2011年10月8日土曜日

カテリーナ・ディ・メディチの食卓…2

「カテリーナ・ディ・メディチの食卓」の食卓メニューは、AGIO料理長富士大さんが文字の資料のみから再現したものです。その当時の調理法だけで再現したのですが食材は当然現在とは違うので、かなり試作を繰り返したそうです。

・ANTIPASTI MISTI
これは一皿に三種類の前菜を盛り合わせたものです。
カテリーナのサラダ(Insalata di Caterina)/トリュフのクロスティーニ(Crostini di Tartufi)/鶏レバーとアンチョビのクロスティーニ(Crostini con Fegatini e Acciughe)

・PRIMI PLATTI
タマネギのスープ(Zuppa di Cipolle)
これはフランスへ入って“soupe d'oignons"オニオン・グラティネに変化したものですね。フランス料理との違いは中に小さく切ったジャガイモが入っていることでしょか。

おばあさんのハンカチとサルサ・コッラ(Le Pezzole della Nonna e la Salsa Colla)
おばあさんのハンカチ(ペッツォレ)は卵、小麦粉、牛乳をかき混ぜて作ったフリッタッティーナものです。それに、サルサ・コッラはフランスで進化を遂げて、作り方をオリーブオイルからバターに変えて出来たのが、“ベシャメルソース”です。ハルコとしてはこの料理が一番面白かったですね。
なかなか料理の源流原型に出会える機会は少ないですね。いや、よかった!

・SECOND PIATTO
鴨のロースト オレンジ風味(Anitra all' Arancio)
パリのトゥール・ダルジャンは、フランスのレストランで最初にフォークを用いた所ですが、鴨料理が一番有名ですね。その源流の料理ですが、当時のオレンジは酸っぱいだけったそうです。フォアグラを少し加えて、味を調整したオレンジのソースでした。
あぁ、甘くてよかった。

・DOLCE
お米のトルタ・ビアンカ(Torta Bianca di Riso)
イタリアはお米を使ったドルチェが沢山あります。無花果のコンポートとジェラートが添えられてます。

会場は音楽の生演奏付で、優雅な食事会でした。古典的な料理を食べる機会はそうそうないので、非常に勉強になりました。また、文流の西村暢夫さんの洒脱な(脱線気味の)解説もチャーミングで楽しい一夜でございました。

週末から暫し新潟G市のセカンドハウスで過ごすので、ちょっとブログはお休みです。
また、新鮮なネタををお届けいたします。

2011年10月7日金曜日

カテリーナ・ディ・メディチの食卓…1

ヨーロッパの料理はよく樹に例えられます。
幹はフランス料理、そして枝葉は各国料理だと。
では、根っこはなんでしょうか? その答えは…イタリア料理なのです。
フランス料理は、中国料理・トルコ料理と合わせて世界三大料理の地位を占めていますが、実はイタリア料理を源流にしているのですね。

そんな源流を探るイベントに行ってきました。新宿伊勢丹で、トスカーナをテーマにしたイタリア展が開催され、その一貫で伊勢丹内の三笠会館の「Market Restaurant AGIO」で貸し切りの一夜限りのディナーが開催されました。
これを2回に渡って書いてみます。
このディナーは、日本のイタリア食文化を長年に渡って築き上げてきた、株式会社文流の会長西村暢夫さんの解説付きです。西村さんは1988年イタリア・シエナに日本人のためのイタリア料理学校を設立し、日本とイタリアの文化交流に半世紀に渡る活動をされた方です。
イベントディナーのタイトルは「カテリーナ・ディ・メディチの食卓」で、その当時のレシピを最大限に再現するという面白い趣向です。

イタリアはルネサンス全盛を迎えて、芸術などの文化では世界最高の時代ですが、その当時のフランスはイタリアに比べて文化的に劣っていました。
1535年にフィレンツェから、後のアンリ2世に嫁いで来たカテリーナ・ディ・メディチが、その後のフランス料理に大きな影響を及ぼしたのです。
彼女が連れて来た多数の従者には料理人が同行していたのですが、さらにカテリーナに従ったイタリアの財政家も、お抱え料理人を連れてきたのです。これらが、フランスの宮廷にイタリア料理の流行を生んで行くのです。料理の他の食器やフォークも同時にフランスに入って来たのです。

