客が多数訪れ、常連客が入れない状態になりました。そして一過性のブームが過ぎた後には常連客も戻らない、という店が多く出現しました。
この時代「あぁ、HANAKOに紹介されたからこの店もお仕舞いだな」とささやかれ、その後絶対「HANAKO」の取材は拒否するという店も増えたのでした。

HANAKOの場合は雑誌を専門とするプロが取材するわけですが、件の大阪のバーに関しては、問題はその店の客が情報を投稿したという点にあります。
今や、日々情報がネットで飛び交う時代ですが、何でもいいというのではなく、節度が必要です。
一応ハルコも食関係の仕事をしていますが、個人的には公に教えたくない、誰にも邪魔されたくない店もあります。
ですから、この裁判の行方は大変気になるのです。