2015年8月13日木曜日

ハルコ、京都でイタリアン



この所ブログをさぼっており、一部の方からハルコは大丈夫か?と、
問い合わせがありました。
元気でやっております,ご安心を!

先日、京都で撮影のために5日ほど滞在して、仕事のはねた後は京都の旨いもん屋さんを訪ねておりました。

一時期は、京都で食べるなら「京料理」と決めて連日名だたる料理屋さんへ出かけてましたが、最近はジャンルの違う店の行くようになりました。
やはり、京都は楽しいですね。(出来るなら東京と京都を半分ずつ住みたいくらい)

その中で、京都の最強グルメ案内人の関谷江里さんに誘われて、イタリンレストランへ出かけたのです。

何でも、今の京都はイタリアンの店が多く出来て、和食・日本料理店よりも多いそうです。



レストランの名前は「Cenci(チェンチ)」でオーナシェフは、イル・ギョットーネ京都店で
15年間腕を振るっていた坂本健さん。

ハルコが普段好きなイタリアンは、質実剛健な料理ですが、チェンチ」は食べ進んで行くうちに、あれ、和食を食べてんの?と思う様な料理の連続でした。

鮎の春巻き、とうもろこしのソース、鮎の骨せんべい、トロフィエ、
じゃがいも、あわびソース、黒トリュフ
賀茂茄子とうに、伏見とうがらし。ケッパーの素揚げ、仔羊のステーキ夏野菜添え、
新生姜、あさり、うに、山椒のパスタ
特に、賀茂茄子とうに、伏見とうがらし。ケッパーの素揚げは、仕上げに卓上で「中勢以」の熟成肉と、岩手の「石黒農場」のほろほろ鳥で作ったコンソメをかけたもので、プレゼンテーションも楽しく美味しい。


東京の料理は、エッジがはっきりしていて、ある意味で明確に判りやすと思うのですが、京都の料理は和洋に限らずに、境界線が曖昧で、良くいうと融和、別ないいかたをすると、食材も調理法も既存のかたちにこだわらず、どん欲な
味の追求をしている。東京のストレートなロジック性を一段違う視点で外すという高度なテクニックがありますね。

それにしても、京都人は本当に洋物好きだと今回は確信しました。
また、京都に行こう!

2015年7月22日水曜日

江戸前とうなぎ




梅雨が明けたら思い切り猛暑です。

1ヶ月ほど前に冷たいものを食べ過ぎてお腹を壊したハルコとしては、暑いと言っても冷たいものはほどほどにしてます。
暑い時の食べ物というとやはり、「うなぎ」でしょう。
今年の土用の丑の日は、724日と8月5日ですが、うなぎの稚魚が少なくなりうなぎも高騰し、中々口に入らなくなりましたね。

よく江戸前という言葉を耳にしますが、久しぶりのブログは「江戸前とうなぎ」で一席。

どのすしの歴史の本にも「輿兵衛ずし」が江戸前の元祖だと書かれています。江戸に上方から「こけら鮓、サバ鮓、箱鮓」が入ってきたのは五代将軍綱吉の時代です。それから約130年後、1810(文化8)に花屋(華屋)輿兵衛が握りずしを考案したといいます。
それ以前にも握りずしはあったらしいのですが、現在に繋がるルーツで成功したのが 花屋輿兵衛です。それが馴れずしや押しずしに代表される上方ずしが、早ずし(江戸前)にあっという間に取って変わったのでした。

江戸前とはいったい何なのでしょうか? 
ひと握りのすし飯の上に、タネをのせて握るすしが江戸前の定義なのは当たり前ですが、何故それを江戸前と呼ぶかというのは諸説多々あります。
一般的に流布されてきた説は、東京湾で獲れる魚介類を指しているようで、昔食べにいったすし屋のおやじさんに「ウチは江戸前だから○○は使わねぇんだ!」と言われたことがあります。その当時はそう思っていましたが、実はその江戸前という呼び名を最初に使ったのはうなぎ屋なのです。

家康が江戸に入った当時、日比谷は入江で現在の丸の内界隈は浅瀬でした。そのあたりを埋め立てる大規模な干拓工事をしていた頃、日本橋のあたりは島になっていて、古名が「江戸前島」。周辺の沼地でとれたうなぎをぶつ切りにして縦に串を刺し、焼いて味噌をつけ、干拓人夫に売っていたのです。その形が蒲の穂に似ているところから蒲焼きという呼称になったのです。
江戸前島でとれたうなぎをうなぎ屋により江戸前と呼んでいたのがいつの間にか日本全国ですし屋の代名詞のようになってしまったのでした。