ワインは、プロセッコから始まり、サンジミアーノの白ワイン、キャンティ・クラッシコの赤が2種類で、お水はメディチ家と縁の深い“アクアパンナ”です。
(メニューは明日のお楽しみ)

2011年10月6日木曜日

はてなのとっくり

え~~、寒くなりました。熱燗の美味しい季節ですね。
この所、千駄木は「乃池」へ出没しているハルコでございます。名物穴子鮨に舌鼓を打っておりました。
ハルコは“黒龍”を大きいので頂きます。まぁ、二合といった所でしょうか。黒龍というお酒はコクもあり切れも良いので、お鮨にはようございますね。一本では飲み足りないのですが、大きいのは飲み過ぎで、もう一本は小さい方の徳利でいただくというわけでございます。
二本目の徳利で杯を一杯にして、クゥ~たまりませんせんね~。
えっ、お金? ほっといてください。
と、二杯目を入れたら何だか中身が少ない、えへ。酔っちまいましたかね。
なんて思って、三杯目を入れようとしたら、もうお酒が無くなっていました。
ありゃ、と底を見たら、穴も無いのにお酒がポタポタとこぼれているではありませんか。

ハルコ、思わず「こりゃ、はてなのとっくりや」

ご存知でしょうか。落語には「はてなの茶わん」という演題ががあります。
京都の綾小路に茶屋金兵衛という骨董屋さんがおりまして、非常な目利きです。金兵衛さんが骨董品を見て、「はてな」とつぶやくだけで値があっという間に百両にもなる、という実力の持ち主です。
金兵衛さんは清水の観音様を信仰して毎日お参りに来て、音羽の滝の前の茶屋でいつもお茶を飲んでおります。
その時に出された茶碗を見て「はてな」「はてな」「はてな」……と続けざまに言っておりました。
それを見ていたのが、隣に座っていた油屋さん。
金兵衛さんが帰った後に、茶店の主人に強引になけなしの全財産二両で買い取り、それを金兵衛さんへ持ち込み高値で売ろうとしました。
ところが、どこにでもある二束三文の清水焼だと。
油屋さんは「はてな」と言ったので五百や千両になるのでは……。
金兵衛さん曰く「底に傷もないのにポタポタと溢れるので、はてな」と言っただけと。
二両にもう一両を足して買い取りと言ったが、油屋さんは強欲を出した自分が悪いとすごすごと帰りました。
暫くして、金兵衛さんご贔屓の関白鷹司公のお屋敷に。関白「最近なにか面白い話はないか」とお尋ねになり、実は先日…と「はてなの茶わん」の話を。
関白が見たいと言うので茶わんを取り寄せた所、「不思議な茶わん」だと、短冊にみごとな和歌をしたためてくれました。
これが、公家さんのあいだで大評判に。帝まで茶わんの箱書きに「はてな」と書いてくださりました。
もう大変な騒ぎでございます。この話が大阪の豪商鴻池善右衛門さんが聞いて、是非欲しいと。
しかし、「御筆(帝が書かれてたので)が入っているので売れないと」では鴻池さん千両で預けてと交渉成立しました。
金兵衛さん、油屋さんを捜して半分の五百両を渡したのです。
まぁ、落ちは有りますがご興味有る方は調べるか、落語を聴いてくださいね。
残念ながらハルコが「はてな」と言っても値は付きません。「すみませんね」と新しい徳利に替えられただけでした。
お後がよろしいようで。

●落語とお酒
乃池は近所の普門山全生庵で、毎夏三遊亭円朝の“円朝忌”があり、お客さんの中にも噺家の師匠などのお見えになります。まぁ、そればかりではないでしょうが、常連のお客さんも落語通の方々が多いようですね。
ハルコが「はてなのとっくりや」と声を上げた時にあちこちで笑いが起きました。
いや、さすがみなさま元の「はてなの茶わん」ご存知です。良い店ですね。
ところで、ハルコも落語は大好きでございます。落語をネタにいくつか企画を立てたことがあります。
以前「宝酒造」の酒に合うレシピの仕事をしていた時に、どうせなら酒の出てくる落語を紹介しようと考えました。季節にあう落語を探し短い原稿にするのは苦労しました。「長屋の花見」「試し酒」「青菜」「親子酒」などですが、評判は良かったようです。

2011年10月5日水曜日

下手は上手の鏡

クラブ・デ・トラントはまだまだ続きますが、ちょっとお休みです。

気が付くと8月8日から始めたブログも今日で51回目です。
この所(かなり真面目な)固い内容が続いていたので箸休めを。
うむ、”箸休め”と書いて、今度は箸休めが気になります。


箸休め「食事の途中で口をさっぱりさせたり、味に変化をつけるための簡単な料理。(調理用語辞典)」
また、”箸洗”「吸物、または一口(ひとくち)という。懐石料理で一汁三菜のあと、強肴(しいさかな)のあとに出す吸物で、次に出る八寸に備え、きわめて淡白な澄まし汁。(味覚辞典)」
“口なおし”、“味変り(替わり)”色々ありますね。

それはハルコが大阪に出張した時に、宿泊したホテルで一人寂しくカウンターで天ぷらを食べていた時のことでした。途中で「お口直しのソルベです」と出て来たのが、とんでもない“濃厚なミント味”のソルベでした。お口直しどころか、口が曲がってしまいいましたがなぁ。
あぁ、まいった! それまでの、まぁまぁの天ぷらの味がすべて台無し!
少し口を付けただけで、その後の天ぷらがどんな味になるのか。ハルコ珍しく怒りました(今この味を思い出すとフランスのミッシェル・ブラスのレストランで食べた歯磨き味のデセールに似ていたな)。

美味しいものの記憶は非常に曖昧なもので、段々その味を忘れてしまいますが、なぜか不味いものは何時までも覚えているもんです。
表題の「下手は上手の鏡」は、佐江衆一著の『動かぬが勝』の中の一節を取ったものです。年老いて剣士を志した大店の隠居旦那が、何時までも剣が上達しないのを見て師匠が、

「下手こそや上手の上の鏡なれ
そしるべからずかえすがえすも」

うむ。ハルコ感じ入りましたね。

上手な人の料理を食べたり、見たり、教わっているよりも、自分より下手な人の料理を食べる方が勉強になる(かなり強引ですが)。これは、剣道用語で「見取り稽古の眼がすすむ」というそうです。
確かに“プロ”の店なのに「どうしてこんなに不味いものを出すのか?」と不思議に思うことがあります。
まぁ、自分の口に合わないと言ったらそれまででなのすが、往々にしてありますね。

先立っても、某所でイタリアンバル料理を食べていたときです。店は感じが良くお客も沢山いて繁盛店のようでした。
これが、どれをとっても不味い! 一体どうしたらこんな不味い料理が出せるのか超不思議!!
トリッパの煮込み(ハルコの大好物です)を頼んだら、何と噛み切れないトリッパ。いや、本当に歯が立たない。想像するだに、この料理人はトリッパの美味しいのを食べたことが無い、と結論したのです。
身体の一部(胃袋)がトリッパ出来ているハルコとしては、納得いかない味でした。
逆に、こんなトリッパ料理を初めて食べた客は、その後トリッパは二度と頼まないだろう、とも思いました。このトリッパはプロでなくてもどこが変か(間違いか)わかります。
たぶん下ごしらえはを店ではしてませんね(元々処理してあるものだと思います)。それは、ちゃんと処理されて臭みもないものです。
問題はその後の加熱方法。何回か火入れをした後の煮込み時間が足りない(通常は4~5時間)のと、強火で短時間に加熱したので、火は良く通っているが固いだけのトリッパになっていました。
まさに、「下手は上手の鏡」ですね。

本日のお薦めの1冊は、敬愛する小泉武夫先生のそのままズバリ『不味い!(まずい!)』で決定!
日常の周辺にある普通の“不味い!”ものを、科学的な見地から面白く解説しております。まさに「下手こそ上手の鏡」でございます。