今やどこでもすし屋さんは江戸前が中心です。江戸前握りずしが発明されてまもなく200年。江戸前ずしは世界中に「SUSHI」として日本を代表する食としてグローバルな料理となり、さらに拡大しましたが、これから先はどうなるのでしょうか?
江戸前ではなく、巴里前とか、倫敦前、伯林前、桑港前なんて言うわけないですよね。

ハルコが顧問している大阪の松前屋でも大変美味しいうなぎを作ってます。
よろしかったら「ぐるなびippin]ご覧ください。

2015年6月24日水曜日

半世紀の勘違い





土曜日から体調を崩し(お腹方面)でなんちゃって「不食」ですが、
事務所では1日中ハーブティーを飲んでおりました。

先日、友人宅で食事に招かれて、食後のお茶で、
「ジェイソン ウィンターズ ティー」が美味しかったので、
オクサマが通販サイトから取寄せたものです。
奇跡のハーブティーと呼ばれているらしいのですが、体調不良のハルコは
このお茶はことのほか身体に効いたようで、大分楽になりました。
と、今飲んでますが。

さて、日曜日にお酒も飲まず、何も食べずにテレビをボーッとザッピングしていたら、
美空ひばりの特番があり、思わず全部観てしまいました。
歌だけなら観ませんが、戦後70年の歴史がらみだったので面白い番組でした。

1964年の大ヒット曲に「柔」がありますが、ハルコは50年この歌詞を
間違えて覚えていたのに気がついたのです。
元歌詞は、関沢新一(歌詞 ) 古賀政男(曲)で

勝つと思うな思えば負けよ
負けてもともとこの胸の
奥に生きてる柔の夢が
一生一度を一生一度を
待っている

ですが、
「奥に生きてる柔の夢が」
の部分を
「お国に生きてる~」だと勘違いしていたのした。
東京オリンピックで国威発揚で、国のために尽くす
スポーツ選手の歌だと思っていたんですね。
この分じゃ、他にも勘違いして覚えているのが沢山ありそうだ。

2015年6月19日金曜日

名人の湯加減

先日歌舞伎座で「新薄雪物語(しんうすゆきものがたり)」を観劇したのですが、その中の「正宗内」の上演はかなり珍しく20数年ぶりのことだそうです。
あらすじを書くと長くなるので、端折りますが、刀鍛冶正宗が出てくる話で、本来は一子相伝の秘術を息子の団九郎ではなく、来国行の息子の国俊に伝える段の場面。

風呂場で正宗が、国俊野の手を取り湯に中に入れて、秘伝を授けるのですが、これは、刀鍛冶の焼き入れの際の一番ベストな温度なのです。
それを、正宗の息子の団九郎が湯に手を入れた瞬間に正宗が腕を切り落としすという凄惨なシーンでした。


あまり、刀鍛冶に詳しくない方のために説明すると、刀を鍛える時に地金を真っ赤に焼き、ちょうど良いタイミングで水の中に入れるのですが、季節や気温で相当違うのでそうです。
暖かい季節に冷たい水に入れたり、寒のうちに天然の水に入れたりすると刀はヒビだらけになってしまうのです。
そこで、ほんの少し温めて、ぬるま湯にしておくそうで、温か過ぎると焼きが甘くなるのです。
この話は天皇の料理番、秋山徳蔵の『味と舌』の中の「道具と器・包丁」の項ににも出てました。
やはり、この時代の人はこうゆう話は知っているのですね。
秋山徳蔵のエッセイでは、腕は切り落とされても、盗みとった水加減の感覚は残っているので、その後片腕でも立派な刀鍛冶になるというお話でした。
江戸から明治にかけて廃刀令が出て、刀鍛冶が包丁鍛冶に転身した時に、関東では世田谷辺りに集まったそうです。
その名残の「世田谷ぼろ市」には昔、良い包丁が沢山出ていたそうです。
これは知人の古物商、魚柄仁之助さんに聞いた話でした。

2015年6月9日火曜日

ジャパニーズ・サケ


関東も梅雨に入り少し肌寒いですね。
この3日間晩ご飯は、鮨、おでん、和食と外食だったのですが、普段はビールから入るハルコですが、全部日本酒で通しました。
昨晩は銀座の「久保田」さんへオープニングレセプション以来の再訪でした。
総料理長の野村さんのお薦めで、酒のみの入れた鍋を作っていただきました。
「酒には五味の中で”塩味”が無いだけで塩味を加えると五味が完成する」
つまり、昆布や鰹節でだしを引かずに、何と贅沢なことに、純米酒をたっぷり使った鍋をいただきました。(写真)