●下手こそ上手の鏡料理
長年外食が主体の食生活が、ハルコ誕生とともにお家ご飯が多くなりました。
その理由のは幾つかありますが、外食に倦んで来たということも有りますが、自分で料理を作って食べる方が美味しいと感じたからです。まぁ(自慢ですが)、そこそこ料理の腕は上がったと自負しております(ハルコ! ウソを言うんじゃありません!)。あっ、奥でオクサマの声が……。

家では野菜料理が多いですね。渡辺七奈さんから頂いた「埼玉青大丸茄子」の煮浸しは、分とく山、野崎洋光さん直伝の万能だしと削節をかけて。
同じ茄子を使ったカポナータ(ラタトウィユ)も、これはル・マンジュ・トゥーの谷昇さんから教わったもの。まぁ、やはり上手から教わらないとね。

2011年10月4日火曜日

ホテルから街場へ…クラブ・デ・トラントの時代 3


2回続けてクラブ・デ・トラントの諸単を書いてみましたが、当然これは当事者が記録(あるいは記憶)したものが前提です。
それに関しては、以前お二人の方から当時の活動状況をお聞きしたことがあります。
一人は北岡尚信さん(プティポアン)です。ハルコ取材の途中で会の話しを聞きながら、当時の生資料も見せていただきました。
もう一人は酒井一之さんです。ここからは、いささか話の筋(かなりクラブ・デ・トラントからはずれて個人的なお話になります)が変わります。
クラブ・デ・トラントの時代、と大げさなタイトルを付けてしまいましたが、ストーリーは3方向あります。

一つは当事者のクラブ・デ・トラントの会員中心のお話
二つ目はそれを取り巻いたフランス料理の動向のお話<
そして、三つ目はレストランの客としてのお話

この3つが折り重なって綴られることが、1970年後半(もっと遡ればそれ以前にシェフたちのヨーロッパでの修行時代、これがまた面白いのです)から、空前のグルメブームが起きる原動力となり、レストランや食が一般性を持ち、それにより料理人がスター化し、その姿を見て多くの若者たちが料理の世界を目指す…という現様が起きました。
美食文化はかつては一部の人々の世界でしたが、その底辺を押し広げ、食産業自体の発展にも少なからず貢献したと思います。
それは80年代をピークにした日本自体の高揚感、と言うと大げさかもしれませんが、あるのです。この30年で食に関して何が起きたのかを、未来のための検証すべきだとハルコは考えています。

ハルコが語るのは当然客としての立場です。その道筋を付けてくれたのが、前出の酒井一之さんなのです。もし、酒井さんと出会わなかったら、食への関心や、ましてやハルコの活動も無かったのでは…と思うのです。

時間を30年ほど巻き戻してみましょう。1980年の渋谷「ヴァンセーヌ」に移ります。
酒井一之さんが14年に渡りヨーロッパで修行を終えて(最後はホテル・メリディアン・パリのスーシェフ)帰国してヴァンセーヌのシェフになった直後に、初めてお店にお伺いしたのです。
それから相当通い続けました。酒井さんからは、フランスの地方料理のことから食材、ワイン、調理法、フランスのシェフたち、修行中のエピソード、旅、カルヴァドスの飲み方、そして食文化……たくさんの話を聞きました。ハルコにとって、“食のマスター”なのです。
酒井さんはまた、クラブ・デ・トラントの事務局を設立当時から、一貫して担当してきたのでした。是非酒井さんにはクラブ・デ・トラントの内情を知る立場から歴史的な記録を残していただきたいものです。

●ハルコと糠漬け

写真はハルコが自宅で漬込んでいる糠漬けです。
今まで何回糠をダメにしたことでしょうか。現在は冷蔵庫に入る小さな保存容器で作っていますが、大きな琺瑯の容器など色々と試してみました。
ハルコは元々相当の漬け物好きですが、自分で漬け物を漬けるようになったのはここ10数年でしょうか。
糠を買って真水の食塩水を作り、醗酵させて捨て漬けをして丹精に作ったつもりでも、旅行に暫く行って帰ってきたら青カビ一杯で捨てるはめになったりと、苦労しております。
糠が少なくなると追糠をします。食塩を足して生姜や赤唐辛子、昆布などにビールを加えます。
海外で修行していた、ある元ボクサーのフランス料理のシェフ田辺年男さんは、パリでどうしても糠漬けが食べたくなり、パンと塩とビールで糠床を作って食べたそうです。
また、銀座の坂田幹靖さんは糠床を飲み残しのシャンパンで作りますが、これがまた絶品で香りよく、旨いのです。
あぁ、糠漬けは奥深いですね。

2011年10月3日月曜日

ホテルから街場へ…クラブ・デ・トラントの時代 2

「フランス料理の探求」(クラブ・デ・トラント著/柴田書店)口絵より。

クラブ・デ・トラントが結成されたのは1980年のことです。
少しその前の東京を中心としたレストラン事情を見てみましょう。あまり遡るのも考えものですね。洋食屋さんは明治期からありますが、戦後からにしましょうか。

ホテルや会館系統には、進駐軍によって接収された(すみません古い話で)丸の内ホテルや帝国ホテルなどがあり、接収解除になるのは1952年以降です。
街場のレストランは、イタリアンの方が早く広まってますね(イタリアレストラン興亡物語もその内書きます)。本牧に「イタリアンガーデン」(1950年)、フレンチでは同年銀座「エスコフィエ」が開店しています。
やはり進駐軍相手のレストランとしてですね。1953年は「グリル満天星」、1955年イタリアン「シシリアン」フレンチでは日比谷に「南部亭」翌年は「ニコラス」が出来ています。
1957年には帝国ホテルでバイキングが始まり、1958年には六本木の「アントニオ」が開店。アントニオは戦時中イタリアから日本へ向った軍艦が、イタリアが連合軍に降伏したので、神戸で抑留されたアントニオさんが戦後マッカーサー元帥の料理人になり、その後レストランを作ったのです。
ハルコが昔勤めていた事務所の並び(西麻布から六本木)にあり、いつかアントニオで食事をする“身分”になりたいと思ってましたね。確かその並びには「西洋膳所ジョン・カナヤ」(1971年)もありました(ハルコ青春時代を思い出す)。
そして、60年安保の時に開店したのがその後の六本木カルチャーの発信地になった「キャンティ」がオープンします。

1970年代はホテルでは、帝国ホテルが「フォンテンブロー」、ホテルオークラが「ラ・ベル・エポック」を開業し、いよいよ日本のフランス料理の幅も奥行きも出始めました。
そして、1960年代から海外に修行に行っていた料理人が帰国して、各地のホテルなどで活躍をはじめたのです。
銀座「レカン」などを経て恵比寿に「ドゥ・ロアンヌ」を開業した井上旭、六本木「オー・シュヴァル・ブラン」の料理長に鎌田昭男、六本木「ロテュウス」石鍋裕「ラ・マーレ・ド・チャヤ」熊谷喜八「ビストロ・ラ・シテ」勝又登「アピシウス」高橋徳男銀座「レカン」城悦男「ヴァンセーヌ」酒井一之とキラ星のごとくスターシェフが出てきたのです。
この時期は石油ショックで日本は不況に見舞われていました。
ホテルから街場へのレストランが増えてきた理由の一つは今思えば不況で、店舗が比較的に安く出せる背景があったのでは、とハルコは考えます。

それは10数年経てバブルが崩壊した後に、ワインバーとイタリアンレストランが林立した状況と酷似しているのです。
話は戻して、いよいよ「クラブ・デ・トラント」の結成で、東京のフレンチは開花するのです。

●神楽坂 別亭 鳥茶屋
神楽坂の鳥茶屋です。今日はここで会食会でした。久しぶりでございます。
何で鳥茶屋のうどんは太くて長いのでしょうかね。個人的にはもっと細めが好きなんですが……。
鳥茶屋へ行く前に、ウェイティングでビールとフィッシュ&チップスで軽く腹ごしらえ(?)。ハルコまで鍋で煮て皆様から大顰蹙!! その後カラオケで深夜まで。当然朝は声が枯れて、週末ウォーキングも二日酔いでダメダメ! 反省しきりのハルコでした。