今朝、朝刊を読んでいると「日本酒 純国産に限る」という記事が目に入りました。
以下はその引用です。

ーこれまで、日本酒のはっきりした定義はなかった。国税庁長官は年内にも、「日本酒」について、地名を商品名に使う知的財産権である「地理的表示」に指定。日本酒や英語の「ジャパニーズ・サケ」を名乗れる清酒を、国産米や国内の水を使って国内でつくられた清酒に限る方針だ。
 日本など世界貿易機関(WTO)の加盟国は、地理的表示に指定した商品を保護し、その地名を産地以外の商品に使わないよう取り決めている。英スコットランドの「スコッチ・ウイスキー」、仏シャンパーニュ地方の「シャンパン」が代表例だ。 純国産でなければ「日本酒」とは呼ばせません――。政府のクールジャパン戦略の一環で、財務省がそんな方針を年内にも決める。今後増えるとみられる外国産の清酒と差別化し、日本食ブームに乗って本家本元の日本酒を、世界で味わってもらうのが狙いだ。


以前は、日本酒は国内だけで飲まれるもので、海外の方にはあまり好まれていないという印象でしたが、時代も変われば変わるののですね。
地方での地域活性化では、結構地元の造り酒屋さんがキーになっていることが多いです。
単にアルコールの飲み物としてではなく、日本の伝統的な文化とも日本酒は関わっています。
良い流れだと思うのです。

2015年5月21日木曜日

代々木上原→幡ヶ谷


今朝方は雷鳴と稲妻で眼が醒めました。
まだ、薄暗いはずなのに厚いカーテン越しに稲妻が激しく光ったのでびっくりしました。

しかし、眠いのので稲妻と雷鳴の間隔を数えながら
どこに落ちていたのかと、考えているうちに二度寝してしまいました。
(※音は1秒間に340mなので、数を数えて掛ければ距離がでます)

そんな一日の始まりですが、昨日で定期が切れていたのですが、
今日から通勤路線を変更することにしました。



今まで自宅のある西巣鴨から都営三田線で日比谷で千代田線に乗り換えて
代々木上原でしたが、今度は都営三田線で神保町で、
都営新宿線(途中で京王線)で幡ヶ谷駅に変更することにしました。

確かに代々木上原駅から徒歩3分と近いのですが、
なにせ、急な坂がね。
幡ヶ谷駅からだと、徒歩7分くらいですが、平坦な道のりなのです。
さらに、幡ヶ谷から新宿3丁目まで6分ほどで、伊勢丹へも
貝印(岩本町)にも1本で行けるので便利なのです。

事務所移転してまもなく3ヶ月になりやっと廻りの環境にも慣れてきました。

代々木上原でも幡ヶ谷からでも近いです。
みなさん、お待ちしてます。
(※写真は事務所のあるマンションの外観です。)

2015年5月8日金曜日

鉄の町の子




連休後半のニュースで、明治日本の産業革命遺産に多くの
製鉄、炭坑、造船などがユネスコへ登録されるようですね。
その中で岩手県の釜石市にある橋野高炉跡も入ったのはご存知だと思います。
昨年から何度か釜石へ幾つ度に、町には「橋野高炉跡を世界遺産に!」
と看板やポスターが張られてました。
内心大丈夫かなぁと、心配していましたが、うれしい限りです。

橋野高炉跡は、幕末に欧米のような鉄製の大砲を作ろうと、佐賀藩を先駆けとして日本各地に反射炉が作られていたのです。
しかし、日本古来からの「たたら製鉄」法により砂鉄を原料として作られた大砲では、性能の優れた欧米の大砲には太刀打ちできなかったのです。

話すと長くなるので端折りますが、盛岡藩士の大島高任(おおしまたかとう)は、大砲の素材には良質な鉄鉱石を原料とした銑鉄が必要と考え、盛岡藩大槌通甲子村大橋(現岩手県釜石市甲子町大橋)に洋式高炉を建設し、安政4年12月1日(1858年1月15日)、日本初の連続出銑に成功したのです。

釜石地域では明治初期までに7か所13基の高炉が建設されましたが、橋野は当時国内最大の鉄鉱山だったのです。
 1957(昭和32)年6月3日には、我が国に現存する最古の洋式高炉跡として、国史跡に指定されています。
今回は産業の世界遺産に認定されれば、東日本大震災の復興の一助になると期待してます。

小学校の遠足の場所が「橋野高炉跡」だったことがあります。
まぁ、子ども自分なので、草がボウボウで、何やら石積みの跡を見せられて何が面白いのかはその頃は理解できませんでしたね。

鉄の町の子として生まれ育ち、親や親戚や友達の親達も製鉄所の仕事をしている地域だったので、鉄は幼い頃から身の回りにありました。
いまだに、調理道具で包丁などの鉄製品にも関わってますが、地元の金属加工の支援もしたいと考えてます。

やはりハルコは「鉄の町の子」ですね。