2011年10月1日土曜日

ホテルから街場へ…クラブ・デ・トラントの時代 1

机の上に1981年発行の雑誌があります。
雑誌の誌名は『饗宴』で、これを発行した出版社も倒産してもうありません(ちなみにハルコもこの出版社が倒産した時に多大な被害を受けました。まったく、もう!)。
かつて、バブル期に空前のグルメブームがありましたが、この雑誌はその当時の先端を行ったものでした。書き手も、その後の日本の料理批評をリードする人材の宝庫でした。佐原秋生、山本益博、見田盛夫……その他豪華執筆陣です。

さて、その第4号・1981年秋号(季刊で五冊しか出ていない)の後半に、四谷の迎賓館を背景に12人のトックコートに身を包んだ30過ぎのオジサン(いゃ、失礼)…シェフの方々が腕を組んで映っています。
そこに書かれているのは、
「ホテルから街場のレストランへ、
最近のフランス料理の流れはしだいにこのようになりつつある。
本国でのヌーヴェル・キュイジーヌに呼応するかのように、
日本でもフランス料理を若返らせた街場の料理人たちがいる。
30歳以上のシェフ(たち)が集まったオーバー・サーティのメンバー16人。
かれらの目指すところは、たんなる同業の連帯だけではない。
高品質の魚、肉などの共同仕入れから、
ゆくゆくはフランスワインの買い付けまで広がる。
フランス料理の未来にとって、かれらに寄せる期待は限りない。」

「クラブ・デ・トラント(Club des Trente)と呼ばれるグループの始まりでした。
もう30年以上前の話でいまさら何だ、と思う方も多いかと思いますが(えぃ、年寄りの昔話しじゃ)、ハルコの敬愛するフランスの歴史家アラン・コルバン先生(Alain Corbin)のお言葉にこんなのがあります。
「歴史を知らない社会は知的に貧しい社会になりかねないことだ。少しも新しくないのに、たまたま目の前にある現象を新しいことだと勘違いする無邪気な心理が生まれてしまう。過去の体験や知識を正しく受け継いでいれば避けられるのに、それを知らないために社会全体が幼稚な錯覚にとらわれることになりかねない」(朝日新聞インタヴューより)

クラブ・デ・トラントは、海外(主にフランス)で修行した料理人たちが1970年代後半から帰国し始まりました。皆さん30代でしたが、30年の月日が経つと現役引退したり、会長の高橋徳男さん(2009年)も亡くなってしまい、ハルコは段々その当時の証言者がいなくなる危機感を抱いています。

クラブ・デ・トラントの存在は日本にフランス料理の定着を果たすとともに、全体の食文化を引き上げ、スターシェフを排出し、後に続く若手シェフたちの道標にもなったのです。ハルコはその黎明期からの歴史の検証を、“客”の立場から試みたいと思います。

季刊『饗宴』第4号(婦人生活社)1980年 9月30日発行
写真右から(カッコは当時のレストラン名)
吉野好宏(ジャンドマルス) 石神和人(ベル・フランス) 酒井一之(ヴァンセーヌ)
井上旭(ドゥ・ロアンヌ)  秋山茂夫(サンマルタン)  高橋徳男(ラ.マレ)
鎌田昭男(オー・シュアヴァル・ブラン) 青木亨(イゾルデ) 坂井宏行(ラ・ロッシェル)
熊谷喜八(ラ・マレー・ド・チャヤ) 城悦男(レカン) 寺島雄三(楠亭)
※写真にはいないメンバー/石鍋裕(ビストロ・ロテュース) 扇谷正太郎(エヴァンタイユ) 佐藤健二郎(シャトー・リヨン) 勝又登(ビストロ・ラ.シテ/オー・シザブル)

●神楽坂「蓮」
久しぶりの「蓮」です。何だか夏は(あぁ、もう秋か)足が遠のいてました。
ご存知の方も多いと思いますが、「蓮」神楽坂「石かわ」「虎白」の兄弟店(??)です。石山料理長には趣旨雑多なことでお世話になっております。毎度すみません。
鱧切りのリズミカルな音で写真を撮らせていただきました。金魚の水槽がまだ、夏の名残を感じますね。
〆はお馴染みのカレーです(たまにカレーうどんにしています)。あぁ、満腹、満腹!